あたしは田中
地味な女の子でいるのが好きだった。
美少女戦士とかプリンセスを傍で見ているのが居心地がよかった。そういうキラキラしたものに憧れはしたが、自分がなりたいとは思わなかった。
「あのクラスの倉持さんてかわいいよな」と噂を聞くのが好きだった。あたしの名前は倉持じゃない。倉を持っている金持ちの子みたいな名前のその娘のことを好きに想像して遊ぶだけ。
あたしの名前は田中。この名前がすごく気に入っている。
佐藤や鈴木、渡辺ーーありふれた名前の話になると代表選手のように出て来る中に、田中はいつも入らない。それでいて名前の読みを聞かれることは決してない。
まさしく適度に地味な名前の代表選手、それが田中。自己紹介してもすぐに忘れてもらえるポジションの名前、それが田中。
あたしは一生田中でいたい。結婚しても名字は絶対に変えない。生まれ変わっても田中でいたい。前世も田中だったらいいなと思う。
自己紹介する時、あたしは下の名前を名乗りたくない。必要とされて唇に乗せる時、出来るだけ曖昧に、しかし聞き返されてもう一度言わなくてもいいぐらいのはっきりさで名乗る。
田中
キラ美です
人はこれをキラキラネームだという。しかしあたしはそうは思わない。「キラ」という言葉がキラキラしているのではないのだ。キラキラしているのは表されるものであって、キラキラという言葉じたいは虚無である。しかもあたしの名前は「キラキラ」ですらなく「キラ」である。申し訳程度に「美」がついているのが意味がわからない。
とにかくあたしの名前はキラキラネームではない。
ただの珍名さんである。
おばあちゃんに自分の下の名前が嫌いだと泣きついたことがある。おばあちゃんはあたしの名前を変更してはくれなかったが、こんなことを言ってくれた。
名前はね
そのひとを表すものじゃないんだよ
その名前をつけた人の希望と
つけられたひとの現在の姿を
見比べるためにあるんだ
なるほど。正直よくわからなかった。当時まだ小学生だったから仕方がないとも言える。でもあたしはその言葉を頑張って記憶した。お盆に仏壇に向かって唱えられるぐらい何度も暗誦した。今でも実はよくわかっていない。
今のところ役だったことは一度もないが、しかし、なんだかキラ美と付き合って行く勇気をもらえたことは確かだった。
そんな文章を授業中、ノートに書いていると、
「田中ー」
先生に名前を呼ばれた。
突然のことにあたしはつい、
「へい!」と答えてしまった。
しまった!
目立ってしまった!
教室中にどっと笑い声が沸き起こる。
あたしが隠れるところを探して顔を赤くしていると、怒るだろうと思っていた先生は、
「アメリカ人でもヘイ!という返事はせんぞ」
優しい声であたしの言葉をジョークにして引き受けてくれた。
「田中の前世は江戸っ子で決まりだな」
教室にまた笑いが起こった。さっきよりは静かに、くすくすくすくす。
あたしは何も答えなかった。ユーモアのある子ならここでもう一度「へい」と言うんだろうけど、あたしはそんなことをして目立ちたくはなかった。
結局先生があたしを呼んだのは、単にあたしが早弁をしているように見えたから。それだけだった。あたしはほっとした。
あたしはとことん目立ちたくない。
自分の人生の主人公は他人だと思っている。
世界一の歌姫になった子が学生時代に友達だった子の同級生の妹の隣のクラスの子というのがあたしの理想のポジションだ。
あたしの名前は、この世界では田中。
しかし、妄想の世界では、あたしの名前は『キャサリン・プルプル・シンカティーナ』である。
覚えなくてもよい。
何の役にも立たないし、テストにも出ない。
キャサリンは夢の世界ではすごいプリンセスで、なんでも持ってるし、なんでも出来る。
容姿端麗で誰からも愛され、でも結構わがまま。誰でもをは愛さない。
先生に名前を呼ばれたら「あら、何かしら、先生?」と答え、先生の頬を赤らめさせ、テレテレと頭を掻かせ、けっして「へい」なんて江戸っ子みたいな返事はしない。
かっこいい。素敵なスーパー・ウーマン『キャサリン・プルプル・シンカティーナ』。
でもあたしは田中でいい。
キャサリンにしてやると神様に言われてもきっぱりとお断りする。
キャサリンを傍から見ているのが幸せなのだ。
いえい!
人生って、楽しい。
あたしは田中。