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豚骨魔法少女博多ン  作者: がっかり亭
4/5

悪い奴らに拳骨

 あれから一週間たち、5月2日。

 これは博多どんたくの前日だ。

 そして、奴が残した言葉通り、それは起きた。

「うあああああああああああああ!?」

「きゃああああああああああああ!?」

 街じゅうで巻き起こる悲鳴。

 あまりにも突然の出来事だった。

「豚骨だああああああああああああ!?」

「スープが……スープがあああああああ!?」

 街全体に漂う豚骨の香り。

 その日、福岡市じゅうの水道水は、全て豚骨スープに変っていた――

 南畑、脊振、曲渕、江川、久原、長谷、猪野、瑞梅寺の8つのダムが福岡市に水を供給している。

 その三千万立法メートル以上の膨大な水が、全て豚骨スープになっていたのである。

 原因は不明、テロにしても意味不明な上にスケールが大きすぎる。

 パニックになった政府も自衛隊派遣を決定したが、派遣したからといってどうなるわけでもない。

 その間にも、各家庭で、商店で、工場で、豚骨は溢れ続けた。

 阿鼻叫喚なんてもんじゃない。

 シャワーを浴びれば頭から豚骨を被る事になり、水を飲もうとすればこってりスープがお出迎え。

 たちまち街は大混乱に陥り、コンビニやスーパーからミネラルウォーターが消えた。

 自動販売機は軒並み売りきれ。

 人々は水を求め、さまよった。

 一日を待たずして、市外に逃げ出す者も続出した。

 事態を重く見た福岡市も急遽近隣の県から給水車を集め、各公民館に派遣する事を決定。

 水を求めて人々は公民館に集まっていた。

 そんな中に、俺もいた。

 学校は当然ながら臨時休校。

 店もこんな状態で営業できるわけもない。

 水を入れてもらうために持ってきた煮炊き用の鍋を片手に、公民館内の畳の上で給水車の到着を待つ。

 他にも多数の人たちが集まってきていた。小さな公民館がぎゅうぎゅう詰めになるくらいだ。

 そうやって待っている間も、ずっと豚骨の匂いは漂い続けている。

 実家がラーメン屋やってる俺は当然平気だが、他の人たちは辛そうだ。

 悲しいが、若い女性には髪や服に匂いがつくと敬遠する人もいる。

 そうでなくても、こうもどこに行っても匂うのでは、流石に気も滅入るだろう。

「……もう、しばらくラーメンは食いたくねえ……」

 ぼそりと誰かが呟いた。

「……俺も」

「もうラーメンなんて見たくもないわ」

 次々と声が上がる。

 ……。

 俺は鍋を残し、外に出た。

 ここではないどこかの、空気が吸いたかった。

 と、公民館の外に出た直後、突如雲をスクリーンに、人影が映し出された。

 それは、犬鳴峠の姿だった。

「博多の諸君、御機嫌よう。ほとんどがお初にお目にかかる。私は破壊組織シュラウドのリーダー・犬鳴峠」

 にわかの仮面を被った壮年の男が、博多の空で笑う。

 その声に、公民館の中に居た人や、そばの家から次々人が出てきて天を見上げた。

「君たちが愛した豚骨の香りに包まれた気分はいかがかな?」

 普通なら有り得ない異常な光景。

 豚骨の匂いでむせ返りそうになる中、犬鳴峠の声だけが響く。

「……どうした? 嬉しくないのか? 君たちの誇りだろう。もっと喜ぶがいい。ふはは……ふははははははははは! はははははははははははははははははは!」

 狂ったように笑う犬鳴峠の声だけが響き続けていた。

「ははははははははははははは……!」




 気がつくと、俺はマツリの神社――古門神社に来ていた。

 理由は、自分でもわからない。

 足が勝手に動いたみたいに、本当に無意識だった。

 俺は、何とはなしに賽銭箱に5円投げ込む。

 そして、手を合わせてみた。

 が、何にも思い浮かばない。

 何を願っていいか、浮かばないんだ。

 水を戻してくれって、頼んで効いてくれるだろうか?

