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壁の心臓

作者: 雉白書屋
掲載日:2023/08/29

 ある夜。肩を落としながら自宅に帰った男は度肝を抜かれた。

 リビングの白い壁に生肉が張り付いていたのだ。

 赤黒く、ところどころ白くて、そして数箇所に

ゴムホースの先っぽのようなものがついている。

見つめていると嫌悪感が湧き上がり、吐き気を催すほどであった。

 

 あれはなんだ? まるでグロテスクなイソギンチャク。模型か? だが――


 と、男が見つめ、考えているとそれはエンジンがかかったように激しく動き出した。

男はそれでわかった。むしろなぜすぐにわからなかったのだと思うぐらいはっきりと。

 

 これは心臓だ。


 脈動する剥き出しの心臓を前に男はとうとう吐き気を抑えきれなかった。

洗面所に駆け込むどころかその場、床の上に思いっ切りぶちまけた。

そして咳を二、三度したのち軽く深呼吸をし、吐瀉物から顔を逸らすと

意図せず再び心臓が視界に入った。

 しかし、吐いたおかげか幾分か落ち着いて考えることができた。

 あれは……仕組みはモーターだろうか。しかし、一体誰がこんなことを……。

いや、待て。この心臓の鼓動、俺のものとシンクロしている?

 そう思った男は手を胸にあてた。やはりそうだ。

さらにその場で足踏みをし、鼓動を速めてみる。

男の心臓は壁の心臓と動きが完全に一致していた。

 

 ……恐らくあの心臓は俺がこの部屋に入った時から

いや恐らくその前から動いていた。

思えば、目にし、動揺した途端、動きが激しくなり

そして吐き、深呼吸した後は少し静まっていた。

 ……しかし、それがわかったところで、わからないことだらけだ。

なぜ、俺の心臓と同一の動きをしているんだ。あれも俺の心臓か?

これぞまさに度肝を抜かれたっと、ははは、少し余裕が出てきたらしい。

はははははは……ああ、原因はわかるさ。ストレスだ。


 男は今日、会社で新たな仕事を任された。

正直言って自分には荷が重い新規プロジェクト。

おまけに失敗すれば容赦なく責任を取らされる。

むしろそれが狙いなのではないかと「期待しているよ」と肩を叩いてきた上司に対し

疑心暗鬼になるほど不安を抱え、帰宅したのだ。


 ――まあ、やるしかないわけだがな。


 男はふぅと息を吐くと、仕事部屋のドアを開け、机に向かった。

 ちょうど、リビングの壁の心臓の裏であった。

 壁の向こうからくぐもった音が聴こえる。


 ドック、ドクン、ドク、ドクドクンドクドクドク……。



 止まぬ音。目を閉じても夢の中でも聞こえるその音で、満足に眠れぬ日々が続いた。


 それでも期日は迫ってくる。

 自宅と会社の往復。そこに笑顔はない。少なくとも自宅では。

 男はなるべくカフェなどに寄り、帰るようにしていた。

 あの心臓はもう見たくない。

日に日に膨れ上がり、まるで病巣の象徴。胎動する奇形児。悪魔の卵。

 壁一枚隔ててもその鼓動はまるで大音量のスピーカー。

ドン、ドン、ドンと壁が揺れるようなそんな錯覚さえも抱いた。


 期日が迫る。

 増々、肥大化する心臓。

 上司の黄色い歯とねちゃつく口内。

 同僚の目が言う『アイツは必ず失敗する』

 音は増々激しく、大きくなる


 ――うるさい

 ――やめろ

 ――動くな

 ――止まれ

 

 止まれ……。



 男は心臓を刺した。

 包丁を深く突き立てたのだ。鮮血が床に散り

心臓は塩をかけられたナメクジのように蠢いた。

 しかし、やがて力なく動きを止めた。音も止んだ。

 そして、男はいつ以来かの穏やかな気持ちで眠りについたのだった。

 永遠に。そう思うほど意識は深く、深く、ダブルベッドから地の底へ……。




 翌朝、目覚めた男はリビングに向かい、コーヒーを淹れ、すすった。

 かつてあの心臓があった箇所は嘘のようにサッパリと。

やや凹んではいるものの、その綺麗な壁を見つめたのち、ノートパソコンに目を移す。

 昨晩、作成した文書を見返すと歪な箇所がいくつも見受けられ、男はふふふと笑った。

まだ修正できる。頭が、心が澄み切っている。前と比べはるかに。

もっと早くこうしていればよかったんだ。

 男は間違い探しのように修正作業も楽しんだ。



「行ってきます」


 朗らかな笑顔で男はそう言い、ドアを閉めた。

 男が奏でる軽やかな靴の音が離れると、部屋はしんと

空気までが凍ったように静まり返った。

 

 口うるさい妻。

 何度注意しても妻同様に舐めた態度で、リビングでのボール遊びをやめない息子。

 壁に寄りかかったその二人。


 壁の心臓はもう動かない。

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