Combat
この状況でもっとも恐ろしいと思うことは自分が何者であるか分からないということだ。だが戦いに挑むほか選択肢はなかったのだ。
目覚めたのは病室だった。少なくとも、僕が目覚めたときに見た部屋の第一印象はそのようなものだった。僕はベッド上で寝ていて、点滴が一本、腕に繋がれていた。僕は深く考えることもなく、それを丁寧に外した。それから気がついたのだが、僕は衣服と言えるものを何一つ身につけていなかった。だが、その問題はすぐに解決した。ベットサイドのテーブルの上にきれいに畳まれたシャツ、下着、ズボンとベルトが置いてあったのだ。どれも色は黒で統一されていた。僕はすぐに衣服を身に付けた。服を着るとどこか安心感が出てきた。
やっと周囲を観察する余裕が出てきた。床も壁も天井もコンクリートで灰色一色だった。天井や壁には照明が埋め込まれていて、電球、少なくとも照明から放たれている色は軟らかな黄色みがかった電球の色だった。床も壁もコンクリートだった。だが近づいて触って見ると、きれいに磨かれているというのだろうか、冷たく滑々とした質感だった。部屋の中心の天井には空調か換気口であろう正方形の格子があった。それから僕は部屋の違和感に気がついた。窓がなかった。もちろん、ここがどこか分からない場所なのだからこの部屋に窓が必要なのかどうなのかすら…。
そこまで考えた時だった。僕は急激な不安感に襲われた。ここは何処だ?なぜ僕はここに居る?そ、それから、僕は誰だ?普通、人というものは名前というもの、もしくは番号が与えられているものだ。番号?どうしてそんな単語が出てきたのか分からない。ともかく、僕は今、自分の名前が分からなかった。
心臓の鼓動が早まったような気がした。とにかく落ち着こう。部屋を改めて見まわす。出入り口であろう扉が一つと先ほどまで僕が寝ていたベットがあり、ベットのそばに机と椅子があった。机には縦に三段の引出が付いていた。机に近づいて、僕がそこに手を掛けて手前に引くと引出は簡単に開いた。一段目の引出には青色のカバーがついたメモ帳とポールペンが一本あった。メモ帳を開いてみたが、なにも書かれてはいなかった。二段目の引出には、白色のカードらしきものが一枚と、それを首から下げるためのものであろうストラップがあった。手に取って見るとプラスチックの硬質なカードだった。それがIDで、名前でも書いてあるかと思ったが、長ったらしい番号が記入されているだけであった。それと、おそらく磁気の読み取り部分であろうか、太く黒い線が一本入っているだけであった。三段目の引出(これは上の二段より大きかった)を開けてみたとき、一瞬緊張した。そこには軍や警察で使うような自動拳銃が一丁と、それを入れるためのホルスター、予備の弾倉、箱に入った銃弾、それと小さなポーチがあった。
まず、慎重に銃を取出してみた。ずっしりとした金属の重みが感じられた。思い切ってスライドを引いてみた。
カッシャーン!
金属音が部屋に響いた。弾倉に弾は込められていなかった。僕は、こいつは玩具なんかじゃない本物だ、と思った。小さなポーチの中身は絆創膏や消毒薬なんかが収められている救急セットだった。予備の弾倉は二つ、銃弾は九ミリ口径のもので、五十発入りの箱が二つあった。
一体、これらは何なんだ?そこで、ふと気がついた。僕はこれらの使いかたを少なくとも知っている。そう思ったのだ。弾の込め方、銃の撃ち方、その感覚はすぐにでも想い出された。
「少なくとも僕は、軍か警察か、そういう方面の仕事に関わっていたみたいだな」
ここに来て初めて僕は声に出して呟いた。なんだかガサガサしていて風邪をひいているような声だった。それから、僕は机の下に靴が置いてあるのに気がついた。そう言えば、服は身に付けたが、足は裸足のままだった。靴は普通のものではなくて、いわゆるコンバットブートと呼ばれる様な代物だった。履いてみたがサイズはぴったりだった。
ホルスターはベルトに付けるような簡単なものではなく、予備の弾倉も入れるところが有り、ベストのように羽織るようにして使う大げさな代物だった。ともかく、僕は弾倉に弾を込めた。少なくとも、ここに置いてあったということは使う可能性が有るということだった。残った弾薬はポーチの中に押し込んだ。それと、ご丁寧なことにホルスターにはポーチをぶら下げるところもあった。メモ帳とペンがぴったり収まるポケットも付いていた。どうやらホルスターはそのために造られているようだった。それからカードをストラップに付けて、首から下げた。
まるで何かの戦闘員だと僕は思った。部屋の外に出るために扉に近づいた。なんだか不安と恐怖が押し寄せてきた。外には何が有るのだろうか…。そもそも僕が目覚めた時点で誰もやって来なかったし、この施設というのか建物がどうなっているかまったく思いだせなかったし、見当も付かなかった。なんだかB級映画か、脱出ゲームの主人公にでもなった気分だった。