 みんなにまたラーメンを食べてくれって頼むなんて、そんなバカな話はない。

 結局、何を願う事もなく、振り返るとそこに見覚えのある顔があった。

「あ……」

「あ……」

 それは、マツリだった。相変わらず巫女の格好をしてたが、当たり前と言えば当たり前か。

「よ、よう」

「……どげんしたと?」

 俺は憔悴した顔でもしてたんだろう。

 マツリが心配そうに聞いてきた。

「この匂いでわかるだろ。……商売あがったりさ」

 自嘲を込めて言うと、マツリの顔が悲しげに歪んだ。

「……?」

「そげんしょぼくれた顔せんで、ま、水でも飲まんね」

「いや……」

 別に、と言おうとしたが、確かに喉は乾いていた。そりゃ、蛇口からは豚骨スープしか出ないからな。

「ほら」

「お、おう。ありがと」

 渡された湯呑の水は、のどごし冷たく、体に染みた。

「……悪いな。今、水買うのも大変だろうに」

「うちは井戸があるから平気ったい」

 笑顔で指差した先には、なるほど井戸が見えた。

「で、なして元気なかと?」

「だから、この匂いが……」

「それだけ?」

 それだけって……。

 いや……。

「……わかんねえよ」

 自分が信じて来たものが崩れてしまったみたいで……。

 何が原因とか、もうそういう事じゃない気がした。

 そんな俺の顔を覗き込み、

「きさんば見よると、父ちゃんば思い出すったい」

 突然、マツリがぽつりとつぶやいた。

「父ちゃん?」

「ん。博多を好いとお人やった」

 その目は遠くの空を見ていた。

 やった……と過去形なのは、つまり……。

「誰よりも博多を愛して……今のこの博多を見たら、どげん思うやろかね」

「マツリ……」

 何て声をかけたらいいかわからなかったが、何かを言おうとした次の瞬間――

 ぞくっ、と背中を悪寒が走った。

「なっ……!?」

 居た。

 それは、ごく自然に現れていた。

「もはや、結界としての力も残っていないようだな」

「き、きさんは……」

 参道の端に立っていたのは、犬鳴峠だった。

「何で貴様がここに!」

「静かにしたまえ。君に用はない」

「がはっ!」

 何が起きたかわからなかった。

 奴が指を鳴らしたと思ったら、俺は膝をついていた。

「次郎丸!」

 呼び捨てかよ……と突っ込む余裕もない。

 自分の頭の上から、大きな手で押さえつけられているような、とてつもない圧力だった。

「何、別に戦いに来たのではない。そういきり立つな」

「……っ!」

 見れば、マツリは拳を固めて犬鳴峠を睨みつけていた。

「無茶……は……よせ」

 マツリは知らないだろうが、こいつはシュラウドの首領。チャカやグレネーディアより強いのはわかりきってる。

 一介の女子高生がどうこうできる相手じゃ……。

「いや、こいつだけは許さん!」

 そばにあった箒を構えるマツリ。

「無駄な事はやめろ。私はもう勝った。なぜ戦う必要がある?」

「勝った? 何が勝ちか!」

「ああ。勝ちだよ。その証拠に、変身すら出来ないのだろう?」

「……っ!」

 今、何て言った?

 変身……だと?

「なぁ、博多の守護者……」

「やめんか! それ以上……」

 一瞬、マツリが俺の方をちらりと見た。

 そこには、はっきりと焦燥の色が見て取れた。

「そう、祇園纏……いや豚骨魔法少女博多ン」

「言うなあああああああっ!」

 箒で躍り掛かるマツリだったが、犬鳴峠の指が鳴り、その場に土下座するように叩きつけられた。

「ぐ……」

 コイツが……博多ン?

 そんなわけ……。

「て、てめえ……何をやってるんだ! ……やめろ! こいつは、博多ンなんかじゃない!」

 無理やり起き上がる。

 膝がぎしぎし嫌な音を立てるが知ったことじゃねえ。

「ほう。なかなかのラーメニックエナジーだな」

 僅かに感嘆の声を漏らす犬鳴峠。

「しかし、意味のない事だ」

 もう一度、犬鳴峠が指を鳴らすと、俺の体はより激しく地面に叩きつけられた。

「あがっ……!」

 上から力士でも乗ってきているかのような猛烈な重圧が全身に圧し掛かる。

「心配しなくても殺しはせん。勝利が決定しているのに、なぜ命まで奪う必要がある?」

「ぐぎ……何が……勝ちだってんだよ……」

「言ったろう。私はもう勝利している。前回のものが宣戦布告なら、今日は勝利宣言だ」

 そんな事の為にわざわざ来たってか……!

「もう博多は終わりだ。郷土への愛着が反転し、憎しみへと変わった。これから豚骨の匂いがするだけでも暴れ出す……そんな暴徒にもなるだろう」

「ふざけんな……! んなわけ……」

 あるか! ……その言葉が続かなかった。

 喉に引っ掛かったまま、音が飛び出さない。

 それは、不可視の重圧からではなく、悔しさからだった。

 呻く俺たちを睥睨して、犬鳴峠が苛立たしげに舌打ちする。

「そもそも我々が何なのか、君たちは理解しているのか? 難しい話ではない。場というのは、それ自体が力を持っている。そう、博多ンのようにな。では、それに敵対する力もあるという事だ」

 博多ンが、その名の通り、博多を守護する存在だとすれば……。

 滅ぼそうという意思も存在する……?

「勘違いしないでもらいたいのは、我々は博多を滅ぼそうという意思ではない」

「な……何?」

「世界を滅ぼそうという意思だ」

「な……そげんこつ……」

 想像していたものを上回るスケールに、博多ンもまた息を飲む。

 冗談にしか聞こえない文面にも関わらず、犬鳴峠の淡々と、そして冷徹に伝える声が、それが真実だとはっきり知らせていた。

「世界の滅びは、絶望だけから望まれるのではない。誰しも何かが上手くいかないと世界のせいにする。そして自分が変われぬ腹いせに世界が滅ぶのを望む。君たちにも経験があるのではないのか?」

 確かに……それは、ある。

 学校で大恥をかいた時、単純に自分だけ彼女が居ないことに気付いた時――ちょっとしたことで世界が滅びればいいなんて思ってしまう。

「そう。所詮、一地方都市の守護意思が敵う相手ではないのだ」

「そ……その割には、やる事がせこすぎるじゃねえか」

 有機溶剤をまき散らすだの、ダムを豚骨に変えるだの……。

「くだらない事なのが重要なのだ。場を歪めるには、不条理係数を上げねばならぬ。しかし、最初に殺人やテロなどからはじめると、常識の反作用に潰されてしまう。「なぜ」に明確な答えが出てはならない。不思議は不思議であるがゆえに、その真理は誰にも触れることが出来ぬ。そして歪みは肥大化する」

