第一章 不吉な影(3)
そうして、ティアの気持ちにも構わず、逃走への準備が始まった。慌ただしく、侍女達がティアの室内を歩きまわる。ティア自身にも侍女達が取り囲んでいて、下着姿でベッドに転がる彼女を前に、さて次はどうしようかと皆は頭を悩ませてゆく。そう、
「服は、華美なものを避けましょう。そうですね、地方の地主の娘、程度の服装はどうでしょう」
「でも、それでは姫様お得意の剣が振るえないわ。もし、敵に見つかった時を考えたら……」
「姫様は逃走するのですよ。目立ってはいけないのです。それも、ルータの王族とばれては。姫様が武装なんて、滅相もない」
「なら、敵に見つかったら? 戦わねばならないではないですか。なら、せめて男装して、剣を隠し持つくらいは……」
「姫様にはちゃんと何人かの護衛がつきます。勿論騎士のような立派なものではなく、傭兵のような恰好をした。姫様が戦う必要はありません」
「そうよ。良家の子女を守って道を行く、傭兵達、そんな感じよ」
「でも……」
そうして喧々諤々とした相談の後、ティアが着せられたのは、上流といっても、下の方に位置するような子女の恰好であった。それは、ちゃんとストーリーに合った服装、センスだってそんなに悪くない。そう、取り敢えず、仕事は為しえたのだった。だが、侍女達はまだ不安だった。その不安に、本当にこれで大丈夫かと、訝しげに侍女達はティアを見下ろしてゆく。すると、やはりまだ何か足りなかった。それは何かと、侍女達は相談してゆくと、
ガバッ!
おもむろに、ティアは侍女にドレスのスカートをめくられた。そして、露わになった太ももに革製の何かのホルダーがつけられた。まだ真新しいそのホルダー、そこに納められたのは刃の長めな短剣で……。
そう、恰好は女の子らしい愛らしいモノであったが、いざという時の為、やはり武器を隠し持たせることにしたのである。それがあの短剣だった。そう、これで身を隠し、また身を守ることができる。これこそ準備万端。きっと、今度こそ大丈夫だろうと、侍女達は満足げに頷く。そう、ようやく、服は終わったのだった。後はぐしゃぐしゃになった髪を整えたり、化粧を施したり、といった作業だけだった。侍女たちは、まだ涙のおさまらないティアを起き上がらせると、ドレッサーの前へと彼女を連れていった。
そうして泣き喚くティアに四苦八苦しながら彼女の身だしなみを整えてゆく。本当に、うんざりする程手を焼かせてくれたが、それでも何とか様になり、彼女自身の準備は終わっていった。後は、
「荷物の支度はもう整ってますか?」
侍女頭のルシアは振り返ってそう叫び、他の者達に目をやる。すると、それに荷物の用意係だった侍女たちが明るい顔をして雑嚢を掲げ、
「はい!」
だが、ティアはまだ納得がいってなかった。涙を流しながら、相変わらず嫌だ嫌だと頭を振っている。すると、不意に、
「王都の門が、王都の門が破られました!」
きっと、早駆けの使者だろう、その者の声がこちらまで響いてきた。それに、緊張が走るティアの部屋内。もしかしたら……という思いが皆の胸によぎる。
そして、事の成り行きを息を詰めて皆は待っていると、しばらくして、
トントントン
ティアの部屋の扉をノックする音が聞こえてくる。
「はい」
緊張に、声を震わせながら、返事をする侍女頭のルシア。すると、
「姫様の準備は終わりましたか?」
男性の、低い声がこの部屋に響いてくる。
「はい」
少し息をついてから、ルシアがそう答える。
「少々、中へ入りたいのですが……」
悲痛な顔で見合わせる侍女達。そう、とうとうその時が来てしまったかと、思ったのである。そして、
「どうぞ、中へ」
と、来訪者を中へと導くと、それは、傭兵のような恰好をした男達であった。人数は四人、それを見て、ルシアは何度か深呼吸して心を落ち着けさせると、
「どういった、ご用件でしょうか?」
すると男達は、敬意を示すようティアを見て頭を垂れ、
「ソリーリャにコルノ軍が侵入して参りました。現在市街戦になっておりますが、王城へやって来るのも時間の問題かと思われます。我々が付き従いますので、お逃げを」
やはり、という声があちらこちらで上がる。そう、とうとう来るべき時が来てしまったのだ。ざわめきが襲う室内。ティアのことも心配だが、この先のこと、この国のこと、そして自分のことが不安になり皆口々に不安の言葉を漏らしてゆく。そう、コルノは蛮族。野蛮で礼儀を知らない民族、そう教えられていたから。
しばし、自分達のことばかりになってしまうその室内。だが、それをティアは冷ややかな眼差しで見つめていた。そう、このわずかな時をついて、涙を乾かし、冷ややかにティアは彼女達を見ていたのだ。そして、あっさりとこう言った。
「逃げたい奴は逃げればいい。今がいい機会だわ。だけど、私は逃げない!」
うろたえる侍女達。だが、すぐにルシアが自分の仕事を思い出し、
「ルーベン様、姫様をよろしくお願いします」
この四人の兵士のリーダーらしい、傭兵姿の男の一人に、そう声を掛ける。それに頷くルーベン。すると、
「だから、私は行かないと!」
叫ぶティア。どうやら、あくまで抵抗しようという気のようだ。だが、そんな彼女の声など耳に入らないよう、ルシアは兵士達に向かってクイックイッと目くばせをする。そう、ティアを連れてゆけと。すると、それを合図として、ティアに近寄ってゆく兵士達。そして、逃げようとするティアの退路を塞ぎ、その腕を取る。
「嫌だ、嫌だー!」
途端に暴れ出すティア。全く、本当に見事な暴れっぷりだったが、こちらは成年男子四人なのであった。そう、ティアが敵う訳がないのであった。あっという間にティアは拘束され、そのまま抱えられて兵士達に部屋から出されそうになる。すると、
「あ、少々お待ちください」
それに待ったをかけるルシアの声が辺りに響く。そして、兵士達に、
「脱出路は確保してあるのですか?」
「はい。代々王家に伝わっている、秘密の隠し通路があります。そこから、ソリーリャの外へ出ることができます」
納得したように頷くルシア。
「分かりました。では……」
そう言って、ルシアは侍女達を振り返る。
「ラナ、あなたもついてゆきなさい。ついて、姫様の身の回りのお世話をするのです」
ラナと呼ばれた一人の若い侍女、その突然の呼び出しに、一瞬驚いたような表情をする。だが、それも当然だろう。そう、生きるか死ぬかの逃避行に、自分が選ばれたのだから。戸惑ってしばし呆然とするその侍女。だが、すぐに覚悟を決めたよう、真摯な眼差しを浮かべると、コクリ頷いてゆく。立派だった。恐れを見せることもなく、それに頷いてゆくのだから。そう、この逃避行についてゆくことを決めたのだから。そして、ティアの元へとラナは近寄ってゆくと、
「荷物を。姫様の荷物を」
その言葉に、荷物の準備をしていた侍女が慌てて走ってきて、それを渡す。
「逃走の方角は? どこへ逃げるつもりです?」
「隣国のジーヴァウームです。陛下の妹君が嫁いでいます。そのつてを頼って」
ルーベンの言葉にコクリと頷くラナ。そして皆の方へと向かってお辞儀をし、
「では、姫様を無事ジーヴァウームまで届けてみせます」
そう言って、まだ兵士の腕の中で暴れまくっているティアにつき従って、その部屋から出て行ったのだった。