扉は引き戸で、外の様子を窺えるような窓も付いていなかった。ノブに手を掛けようとして、僕は少し迷った。銃は構えておくべきだろうか?用心に越したことはないだろう。僕は銃を片手で構えてドアノブらしき所に手を掛けた。すると扉は音もなく自動で横にスライドした。僕はドキッとした。まさか自動で開くとは思いもしなかった。それからゆっくりと顔を出して外の様子を窺った。
廊下が左右に伸びていた。廊下も部屋と同じようにコンクリートの灰色一色で壁の天井に近いところに照明が埋め込まれていた。薄暗く黄色みのある明りで、部屋とさほど変わらなかった。廊下に出ると部屋の扉はひとりでに閉まった。廊下の左右には等間隔に扉が並んでいた。
廊下を進んでいると、突きあたりを黒い影が素早く横切った。どうやらT字路のような形になっているようだった。僕はてっきり、人が横切ったものだかり思っていた。だがそれは間違いだった。その黒い影は、後ずさりするようにして廊下の先に再び姿を現した。それは、どう見ても人間ということがはばかられた。まるで影そのものだった。真黒で手が以上に長く、顔には目も口も鼻も、それらしいものは一切なかった。考えるより早く、身体が動いていていた。ホルスターから拳銃を抜き取ると素早く照準を合わせ、ダブルタップで相手の胴体に銃弾を叩きこんだ。銃声の余韻と、薬莢がコンクリートの上を転がる音だけが響いていた。その不気味な真黒い奴は、何の音も発さなかったが、明らかに痛みを感じていると言わんばかりに身をよじっていた。その直後、その黒い奴は膨脹したかと思うと廊下の断面一杯に広がり、四角い壁となってこちらに向かってきた。
僕はそこで我に帰り、軽くパニックになった。ともかく反対側に向かって走った。そして最初に居た部屋に飛びこもうとした。
<ドアノブが見当たらない!ドアはどうやってあける!?>
僕は心の中で叫んだ。そうしているうちにも黒い壁がどんどん近付いてきた。
「そうか、カードだ!」
僕は首から下げたカードをとにかくスキャナーと思しき所に差し込んだ。ドアは音もなく開いた。僕が部屋に飛びこむと間一髪といったところでドアが閉じた。だが安心するのは早かった。直後にドアが上げしく叩かれた。次第にドアが凹み始めた。これはまずいな。とにかくベッドを動かしてドアの前に持ってきた。だがこんな対処では付け焼刃だろう。ドアはまだ烈しく叩かれている。部屋に窓はないし、ドアは一カ所だけ、そうしたら換気口しか残されいなかった。僕は机を引っ張って来てその上に立った。格子を引っ掴んだが外れる気配がなかった。
「勘弁してくれよ」
ドアはじきに壊れそうだった。今度は格子を押してみた。格子は抵抗もなく動いた。格子を換気口の中に追いやると、縁に手を掛けて、何とか重い身体を引き上げて換気口の中へと入り込んだ。格子を再び元の位置に戻すのと同時にドアが破られた。僕は息を堪えて下の様子を窺った。黒い奴は最初見たときの人の様な姿に戻っていた。やつは部屋の中に入り、周囲を一瞥すると外へ出て行った。その直後だった。
「あんたは新入りみたいだな」
換気口の中に声が響いた。突然声を掛けられた僕は心臓が飛び出る思いだった。そして目の前には屈強な感じの男が顔をこちらに向けていた。僕は思いっきり換気口の中で頭頂部を打ちつけていた。
「おいおい、そこまで驚くかよ。大丈夫か」
その男はフランクな感じで声を掛けてきた。
「ええ、心臓が止まるかと思うほど驚きましたが、大丈夫みたいです」
<頭は痛いけどな…>
僕は心の中で付け加えた。
「よし、あいつは出て行ったようだな。降りるぞ」
「だ、大丈夫なんですか!」
僕は思わず問い返した。
「あいつら、一度入った所にはしばらく近づかない習性を持っている」
それだけ言うと男は手慣れた動作で部屋に降りていった。ここにとどまっていても仕方がないので僕も部屋へ飛び降りた。
換気口から這い出た僕は話を続けた。
「あ、あの、彼方はここが何なのか御存じなんですか」
「ああ?はっきりとは知らんさ」
ためらいも無くあっさりとした返事に、僕は肩を落としてしまった。その様子を見てとったのか男は、「まあ俺の考えではだ。ここはきっと仮想現実さ。俺たちゃプレイヤーってとこだな」と言った。
「ヴァーチャルリアリティってわけですか。そんな、信じられませんよ」
僕は次から次へと目の前で起きる事態について来れてなかった。
「つい最近、あの影みたいなやつに飲まれた仲間は目の前で消えたんだ。少なくとも現実じゃないだろう」
男は遠くを見るような目をして言った。
「プレイヤーって、こ、これってゲームなんですか」
「そんなことは分からん。ただの比喩だ。だが、あんたも装備を与えられていたんだろう?これまで見てきたやつにはナイフだけなんて奴もいた。それにあの影みたいなつも上手くすれば倒せる。ほんでもって、倒すとその場から消えるんだ。まるでゲームだ」
「仲間がって言いましたけど、今は…」
「拠点がある。俺は斥候役みたいなもんだ。では、行こうか」
男は淡々とした様子で言った。あっけに取られている僕に向かって彼は続けた。
「とにかく、生き延びること、進むことだ!それしか手はない」
combatという単語には『戦う』という意味がありますが、他にも『~に対処する』『~をなくそうと努める』といった意味がるようです。