「言ってる……意味が……わからねえ」

「人が殺された時、動機が不明瞭でも、それは異常犯罪として常識の世界に取り込まれる。だが、都市伝説はどうだ? 人面犬や口裂け女の目撃談が、常識の範囲に戻るか? 現実にはあり得ないと誰もが思いながら、異常犯罪やテロのように、常識で事を片付けられん。一件ならいたずらで処理できよう。だが、それが100件なら? 1000件なら? 気が付いた時には全てが歪みきっているのだよ」

「う……」

 確かに、ここ最近変な事件が続いていた。

 それを、もう当たり前のように受け入れるようになって来ていた……。

 クラスでも、地方ニュースでも……。

 それは、コイツの思い通りだったって言うのか……?

「卑下しなくてもいい。ここだけが特別なのではない。これは全国へ波及して行く。日本が、世界が崩壊するのもそう遠くない」

 涼しげに言うこいつの顔に、腹の底へ熱い血が溜まって行くのがわかった。

 こいつがどれだけ理屈を並べようが、関係ない。

 煮えたぎるマグマのように、何かが体を駆け抜ける。

 それは、きっとマツリも同じだった。

「うううううう……!」

 立ちあがろうとする、マツリ。

 その目から、熱いものが零れ落ちる。

 それでも歯を食いしばりながら、立ちあがり、そして――

「変……身!!」

 マツリは手を二度叩いた。

 それは、博多手一本と言われる博多独特の手締めのように、シャンシャンといい音を立てた。

 瞬間、その体が光に包まれ、巫女服が水法被へと変わってゆく。

 ああ、本当に……。

 本当に……。

「マツリが……博多ンなのか……」

 そこに立つは、博多ン。

 しかし、犬鳴峠の謎の重圧は解けていないらしく、膝は震え、汗だくだった。

「馬鹿め……!!」

 そんな博多ンの姿に、犬鳴峠は憎々しげに吐き捨てた。

 この男が、こんなに感情をあらわにするのは初めてだ。

「ラーメニックエナジーも無いのに無理に変身してどうするつもりだ! 見ろ、既に浄装(じょうそう)も消えかかっているではないか」

 浄装とはおそらく博多ンの水法被の事だろう。

 博多ンの服は、光の粒子になって端から消え始めている。

 素人目に見ても、その力が長くないのは明白だった。

「せ……せからしか!!」

 苦悶に顔を歪めながらも、博多ンは前に進む。

 拳を握りしめ、犬鳴峠に殴りかかった。

 その裂帛の気合に辺りの砂埃が巻き上がり落ち葉が舞う。

「愚かな」

 犬鳴峠は直視しようとすらせず、再び指を鳴らす。

 今度は砂埃がスクリーンの役割を果たしたため、俺にもはっきり見えた。

 弾いた指から衝撃の波が生まれ、それが重力を発生させているのだ。波がぶつかった埃や落ち葉が、瞬時に地面に押しつけられていく。

 音速の攻撃をかわせるはずもなく、重力波が博多ンをまともに直撃した。

「眠っているがいい」

 ――が。

 博多ンは倒れない。

「うううううううっ!!」

 歯を食いしばり、そのまま倒れ込むように拳を放った。

「な……」

 反撃など予想だにしていなかったのだろう。

 博多ンの拳が、犬鳴峠の顔面にまともに突き刺さった。

 にわか面が宙を舞う。

 現れた顔を見た博多ンの目が見開かれ――

「……父ちゃん!」

 直後再び指が鳴り、博多ンを地面に縫い付けた。

「がふっ……!」

 衝撃で、博多ンの法被が光と化して爆ぜ消えた。

 博多ン――いやマツリは裸で倒れ伏し、動かない。

 仮面の下から現れた犬鳴峠の顔は、ごく普通の壮年男性のものだった。

 しかし、その表情は深く刻まれた眉間のしわが示す通り、怒りと憂いに満ちている。

 まるで、怒りが形を持ったような……仁王像や明王像のようで、人のそれとはとても思えなかった。

「父など言われるいわれはないが……見苦しい」

 犬鳴峠は上着を脱ぐと、マツリの上に放り投げた。

「負け犬らしく這いつくばって見届けろ。この街の最期をな」

 言い残し、犬鳴峠は消えた。

 それに合わせて、俺に圧し掛かっていた加重も消えていく。

 だが、立つ気にはなれなかった。

 そんな気力も無く、暫く呆然としていた。

 だけど。

 腹の底で煮えたぎっている何かは、消えてくれなかった。




 暫くして、社務所の縁側で、俺とマツリは茶を飲んでいた。

 喋るきっかけがなかなかつかめない。

 意を決して切り出すと――

「博多ン……だったんだな」

「バレ……ちゃったばいね」

 声が重なる。

 その後、某お笑いトリオの持ちネタのように話を譲り合う羽目に。

 らちがあかないので、俺から話す事にした。

「博多ンって……そもそも何なんだ? 博多の守護者とか言われてたけど……」

 他にも聞きたい事はあったが、まず聞くとすればここからだった。

「それは……」

 マツリはぽつぽつと語り始めた。

 博多ンとは、もともとは博多を守る巫女の神事だという。

 かつては、豚骨魔法少女なんて名前ではなく、男装で神楽舞を行う巫女舞だったそうだ。

