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ガラス張りの美術館から出ると、夏の蒸された空気が顔を撫でた。
夕方に近い時間でも、全く涼しくない。
雨の予報は、外れたのだろうか。
手で庇を作って空を見上げれば、曇天模様が広がっていた。
「……雨、降るのかなぁ」
「予報だと、降るみたいだけど」
「初音さん、傘は?」
「……え、と、わ、忘れたみたいで。カバンに入ってなかった」
「そう?一応、この傘、大きめだから大丈夫だけど」
「うん」
「……相合傘でもいい?」
「よ、よろしくおねぎゃいします」
「噛んだね」
「……噛んでない」
「嘘つき」
オレは苦笑しながら、傘を持っていない手で、彼女である初音さんの手を握った。
「一応、アルコール消毒してあるからね?」
「わたしもしてます」
「うん」
付き合って四ヶ月経つけど、まだ顔がゆるむ。綺麗な黒髪を軽くまとめた色白の彼女は、白うさぎのように愛くるしい。
オレよりも華奢な手は柔らかくて、夏の暑さの中でも手放すことはできない。
軽く指に力をこめる。
オレを見上げた初音さんに、思わず笑みが浮かぶ。
優しくて、生真面目で、がんばり屋さん。
理想以上の恋人だとオレは思っている。
けれど、付き合ってから気付いたが、彼女はかなりの嘘つきだった。
四ヶ月前。
桜に囲まれた上野公園で、人ごみから少しだけ遠ざかった場所で交際を申し込んで、恋人になった。
出会いは、小説投稿サイトだった。
お互いにお互いの作品を読み合って、文字だけのやり取りを繰り返して。
その感想欄で、距離を縮めて。
他愛のない感想返信がきっかけで、まさかのバレンタインチョコレートをもらい、そして今、オレの隣に彼女として、並んでいる。
奇跡だと思う。
だから、大事にしようと思っている。
今までの数少ない交際経験から得たたくさんの失敗経験をもとに、ちゃんと連絡を取り合って会おうと思った。
しかし、付き合い始めたのが三月末で、年度末。
ものすごく忙しい。
四月になっても、オレは仕事に忙殺されて、休日も会えない。
ならば、平日の夜にでも会えればと、なんとか一日だけ定時であがり、そのあとに初音さんとご飯を食べようと頑張った。
初音さんはいつでも大丈夫だと言ってくれたので、金曜日に店に予約をして会うことにした。
しかも、結果として、翌日の土曜日はシステム整備の関係で、午前中は仕事ができなくなった。
これなら、ゆっくり初音さんとデートができると浮かれていた。お泊まりとかは期待してない。期待してないったら、してない。
代わりに、ご飯を食べてからお酒を飲める店に行こうとは思っていた。下心はないったら、ないんだってば。
予約した店は、後輩が普段使いにいいとおすすめしてくれただけあって、気を張ることもなく食べることができた。
夜はアルコール系が多くでるからか、ひとり一皿の料理よりも取り分けるメニューが多く並んでいた。
にんにくの香りがほどよいアサリの酒蒸しに、黒胡椒がアクセントのラスク、バジリコソースが美味しいトマトのサラダ。
初音さんも美味しそうに食べていた。
ラスクをほおばってから、噛む姿がこんなに可愛い人がいるのかと思った。
疲れがたまっていたことと、目の前の料理が美味しいことと、食べている初音さんが可愛かったこともあって、オレはグラスワインを何種類も飲んでしまった。
初音さんは一杯だけグラスワインを飲んでいたが、楽しそうにニコニコ笑っていた。
だから、この時間が楽しくて、もう少し続かないかなと欲が出た。
「あの、もしよければ、『しらすあなご』さんも日本酒専門店に行きませんか?」
「あ、日本酒好きです。……『旅人』さん、ユーザー名で呼んでますよ?」
「……あ、つい。なんだかまだ、慣れなくて。し……は、はつねサンこそ、オレのことユーザー名でまだ呼んでるじゃないですか」
「……は、恥ずかしくて」
「……いや、それは、オレも……」
ちょっとお互いにもごもごとしながら、二軒目の日本酒専門店でユーザー名を言ったら、何か罰ゲームをしようかとか、他愛もなく話していた。
そして、お互いにユーザー名を出させようと、日本酒を飲みながらたくさんのことを話した。
カウンター席だけの小さな店で、ニコニコと笑いながらお酒を飲む初音さんが可愛いすぎた。酒の入った勢いもあり、笑っている顔を横並びのすぐ隣の席からずっと見つめていた。
今思うと、あれ、絶対にカウンターの中にいた店員は、にやにや見てた。いつもひとりで来て、日本酒を飲んでた奴が彼女連れてきて凝視してたら、にやにやするよな。わかる。わかるけど、それから毎回ひとりで行くと、
「あれ?一緒じゃないの?」
って、半笑いで言うのやめてくれ。
それはともかく。
ちょっと浮かれていたオレは、初音さんの酒の強さを見誤っていた。
つまり、飲み過ぎていた。
ずっとニコニコしているから、お酒は飲める人なのかなぁと、次々にお猪口で味見をさせてしまった。
それに、初音さんも「全然まだまだ大丈夫です」と言っていたから。
いや、酔っ払いの大丈夫は信じちゃいけないと、しらふの今なら思う。
だが、その時、オレは疲れた体にまわったアルコールで、楽しいなとしか考えていなかった。
結果、初音さんはふらふらと歩く典型的な笑い上戸の酔っ払いになってしまった。
「ごめん、飲ませ過ぎた」
「大丈夫ですから、だーいじょーぶ」
ニコニコと笑う初音さん。
うん、ダメだな。
当然、ひとりで帰らせるなんて出来なかったオレは、酔っ払った初音さんの肩を抱きながら、彼女の部屋まで送っていった。
ちょっとだけ柔らかいなーとか、腰細いなぁーとか思う時があったけど、努めて紳士的に対応したと思う。
心臓がアルコールのせいで早かったけど。
部屋まで送れば、まだ起きて待っていた初音さんの妹さんが出迎えてくれた。
初音さんは、大学生の妹さんと二人暮らしだ。