いつかの記憶
「あー……すっかり遅くなっちゃった」
足を伸ばして赴いた視察の帰り、馬車の中で俺の正面に座る女がため息混じりに呟いた。
遅くなったと言ってもまだ夕暮れ時。こいつの家の門限が早すぎるだけだ。
「お前が店主と話し込んでいたからだろうが」
「うっ……つい盛り上がっちゃって……。でもユリウスだって今日はあの店の息子さんと何か話してたじゃない」
話していたのではない。一方的に立場というものを教えてやっていたのだ。
こいつが女だからという理由だけで舐めてかかってくる浅はかな輩は少なからず存在する。今日行った商店の息子もその1人だった。
こいつもこいつで、俺と同じ公爵家の人間なのだから相応に振る舞えばいいものを、商人としてはまだ半人前だからと低姿勢を崩さないから馬鹿がつけあがるんだ。
「……ふん、人のせいにするな。お前が遅くなると俺までエルメライト公爵に小言を言われるんだからな」
「わかってるわよ……あ、待って、すいません!!少しだけ止めてください!!」
何かに気付いたような顔で、馬車を止めた。
分かってると言った舌の根も乾かないうちにこいつは。
「ちょっと寄り道、こっち来て」
「知るか、俺はお前を置いて帰る」
「人でなし!!置いてかないで!!」
グイグイと腕を引っ張られ、仕方なく馬車から降りた。何だって俺がこいつの道草に付き合わなければならないんだ。
どう置き去りにしてやろうかと考えながら連れてこられたのは、小高い丘の上だった。
「わぁ……」
俺の腕を離して駆け寄っていった柵の向こうには、広がる街と沈む太陽が見える。
これが見たかったのか。
「えへへ、いいでしょ、この前見つけたの。ここからなら、街が全部見えるだろうなーって」
確かにここからなら赤く染まった街並みが一望できる。できる、が。
「……だからなんだ」
「なんだって……もう、浪漫がないわね!!こう、夕日が綺麗……なんて思う心は持ち合わせて無さそうだから、私達の作ったものがみんなの生活を支えてるなぁーとか……いやこれも無理か……」
「貴様は人のことを何だと思ってる」
俺を侮辱したらどうなるか、いつまでたっても学習しない空の頭を鷲掴んだ。
少し力を入れるだけで呻き声があがる。俺の手を退かそうともがいているが、無駄な抵抗だ。
「いだだだ!!じゃ、じゃあユリウスって綺麗だと思うものとかあるの!?」
「あるに決まってるだろ」
「例えば?」
例えば、完璧な計算により構築された魔術式、規則正しく並ぶ本の文字、一分の隙もなく描かれた設計図。
美しく思うものを羅列していると、指の隙間からロザリアの赤い眼が覗いた。
……あぁ、夕日よりもむしろ、こいつの瞳の方が……
「えっ待ってなに痛い!!!いつもより痛い!!!ギブギブギブ」
「五月蝿い」
「眼球圧迫されてたらうるさくもなるわ!!!」
「五月蝿い今こっちを見るな」
何を考えているんだ俺は。
こいつと居るといつもそうだ、調子を狂わされる。人の事を引っ掻き回しておいて、何でもない顔をしているから腹が立つ。
「うっうっ……今のはひどい。宰相様に言いつけてやる……」
「嘘泣きをやめろ。お前がこうして寄り道をしていることも父親にバラすぞ」
「わぁー、一番星だぁー」
話を逸らしたな。
まぁいい、俺もこれ以上この話をするつもりはない。溜息をついて空を見上げた。
天空は未だ解明の進んでいない未知の領域だ。
通説では天球がこの世界を覆い、神が太陽と月と惑星を動かし天球に空いた穴が星となると言われているが、到底信じるに値しない。
神などという不確かな存在を登場させている時点で間違っているからだ。いずれは解き明かしてやりたい分野の一つではあるが、今のところ通説を覆せるだけの観測が出来ないでいる。
毎日いつでも見ているはずなのに、全く理解が追い付かない宇宙。まるでこいつみたいだな。
「……宇宙……行きたいな……」
隣からまた無茶苦茶な独り言が聞こえてくる。
サンソがどうとか、タイキケンがとか、聞いたことのない単語はあとで問い詰めよう。
「……ユリウス」
「無理だ」
「まだ何も言ってないじゃない!!」
「言わずとも分かる。どうせ宇宙に行くための魔道具を作れとでも言うんだろう。無理だ」
どういう構造になっているのかも分からない場所に行く物など、流石に俺でも作れるか。
そもそも行くことが可能な場所なのか?
そんな発想に至ったことすら無かった。
「無理じゃないわ!!いつかは出来るわよ、いつかは!!」
「宇宙論の研究すら全く進んでいないんだぞ……何年かかると思ってる」
「いいじゃない何年かかっても。一緒に行こうよ、宇宙まで」
ふざけるなだとか勝手に巻き込むなだとか、口を開こうとしてやめた。
こいつがあんまり阿呆面を下げて笑うから、否定する気も失せた。
それに何より、何年経っても当たり前に隣にいるところを想像してしまった自分がいる。
「ふ……そうだな」
笑っていた阿呆面が、驚いた顔の阿呆面に変わった。瞬きを繰り返す姿に苛立って、眉間にを寄せる。
「……なんだその顔は」
「ユリウスの笑った顔、久し振りに見たなぁと思って」
「……笑ってない。さっさと帰るぞ」
もう寄り道には充分付き合った。
踵を返して、足早に歩き出す。
「照れなくってもいいのに。ユリウスの笑った顔、私好きだな〜」
「やかましい」
隣で騒ぎ立ててくるこいつを、何度突き放してやろうと思ったか分からない。けれど、結局今日までそれが出来ずにいる。
きっと未来の俺も、こいつといる人生を手放せないのだろう。