第二章 逃走、そして捕縛(4)
そのままティアはヴィートに横抱きにされ、城の中に入って行くと、とある部屋へとやってきた。元は、恐らく夫人の寝室だったのだろう、真ん中に天蓋付のベッドの置かれた、白基調の上品で女性的な部屋であった。
だが、そんなヴィートの周囲にはわらわらと護衛の兵達がいて、お世辞にもいい雰囲気とは言い難かった。なので、ヴィートはそれを下がらせると、ティアをそのベッドの上へと横たえていった。
「これからここがお前の部屋だ。戦場なので残念ながら侍女はいない。あとで代わりに身の回りを世話する兵士をつけよう」
そう言って、ヴィートは微笑みと共にティアの顔を覗き込む。だが、それにティアは、恐怖で身が固まったようになっていた。硬直した体を何とか動かしながら、彼から逃れるよう、ずるり、ずるりとその場から後ずさってゆく。だが、すぐに背はベッドの背もたれについてしまい、これ以上動けなくなる。逃げ場をなくしたフィナ、目を見開き、ひたすらおののきに体を震わせてゆく。すると、
「そんなに怖がるな」
ティアに手を伸ばしてくるヴィート。思わずティアは、その手を勢いよく叩き落としてしまう。鳴る、小気味よい殴打音。
「て……」
思わずヴィートは呟く。
「あなた……あなたなんかに体を許すものですか! 敵のあなたに! 私の体はルフィノのモノ、あなたにではないわ!」
凄みを利かせて、ティアはそう言い放つ。それは、心から彼を嫌悪した物言いで、ヴィートは思わず不機嫌な顔をする。そして、剣呑な表情をして、問答無用とでもいうよう、ティアの肩を荒々しくつかむと、
「子供が! 子供が誰の子だか分からなくなってもいいのですか!」
叫ぶように、ティアはそう言ってゆく。それは嘘。絶対体を許したくない。その思いから、咄嗟に出たティアの嘘だった。そう、ルフィノとの間に体の関係はない、残念ながら。だが、こんなことになるなら、体を許しておけばよかったとさえ思う。言ってしまった事に、どう結果が出るかとおののきを感じながら、ティアはヴィートを強いまなざしで見る。すると、叫ぶように出たその嘘は、意外にもヴィートに、効果的に働いた。
「子供? おまえ、奴と婚前交渉があったのか?」
「そ、そうよ」
それに眉を顰めるヴィート。そして、その表情のまま、ヴィートは掴んだ肩から手を放すと、思わずといったよう項垂れて溜息をつく。その後続くのは、何かを考え込むような、長い沈黙。それを、何? 何? という思いでティアは見つめていると、おもむろにヴィートは彼女から身を離し、ベッドの端へと座っていった。そして全てを振り払う様、ティアに向かって人差し指を左右に振ってゆくと、
「六か月、六か月の猶予を与えよう。結婚式、その他諸々はその後だ。だが、お前は俺の妻だからな。お前の心がどうでも」
そう言って立ち上がり、ヴィートは部屋の扉へと歩いてゆく。そう、恐らくこの部屋から立ち去ろうというのだろう。そして、そのまま扉を開けると、思い出したようにヴィートは振り返り、
「あ、そうだ。明日、ここを出発する。ここも一時の宿、コルノに帰る途中だったんだ。その心づもりでいろよ」
どうやら、ルータ攻略は完全に終わったようだった。きっと、後の事は他の者に任せ、今は故国へと戻る途中なのだろう。誰が今のルータを統治しているのか、王都は一体どうなっているのか、それは分からない。だが残念なことに、ルータがコルノの手に落ちてしまったのは、やはり確実のようだった。この現状に唇を噛みしめたい思いになりながら、消えゆく彼の姿を目に焼き付け、ティアは恨みの眼差しでそれを見送ってゆく。すると、
バタンと扉が閉まる。ヴィートの姿が視界から消える。その瞬間、ティアは一気に体の力が抜け、睨む眼差しも解いて、ホッと胸を撫で下ろしてゆく。そして、
とりあえず、六か月の猶予ができた。それは一時の処置にしか過ぎなかったが、ティアにとっては大きな事であった。
だが、非常に緊迫した場面であった。本当に自分の身に危機が及ぶかのような……。どうにかそれが解け、安堵の時がやってくると、ティアの後に残ったのは、大きな大きな虚脱感だけであった。
★ ★ ★
それから、やはりあれ以降ヴィートはこの部屋にやってくることはなかった。そう、ヴィートと顔を合わせることは、あれ以降なかったのである。そうして訪れた翌日、無事な自分の体を感じて、とりあえず六か月間、この身は守られるらしいことを実感した。まぁ、当たり前といえば当たり前なのだが、どうやらティアはまだ信用されていないようで、この部屋から出ることを許されなかったのだ。それが故の、この状況であるといえたのだ。幾人かの兵士を与えられ、身の回りの世話は彼らがやる。そして扉の前には護衛と称した監視の兵が。だが、ティアはその方が気楽だった。あの、コルノ王と顔を合わせるよりは。
そして目覚めた翌朝、兵士達に手伝ってもらい、この地を出る準備をした。すると、
「王妃陛下、これをどうぞ」
渡されたのは、見覚えのある雑嚢だった。そう、王城から逃げる時に持ってきた、あの荷物である。懐かしい思いになりながら、ティアはその袋を手に取る。
逃げている時は必死で、じっくり中を見ている暇もなかったが、今はこのルータの持ち物を、故郷の持ち物を、じっくり味わってみたい気持ちになった。
袋を開け、中のものを取り出すティア。そこからは、櫛やら、着替えやら、防寒具やら、火打石やら、いろいろな物が出てくる。そして全部取り出して、それらをベッドの上に置くと、他に何か入ってないかと、袋を逆さにして振ってみた。何度かそうしていると、中から不意に一枚の丸まった羊皮紙が落ちてきた。何かと思って、ティアはそれを広げてみると、それは、
「あ……」
そう、それは、かつてルフィノがティアに送ってきた手紙だったのだ。ルフィノがルータの近衛兵司令官でなく、父であるランブラス卿の騎士だった時の。戦地へと赴いた場所から送ってきた懐かしい手紙だった。どうやら、お守り代わりか何か、侍女が気を利かせ、大切にしていたこれを荷物の中に忍び込ませてくれていたらしい。ときめく思いにとらわれ、ティアはそれを読んでゆくと、そこには日々の出来事や、ティアへの思いが繊細に丹念に綴られていた。文字が頭に入ってくる度、その時の状況が思い出され、思わず胸が熱くなってしまうティア。そして、ルフィノに会ったのはそれほど時を置いた訳ではないのに、懐かしい思いが胸にこみ上げ、思わず泣き笑いの表情になってしまってゆくのだった。そして思うのは今のこの状況。救いのない、ルフィノを裏切るようなこの状況。それに、ティアは苦しいような気持ちになると、あまりの悲しさに今度は表情を悲痛なものに変え、更に涙を零してゆくのだった。そして、切ない思いにその手紙を抱き、
お願い! ルフィノ、無事でいて! お願い!
安否のしれぬ者への愛しい思いに、周りにいる兵士達にも構わず、号泣してゆくティアだった。