 ここで言う男装とは、博多祇園山笠における締め込み姿を指し、当時の男性同様、上半身裸で締め込み姿だったという。

 博多祇園山笠は女人禁制の神事であり、疫病の流行に対し街を清めるために始まったものだ。

 それと対を成すような、女人によって魔を祓う儀式だったわけだ。

 あのグレネーディアのように、その場にふきだまる闇は放置すると人に取りつき害をなす。

 ゆえに、巫女が闇を祓うのだ。

 その「博多ン巫女」が縮まり、「博多ン」となったのだという。

 無論、それを代々行って来たのがこの神社である。

 陰から世を守る秘事の意味合いが強いため、その姿を見た者が居ても、場の力が認識に働きかけ茫漠とした印象に変えてしまうらしい。

 それで、マツリだって認識できなかったのか。

 きっと、敵も真逆の力で認識に作用させて、暗躍してるんだろう。

 大別大神の力を巫女に下ろし、魔と戦う力と姿を得るというが、実際には博多という場を通じて集まるエネルギーをその身に纏っているのだそうだ。

 すなわち、それが博多を愛する心であり、ラーメニックエナジーなのだという。

 それは場に集まるエネルギーであるがゆえに、時代の影響を受ける。

 この現代においては巫女という存在より、魔法少女という方が、共通認識としてわかりやすかった。

 ゆえに、無意識の最大公約数的イメージによって魔法少女になったのだ。

 ……戦う女性の最大公約数のイメージが魔法少女って大丈夫かこの国。

 ともかく、それが博多を代表するソウルフードであるラーメンと結びつき、豚骨魔法少女となったというわけだ。

「っていうか、なんだよラーメニックエナジーってネーミングは……」

「父ちゃんがつけた名前ったい。本当は天人心(あまのひとごころ)って名前けど、そん方がわかりやすかろって……」

 その顔が沈み込む。

 そうなんだ。

 あの犬鳴峠は、はっきり「ラーメニックエナジー」と言った。

 彼女の父しか知らないはずの単語をだ。

 第一、肉親であるマツリが見て、父だと断ずるのだから父なのだろう。

「……本当に、親父さんなのか?」

「……」

 マツリは答えなかったが、小さく頷いた。

「そうか……その……甘髪みたいに操られてるんじゃないか?」

 マツリは首を左右に振る。

「違う……と思うとよ。理由はわからんばってん……」

 言葉は弱々しかったが、どこか確信めいたものがあるらしい事は伝わってくる。

「……どげんすればよかっちゃろか……」

「どげんって……」

 俺もマツリも満身創痍。

 奴の戦略で、博多を愛する心が奪われたため、博多ンもまた、力を失ってしまった。

 もう変身もできないだろう。

「諦めるしか……ないっちゃろか」

 ぽつりと呟いた言葉が、重い。

 俺も、思わず頷きそうになった。

「……嫌だ」

 だが、口から出た言葉は、違った。

「え?」

「俺は嫌だ。諦めたくなんか……ねえ」

 言葉にすると、勇気が出る。

 もう、止まらなかった。

「俺達の博多だ! それを壊すとかふざけた話、ほっとけるかよ! それに、ラーメンだってこんな風に利用されて絶対許せない! そうだろ!?」

「……次郎丸……」

 まくしたてるように言った俺を、マツリが優しい目で見ていた。

「……す、すまん」

「いいとよ。それが次郎丸のいいとこやもん」

 そう言われると、凄くむず痒い。

「ど、どうしたんだよ。妙にしおらしいじゃねえか」

「な、なん言うか。人がほめたらこれたい」

 顔を真っ赤にして小突いて来る。

 なんだろな……こいつもちょっとは可愛らしいとこあるじゃん。

「でもホントよ……」

 と、マツリは俯いた。

「次郎丸は凄かね……人一倍ラーメニックエナジーに満ちとおけん、記憶もはっきりしとおよ。……それん比べてあたしは……」

「そんな事はねえ!」

 思わず声が出る。

「俺がくじけそうになった時、いつも目の前にお前が戦う姿があった。だから俺は動けたんだ。卑下なんかするな」

 ぱちーん、と小気味良い音が響いた。

 マツリが自分の頬を叩いていたのだ。

「……んっ。そうね。あたしらしくなかったったい。仕切り直し!」

 言って、にかっと笑う。

 ああ、俺はやっぱりこいつには勝てねえな、と思った。

「その意気だ! ……とはいえ……実際どうしたもんか」

 何しろ、敵はダムを豚骨スープに変えるような化け物。

 その上、その豚骨テロで街中がパニックになって、今や豚骨の匂いだけでもみな嫌悪感を示す始末……。

 なんにせよ、まずは博多ンに力を取り戻してもらわないことには話にならない。

「ラーメニックエナジーってどうやったら増えるんだ?」

「みんなが、こん街ば愛する心を取り戻したらすぐにでも……」

 ううん……。

 漠然としすぎている上に特効薬がない。

「くそっ。街を愛すもなにも、みんな溢れる豚骨スープに怒り狂ってるってのに……!」

「せめて……ラーメンが食べられたらいいとにね」

 ん?

