無知故の強さ
凪沙vs聡の戦いの場は、聡の家のリビングへと移された。
正確にはダイニングかもしれない。
まあ、あれよ、いつも飯食ってるところだ。
「なんか飲む? お茶しかないけど」
冷蔵庫の前に移動した聡は、凪沙に飲み物を用意しようとした。
客人には飲み物を出す。
常識だ。
しかし凪沙は。
(聡があたしを気遣ってくれている……、好き……)
となっていた。
凪沙の拗らせ具合がだいぶヤバい。
「うん……」
辛うじて返事はできていた。
凪沙の返事を聞いて、聡は二人分のコップを食器棚から取り出し、麦茶を冷蔵庫から取り出して、テーブルへと運んだ。
しかし、そこで首を傾げる光景が目に入る。
凪沙が部屋の入口付近でモジモジしていたのである。
あいつは何をしているのだろうか。
聡は奇妙なものを見る目で凪沙を見ていた。
「何してんの? 早く座れよ」
理解できないものを眺めていても仕方がない。
聡は凪沙に声をかけた。
「お、お邪魔します……」
恥ずかしそうに凪沙は部屋に足を踏み入れる。
凪沙は聡のいる部屋に足を踏み入れることに、異様に緊張していた。
(聡の家で、聡のいる部屋に入るなんて、しかも二人きりだなんて……っ!)
リビング如きで何を言っているのだろうか。
そんな凪沙の様子を見て、聡はあることに気づく。
(ああ、泣いてるところを見られたのが恥ずかしいのか)
ある一定の年齢を超えると、泣き顔を見られるのが異様に恥ずかしくなる。
というよりも、泣いていたことを知られること自体が恥ずかしい。
聡は、今の凪沙の状況をそう理解した。
(触れないでおいてやろう)
知らない仲ではないのだ。
そこまで追い込む必要もないだろう。
聡はコップに入れた麦茶を飲み干した。
冷蔵庫で冷やされた麦茶を飲んだことで、聡は完全に立ち直ることに成功した。
立ち直った聡が、まず初めに思ったのは。
(こいつは何をしに来たのだろうか……)
だった。
聡が把握しているのは、突然来て、玄関で泣かれたことである。
意味がわからない。
そのときに、彼氏がどうのと行っていたような気がしないでもないが、目の前で泣かれたインパクトが強すぎて、他は記憶に残っていない。
わからないものを考えていても仕方なし。
聡は、直接本人に聞くことにした。
「なあ、今日って何しに来たんだ?」
出された麦茶を一口飲んで、少し落ち着いた凪沙に、鋭いパンチが脳を揺らす。
「き、聞いてなかったの……?」
渾身の告白が聞き流されていた……?
凪沙の意識が飛びそうになる。
もう一度、言う……?
絶対に無理である。
あれは行き場を失った感情が暴走して、勝手に突っ走ったからこそ行えた奇跡の行動である。
もうすでに行き場を失った感情はどこかに行ってしまっている。
もう一度は無理だ。
しかし、そんな目の前が暗くなっていく凪沙に、一筋の光が差し込まれようとしたいた。
「なんか、彼氏とか告白とか言っていたような気もするけど……、え、なに? 俺に告白でもしに来たの?」
ここで聡が今日一の察しの良さを発揮した。
もうこれ以上の好機は望めないというほどの、絶好の好機。
しかし、この好機をものにするには、凪沙に素直さが足りなかった。
「はぁぁぁぁぁ!? そそそんなわけないでしょ!? か、勘違いしないでよねっ!!!」
この言葉を聞いて、聡から自嘲のような笑いが溢れる。
「まあ、そうだよな」
「え……?」
聡があっさりと引き下がったことに、凪沙は心を引き締められるような感覚を覚えた。
このまま離れたら、二度と付き合うどころか、心の距離が縮まることがなくなるという直感があった。
果たしてそれは正鵠を射ていた。
本人に自覚はなかったが、聡にとって凪沙に拒絶された出来事は、心に大きな傷を残していた。
あんなに仲良くしたいたのに、いきなり嫌われることがある。
幼心にこれは強烈だった。
その後の友達付き合いに影響が出るくらいに強烈に突き刺さった。
聡はあれ以来、比較的浅い部分までしか心を開かなくなる。
深くまで開くと、その人が訪ねてくることがなくなったとき、強烈な寂寥感に襲われる。
それはとても辛いことである。
聡の心は守りに入った。
そしてそれは今現在も同じである。
懐かしさと驚きで開きかけていた扉が、閉じ始める。
寂しさと、チクリとした痛みを伴って。
このまま閉まれば、二度と開かれることはないだろう。
今回開いたのはたまたまだ。
二度あることではない。
このまま扉は閉められていく。
だがしかし、そうはならなかった。
「ちょっと待って!」
凪沙が聡に待ったをかける。
その顔に余裕はない。
ここで動かなくては、取り返しのつかないことになる。
本能がそう言っていた。
「何を?」
聡は、いつの間にか閉じていた目を開く。
待ったをかけたことに対する疑問。
その言葉を口にした聡の目に、懐かしさの色はなかった。
それは、学校で他の同級生と同じように向けられた、他人を識別するためだけの視線。
その視線を向けられて、凪沙は泣きそうになる。
バリアを張られた。
心の扉と比べれば脆いものではあるが、それは扉が閉じられるまでの時間を稼げればいいだけの代物。
足止めができればいいのだ。
「本当は黒田く、聡にお願いがあって……」
凪沙は即席のバリアに足を止められる。
「うん」
その間にも心の扉は閉まっていく。
「実は色んな人に告白されていて」
そのバリアの冷たさに心が折れそうになる。
「知ってる」
扉が閉まっていくほど、熱が奪われていく。
「でも、あたしには好きな人がいて」
そのことに涙が出てくる。
「そうなんだ」
扉が閉まるほど、想いは遠ざかっていく。
「その人とはちょっと距離ができていて」
すごく近くにいるのに。
「へぇ」
すごく遠くに感じる。
「だから、他の人から告白されるのが嫌で」
まるで近づけないようにされているみたいで。
「それで?」
実際に近づけないでいる。
「だから……」
そんなのは……。
「だから?」
そんなのは嫌だっ!
「あたしの彼氏役をやって欲しいのっ!」
本当の気持ちを言いたいっ。
「……」
でも、今じゃないと思う。
「駄目……、かな……?」
もっと近くに行けたときに。
「……どうして俺なんだ?」
本当の気持ちを。
「こんなこと、聡にしか頼めないよ……」
言いたいと思う。
「……」
扉が閉まる音が止む。
「……」
目の前のバリアが無くなる。
「わかったから、もう泣くなよ……」
扉の奥から熱が漏れてくる。
「え……?」
拒まれている感じはなく。
「相変わらず、泣き虫だな」
扉に触れられる距離まで来た。
「うるさい……」
嬉しさに口元が緩む。
「で、彼氏役って何をすればいいんだ?」
しかし、扉に人が通れるほどの隙間は無く。
「聡が考えてよ……」
ドアノブに手を伸ばす。
「はあ?」
伸ばした手は拒絶されることなく。
「うっ……、じゃあ入学式……」
扉をゆっくり押していく。
「入学式?」
抵抗感は特になく。
「一緒に行ってください……」
順調に進む。
「嫌だと言ったら?」
恐ろしいほどに。
「……泣く」
順調に……。
「冗談だよ」