「今なんて?」

「え? ほら、スープしか出らんから、せめてラーメンが出てきたら食べれようもんって」

「……!」

 それだ!

 俺の頭の中を、ひらめきが駆け抜けた。

 



 街を包む絶望が伝わって来る。

 馬鹿の演技は少々こたえるが、まぁいいだろう。

 それだけの効果は得られた。

 郷土愛が裏返った時、人は標を失い、破壊の徒と化す。

 こうして一つの街が滅ぶ。

 シュラウドとは、死者にかける布を指す。その名の通り、都市の終焉を告げる組織なのだ。

 ここは橋頭保に過ぎない。

 福岡から九州全土へ、中国地方へ。そして日本全国へ。

 やがては世界全てを崩壊させ、シュラウドを纏わせてやる。

 我が身の内に潜む破壊衝動は、未だ満足していないのだ。

 次の計画の為に手駒を増やさねばならんな。

 流石にダムの全てを別の物質に変換するのには能力を使いすぎたが……グレネーディアのように使える駒が居ればいいのだがな。

 この時代だ。心を揺さぶるだけで闇に落ちる人間は幾らでもいる。

 これだけ都市を穢す事が出来たのだから、一から生み出すのも難しくあるまい。

 絶望は満ち満ち、闇を生み出す。

 闇は破壊へと至る。

 ……?

 ……なに?

 ……おかしい。

 絶望の総和が減少している……?

 有り得ない。

 あの状態から希望を見出すなど不可能だ。

「よう! 聞こえるかにわか野郎!」




「よう! 聞こえるかにわか野郎!」

 空に向かって叫ぶ。

「豚骨ラーメンを嫌いにさせる作戦とは恐れ入ったよ……だがな!」

 俺は、どんぶりを掲げる。

「博多には、替え玉があるんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 どんぶりの中には、ラーメンの麺。

 そう、俺達は井戸の水で麺を炊き、たくさんの替え玉を用意した。

 そして、それを無料で配布しまくったのだ。

 結果は――

「兄ちゃん、替え玉おかわり!」

「……ダイエット中なのに、責任とりなさいよね。……替え玉バリカタで!」

「こうなりゃヤケだ! ダムのスープ飲みつくしまおうぜ!」

「替え玉追加! あと焼酎!」

 特設会場と化した神社の境内は、超満員の人だかりだ。

 ブルーシートを敷いて、花見状態でラーメンパーティをしている。

 何しろ、スープのおかわりが欲しければ蛇口をひねればいい。

 無料ということもあって、人は次々押し寄せる。

 じいちゃんや唐人おじさんは屋台を引っ張って、別の場所で替え玉を振る舞っているはずだし、虹乃姉も知り合いのラーメン店などに協力を仰ぎに右往左往している。

 おかげで、これに賛同してくれたラーメン店があちこちで替え玉を振る舞ってくれていた。

 水は、同じように旧家の井戸から次々運んでいるし、唐人さんみたいな強者になると玄界灘の海水を煮沸して作った水で、どんどん麺をゆがく。

 次第に人が増え、俺もきりきり舞いになるほどだった。

 そんな中、嬉しい事が一つ。

「わたくしにも手伝える事ないかしら……?」

 そう、甘髪が現れたのだ。

 すまなそうに、今にも倒れそうな彼女は、しかし、はっきりと自分の口でそう言ってくれた。

 自身の父の経営するコンビニからミネラルウォーターをかき集め、賛同してくれた屋台へ運んでいくれた。

 彼女が系列店の他のコンビニにも頭を下げてくれたおかげで、井戸がない地域でも、次々と替え玉をゆがく事が出来たのだ。

 今も各店を回って頼み込んでくれているだろう。

 甘髪も、闇を振り切ったんだ。

 そして、前に進みだした。

 だったら、この街だって同じはずだ。

 福岡に点在する千数百店のラーメン屋が、一斉に替え玉を配るとどうなるか――

 やがて、街はお祭騒ぎとなっていた。

 この祭騒ぎに黙っていられないのが博多っ子だ。

 翌日に控えたどんたくを勝手に前倒しし、思い思いの衣装で街を練り歩き始めた。この神社の境内も人であふれているが、既に外の道も人だかりが出来ている。

 その活気は、本番に勝るとも劣らない。

 いや、魂はそれを超えていた。

 俺も一人でも多くの人にラーメンを食べてもらえるように茹で続ける。

 この熱を、自分の中で留めておくことなんて出来るわけがない。

 だから、叫ぶ。

「聞こえてるんだろ犬鳴峠!! 見やがれ! これが博多だ! なめんじゃねえ! どいつもこいつも気に入らねえんだよ! 博多を穢すだあ? 世界を破壊する? ふざけやがって! 気に入らねえんだよ! てめえも! てめえらも! 左遷みたいに言いやがるアイドルグループも芸人トリオも! 博多ナメてんじゃねえ! 博多は日本一だ! 文句があるならかかって来やがれええええええええええええええええええええええええええええっ!!」

 力の限りの叫び声を空にぶつける。

 直後、雷が落ちるような激しい音と共に、空間が裂けた。

 境内に突然現れたそれは、先ほど現れた際の余裕など、もうどこにもない。

 犬鳴峠は鬼の形相で現れた。

 もはや人のそれを超え、額には第三の目が現れ、髪は逆立ち、その怒りの深さを表している。

「貴様ら……なぜ諦めん! 無駄な真似を……!」

 わめく犬鳴峠。

 そんな闖入者に対し、集まった人々は油に落とした水のように避け、遠巻きに見ていた。にわかの面がないために、空に映った人物とは思われていないらしい。

 それでも、コイツが諸悪の根源と言う事は、肌で感じたんだろう。

 みな一様に、鋭い視線を犬鳴峠へ向けていた。

「横入りは禁止だぜ。麺が欲しけりゃ並ぶんだな」

 俺は、湯切りしながら言う。

「貴様!」

「悪いが、あんたの言葉を借りるなら、さっきのは勝利宣言だ。もうあんたの負けだ」

「何だと……!」

 そう。

 人々が、博多の誇りを取り戻した時に、勝負は決していたんだ。

 俺は、視線を本殿の方へ向けた。

 賽銭箱の置かれた正面奥、本殿のふすまが開く。

 現れたのは、巫女姿のマツリ。

「ぬ……!」

 思わず犬鳴峠までもが息を飲んだ。

 それほどに、マツリの雰囲気は落ち着き、静謐さを湛えていた。

「シュラウドの首魁、犬鳴峠」

 どこか神託めいた静かな、そして力ある声。

「そん正体が何か……それはもう知らん。あたしは博多ん守護者として、きさんを許すわけにはいかん」

 その声が、段々と熱を帯びてくる。

 さながら、噴火直前の火山のように。

「ふ……ふっ、面白い。ここが希望の発信源ならば、貴様を打ちのめし、この乱痴気騒ぎを粉砕し、全てを無為に……」

「しゃーしぃ!!!」

 犬鳴峠の言葉をさえぎり、マツリは強く足を踏み出す。「しゃーしぃ」即ち「うるさい」。敵の首領を断ずる気力に満ちた一言だった。

「博多ん心、確かに受け取ったばい!」

 ラーメニックエナジーとは、郷土を愛する心だという。

 実はこれまで、豚骨ラーメンを食わせたから回復していたわけじゃなかった。

 豚骨ラーメンという触媒に込められたその愛郷心が博多ンに力を与えていたのだ。

 だが、もうそれも必要はない。

 博多の街中に満ちた博多を愛する心が、今、マツリの下へ収束していっていた。

 混じり気のない、純度100%の博多愛が彼女を満たす。

 そして――

「よーっ!」

 マツリが手を叩き、シャンシャンと音が鳴る。

 それに合わせて光がマツリを包み、その姿を博多ンへと変えていく。

 が、彼女はそこから更に手を叩いた。

「まひとつ!」

 シャンシャン。

 博多ンを成していた光が爆ぜ飛び、再度収束する。

 より、力強い姿へと。

 溢れ出るラーメニックエナジーが、博多ンを更なるステージへと上り詰めさせていく!

「な、なんだと……!?」

「ラーメニックパワー全開……!! 豚骨魔法少女博多ン・パーフェクトフェスティバル!!」

 博多ン・パーフェクトフェスティバル――それは博多の心が結集した、最強の姿。

 若鷹の翼を背に、雪うさぎのように赤い瞳、手には騎士の槍のような傘鉾、純白の法被にはまばゆく輝く花自動車のような装飾、そして締め込み。

 額にバイザーの如く被ったにわか面は、かつての犬鳴峠のそれと違い、どこか自信に満ちた輝きすら感じさせていた。

 威風堂々たる、博多の正統守護者の登場に人々が湧きあがる。

 博多っ子の誰もが、肌で感じていた。

 これこそが、博多を守護するヒーローの姿なのだと。例え、博多ンを知ってようと知るまいと、もう魂が伝えていたのだ。

「お櫛田さんに代わって、きさんばぴしゃっと成敗するたい!!」

「くっ……」

 その全身から噴き上げる深紅のオーラ。微細な粒子が、辛子明太子のように赤く煌めく。

 瞬間、その粒子が引き延ばされる。

 凄まじい速度で博多ンが移動したのだ。

「がはっ!?」

 逆三角形に三つのひし形が組み合わさった雪の結晶のような意匠――福岡市の市章の形――の鉾先が、犬鳴峠の腹に突き刺さる。

「ぐ……こんなものが何だと言うのか!」

 犬鳴峠は、闇を纏った拳で殴り返す。

 しかし博多ンは、地下鉄赤坂駅のマーク――赤坂のアと赤坂駅そばからスタートする福岡国際マラソンのランナーを図案化したもの――のように華麗に舞い、攻撃をかわした。

 博多ンはかわした勢いを回転に変え、ローリングソバットを犬鳴峠の腹に叩き込む。

 その衝撃で吹っ飛んだ犬鳴峠は、空中で一回転し指先で地面を叩いて体勢を立て直し、それが戻るや、両手に闇を収束させた。

「……もう手加減はせん。全身の骨を砕きつくす!」

 犬鳴峠が両手の親指を小指に当て、そのまま人差し指まで一気に弾いた。

 瞬間、発生する八連重力波。

「!」

 博多ンはそれをまともに食らう。

 だが、止まらない。

 鉄の塊が落ちて来たかのような凄まじい音を立てながら、一歩一歩進んでいく。

 その姿を見た周囲の人々は、自然と叫んでいた。

「まっ、負けるな!」

「頑張れ嬢ちゃん!」

「行けーっ、お姉ちゃん!」

「頑張るんじゃあ!」

「そこで頑張らんばたい!」

 その声に呼応するかのように、博多ンは一歩一歩進んでいく。

「愚かどもめらが……!」

 犬鳴峠は両手を祈るように重ねた。

 その掌中で圧縮される闇。

 極限まで凝縮されたそれは、

「Dark to Dark」

 傾けた手の間から水鉄砲のごとくレーザーと化して放たれた。

 闇の光線という矛盾した一撃は、重力に縛られた博多ンを直撃する。

「マツリっ!」

 吹き荒れる闇の爆風に、思わず叫んだ。

 が――

「本名言うとはマナー違反たい!」

 闇を引き裂き、博多ンが飛び出した。

「そろそろシメの時間ばい!」

 傷を負っているものの、その全身から満ち満ちた気力が伝わって来る。

「ぬ……ならば!」

 傘鉾の間合いに入る寸前、犬鳴峠はその手に闇のムチを出現させ、振り回した。

 その威力は凄まじく、傍にあった石灯籠がバターのように両断される。

「くっ」

 博多ンはそれを傘鉾で受けとめた。

「浅はかな!」

 その傘鉾に、蛇のようにムチが絡みつく。

 闇より生まれたムチは、それそのものがブラックホールのように触れたものを飲みこむ性質があるのだろう。

 締め付けと圧縮が同時に発生。

 見る間に傘鉾を粉砕した。

 その勢いで博多ンに迫る……が、遅い。

「うああああああっ!!」

 博多ンは拳を握り締め、ムチを潜り抜ける。

「チッ」

 犬鳴峠は咄嗟にムチを放し、両手の小指から人差し指までを弾き、再び多層の重力波を放ち、闇の盾を生み出した。

「うおあああああああ!!」

 構わず博多ンは突っ込む。

 ガラスが割れるような音と共に、多層の闇が一枚一枚砕けていく。

 その最後の一枚に博多ンの拳が衝突した。

「おのれっ……!」

 闇の盾の反対側には犬鳴峠。

 ヤツもまた盾に手を当て、博多ンを押し返さんと力を込める。

「おおおおおお!!」

「ぬううううう!!」

 進む博多ンと押し返す犬鳴峠。

 一進一退の攻防。

 二人の間から吹き荒れる衝撃の余波に、近づく事すらままならない。

 だから、叫んだ。

「負けんなーっ!」

「いけーっ!」

「そこだ!」

「頑張れっ!」

 俺も、周囲の人たちも。

 喉が裂けんばかりに、叫ぶ。

 その声に、博多ンが一度だけ振り向いた。

 にっ、と笑う博多ン。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 闇の盾を粉砕し、博多ンの光り輝く拳が犬鳴峠のみぞおちに突き刺さった。

「う、うごあああああああああああああああああ……!!?」

 凄まじい威力の一撃に、犬鳴峠の全身から闇が溢れだす。

 そして、拳から放たれる光と混じり合い――

「まずい!」

 直観的に危険を感じた俺は、博多ンを引きはがそうとそこに向かって飛び込んだ。

 手が博多ンにかかるかかからないかという刹那、光と闇の拮抗が崩れ、大爆発を起こした。

 その光と闇の奔流は、あっという間に二人を、そして俺を包み込み――




 気がつくと、何もない空間に立っていた。

 足元は雲のように霧がかり、地面であるかもわからない。

 そんな茫漠とした空間に、他に二つの人影が見えた。

 一つは博多ン。

 そしてもう一つは、犬鳴峠だった。

 いや……犬鳴峠の雰囲気は、どこか以前と違って見える。

 その顔に張り付いていた邪気は消え去り、まさに憑き物が落ちたような表情だった。

 しかし、その身には蛇のように闇が巻きついている。

「……よくぞ、成長した。マツリよ」

 犬鳴峠がぽつりと呟く。

「や、やっぱり……」

 博多ン――マツリの声が震える。

「父ちゃん!」

 ……やはり犬鳴峠の正体は、彼女の父だったのか。

 感きわまったマツリは、そのまま父に抱きつこうとする。

「近づくな!」

 それを彼は鋭く制した。

「な、何でね……?」

「今の私は、お前の父・祇園(ぎおん)浄水(じょうすい)であり、シュラウドの首魁・犬鳴峠でもある。お前のおかげで闇の支配が弱まり、こうして話す事が出来ているが、いつまた闇が溢れだすかわからんのだ」

「な……」

 その言葉通り、犬鳴峠――浄水さんの全身を覆う蛇が活発に動き回る。

「なら、そん闇ば祓って……」

「……不可能だ。なぜなら、私は既に闇と一体になっている。お前の級友のように闇が取り憑いたのではなく、自ら闇を封じたためだ」

「な……なしてそげなこつ……」

 確かに……何でそんな事を……。

「女人禁制の山笠が博多の表の神事なら、巫女が悪鬼を払うのが裏の神事。マツリ……お前の母さんも、お前と同じように守護者として戦った。そして……」

 言葉を切る浄水さん。その表情から、何が起きたかは容易に想像がついた。

「……命を落とした」

「……っ」

 マツリが息を飲む。

「私は、お前に同じ末路を辿ってほしくなかった。それに、私は……永遠に続くであろうこの戦いに、疲れていた。それを……娘に引き継がせたくなどなかった。ただ幸せにあって欲しかった……」

「だから……父ちゃんはそん身に、破壊衝動ば全て封じ込めたばいね……」

 ……なんて事だ。

 彼は、娘を守るために、たった一人で闇に立ち向かったのか……!

「そうだ……少なくとも……これで百年は瘴気が発生する事はない……はずだった」

「だが……私の考えが甘かったよ。それは終わりなき使命から逃げ出したい弱さだったのかもしれない。そこに破壊衝動はつけこみ、気がつけば守るべきこの博多を無くしてしまおうとしていた……」

 彼の眼にあるのは、遠い故郷に想いを馳せるような、そんな光だった。

「そう……博多が無くなればお前は解放される……そんな矛盾に簡単に取り込まれてしまったのだ」

 ……そうか、犬鳴峠はだから二度も俺達の前に姿を現したんだ。

 娘にこの件から手を引かせるために、わざわざ力の差を見せつけた。それでありながら、命まで奪おうとしなかった。

 闇に取り込まれ、自身が矛盾に突き動かされる中、矛盾を持って娘を救おうとしていたんだ。

「私が間違っていた。この街の人たちは、こんなにも街を愛し、これだけの力を示した。闇は1人でどうこうするようなものじゃない。みんなで力を合わせて乗り切って行かなくてはならないんだ」

 それから、浄水さんは俺の方へ一度、視線を向けた。

「お前には、大切な仲間がいる。私も……もう何も心配していない」

「お父ちゃん……けど……」

 マツリは、眉根を歪め、今にも泣きだしそうな顔になっている。

 だが、浄水さんはそんなマツリへ刺すように鋭い視線を送る。

「さぁ、私を討て。マツリ。このまま放っておけば、闇は再び収束し、新たな犬鳴峠となるだろう」

「待って下さい」

 俺は見ていられず、自然と割って入っていた。

「闇は街を守護する意思と対を成す破壊衝動だと聞きました。なら人がいる限り、ここで祓ってもまたいつか現れるはずです。あなたがここで犠牲になる事はない!」

「駄目なのだ。私の身の内にある闇は、本来百年単位で現れるはずだったそれを封じたもの。今祓わねば、すぐにまた大いなる害を成す。一時的に弱った今しかそのチャンスはないのだ」

「そんな……」

 信じたくない……でも、彼の周りに巻きつく蛇たちは、刻一刻と大きくなっていっている。

 ツッコミならいくらでも言葉が浮かんでい来るのに、こんな時に限って言葉が続かない。

 何て声をかけたらいいかわからない。

「ありがとう。君は優しく、そして勇敢だ。そんな男がマツリのそばにいると言うなら……私も安心して天に昇る事が出来る」

 浄水さんはそう言うと、マツリへ視線を戻す。

「私に終わりをもたらしてくれ。守護者への変身に博多手一本が使われているが、最後の締めの手打ちを行えば、闇は祓われるだろう」

 博多手一本は、初めに二回柏手を打ち、続けて再度二回柏手を打つ。最後に三度打ち、締めとする。

 博多ンへの変身にこれが使われているのは、儀式的意味合いなのだろう。既に変身時と二段階変身時に柏手は打っている。

 まさしく、終わらせるための締めの柏手を残すのみ。

 変身と調伏までが一連の儀式とするなら、確かにそれで儀式が完了し、闇が祓われるのも頷ける。

 だが、それは闇と一体となった浄水さんをも消し去る事を意味しているのだ。

「……っ」

 マツリは、父の願いを聞き、柏手を打つべく、両手を合わせた。

 が、その手が止まる。

「こ、こげな……で……できん……ばい。だって……」

「やるんだ! ここでやらねば、すぐに邪悪は甦り、博多を……いやこの世界を襲う。やるんだ!」

 首を横に振り続けるマツリを、浄水さんは一喝する。

 それから、不意に優しい視線を、娘へ向けた。

「父さんと母さんの愛した街を……お前が守ってくれ」

「……!」

 マツリと、浄水さんの眼が合う。

 他人には決してわからない、二人の間の絆が、そこにはきっとあったのだ。

 マツリは、ついに頷いた。

「わ……わかったばい」

 彼女が顔を上げた時、瞳にはっきりと力が篭っているのが見て取れた。

 だが、まだその声は微かに揺れていた。

 俺は、そんなマツリの後ろに立つ。

 そして、彼女の両手に自分の両手を外からかぶせた。

「あ……」

 彼女の手は、震えていた。

「俺が、手伝います」

 マツリは振り返って俺を見、再度頷いた。

 手の震えは、もう止まっていた。

「済まない……頼む」

 浄水さんは目を閉じた。

「……行くばい」

 意を決したマツリが言う。

 両手が正面に掲げられ――

「祝うて三度」

 シャシャンシャン。

 済んだ音が、三度鳴った。

 その音に送られるように、浄水さんの姿は足元から光に包まれてかき消えていく。

「幸せに……な」

 最後に、そんな声が聞こえた気がした。


 そして、全てが光に包まれた――


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