第三章 コルノにて(2)
アッソへと到着したのはまだ日も高く、時は遅くなっていない頃であった。なので、その日一日は片付けやら何やらで忙しく、ティアも何も考えずとりあえず時を過ごすことが出来た。だが、翌日になり、物事が一段落つくと、
暇だ……。
何もやることがないことに気付く。
ごろんとベッドに横になり、暇をつぶしてゆくティア。
とりあえず、自由がきくのは自室だけという軟禁生活は終わった。城内、庭も含めた場所、つまり城門さえ出なければ、その中での行動は自由ということになった。それはそれでよかったのだが、いかんせん何をしていいのかわからず、ティアは困り果てる。そうして、結局その日は自室でゴロゴロして時を過ごし、一日を終えた。そう、唯ゴロゴロしただけでそのまま就寝を迎えてしまったのである。そしてやがて迎えた翌日、
「お前は何をしたい」
身支度を終え、ダイニングで朝食を取っている時の事であった。共に席についていたヴィートから、不意にそんな話が切り出される。それにティアは驚いていると、
「昨日、お前はずっと暇そうにゴロゴロしていたと、侍女から報告があった。暇は嫌だろ。何かやりたいことがあるなら取り計らってやる。言ってみろ」
確かに、憂鬱な朝だった。一体今日は何をすればいいのかと、悩んでいた朝だった。なので、その言葉にティアは嬉しさがこみあげてきて、思わず表情を笑顔に変えると、
「ならば……」
そう、ティアは呟く。そして勢いよく、
「剣!」
思わず、顰め顔になるヴィート。
「は、流石、姫将軍とあだ名のあった王女だ。だが、却下だ」
それにティアはムッとする。
「やりたいことがあるなら、取り計らってやるといったじゃない。素直に言ったまでよ」
「お前はまだ心はあっち側の人間だ。コルノの人間じゃない。そんな人間に武器なんて渡すかボケ」
「ボケとは何よ、ボケとは」
あまりの言いように、思いっきり不貞腐れるティア。だがヴィートは、そんなティアに構っていられないようで、彼女に向かってパタパタと手を振ってゆくと、
「ボケだからボケと言ったんだ。そう、女なら女らしく、刺繍とか、楽器とか、ダンスとか、そこらへんをやっておけ。以上」
それに、またもムッとするティア。
そうなのだ、取り計らってやると言ったのは彼だったのだ。なのに、提案されたのはこれなのだから。確かに無茶とは分かっていたが、それにしてもあんまりな内容に、ティアはそのムッとした表情のまま、
「じゃあ、刺繍」
「妥当だな」
だが、本当にやりたかったのはこれなのだろうか? 何となく、いいように丸め込まれたような気がして、ティアはどこか納得いかない気分になる。確かに、何もやらないよりはいいのだろう。だが、なんだが無理やりやることを決められたようで、
まったく、せっかくの機会なのに……。
思わず心の中でそう愚痴る。
そして朝食の後、ティアは相変わらずぶつぶつ心の中で文句を言いながら、言った言葉通り刺繍を習うこととなった。
場所はあてがわれたティアの自室。
教師は侍女の一人、エレナという少し歳のいったふくよかな女性だった。
「では王妃陛下、早速授業に入りましょう」
「はい」
部屋の隅っこにテーブルと椅子を置いて、そこで授業を始めてゆく。だが、慣れないせいか、この雰囲気にティアは思いっきり飲まれていた。そう、背筋をピンと伸ばし、緊張の面持ちをし、全くらしくない様子を見せて……。そうしてティアはエレナの言葉を待っていると、
「王妃陛下は、刺繍とか、それ以外にも、縫い物はしたことがありますか?」
優しく、そんな問いかけをエレナはしてくる。それに勿論、首を横に振ってゆくティア。剣一辺倒だった彼女、刺繍なんて女らしい作業とは全く無縁だったのだ。
すると、それに微笑みで返してくるエレナ。どうやら幸いなことに、エレナは厳しいタイプの教師ではないようだった。こんな自分でも受け止めてくれる、それを感じてティアはホッと胸を撫で下ろすと、さて、授業、授業と、自分自身に気合を入れてゆく。
そうして始まった刺繍の授業の内容とは、
「まずは玉結びからですね。基本中の基本です。針と糸を手に取ってください」
では、から始まり、早速エレナは針と糸を手に持ってそう言ってゆく。それにコクリと頷き、針山から針を抜き、糸を取って適当な長さに切るティア。そして、「糸を針の穴に通して……」と言いながら、エレナがそうしてゆくのを見て、ティアも真似て糸を針の穴へと通していった。
「ここから玉結びに入ります。えー見ていてください」
糸の端を持ち、くるりと人差し指にその糸を巻きつけ、くるくると巻き込みなが糸を抜いてゆき、その巻いた糸をきゅっと絞るように上に引っ張って糸の端に玉を作った。
それを見て、へぇ……と、感心したような表情を見せるティア。意気込んで、早速ティアも真似してやってみる。すると、形は歪だが、まぁ何とかそれらしいのができ……。
「最初ですからね。そんなものでしょう。慣れればきれいな玉ができますよ」
微妙な出来に眉を顰めるティアに、エレナは励ますようそう言って、白い布を渡す。
「では、基本の縫い方をまず学んでゆきましょうか。とりあえず今日は、この布に縫ってゆきましょう」
コクリと頷くティア。
「まずはランニングステッチです。基本中の基本です。それだけにとても簡単ですよ。ただ、下から刺して、少し行ったところで上から刺す。そしてまた少し行ったところで下から刺して、少し行ったところで上から刺す。それを繰り返しながら、まっすぐに縫ってゆくのです」
スイスイと、見事なお手本を見せながら、その白い布にエレナは針を通してゆく。それにティアは感心しながら、ふむふむといった感じでエレナの手元を見つめてゆく。そして、こうやって、ああやってと、やり方を頭に叩き込みながら、針と糸があるつもりになって、真似して手を動かしてゆくと、
「では、王妃陛下もやってみましょうか」
やる気満々にも見えるティアの行動に、エレナは満足げに微笑んでそう言ってくる。
ドキリと鳴るティアの心臓。
そして、そんなエレナの促しに、ティアはおずおずと針と布に手を伸ばしてゆくと、
「……」
そう、実際やってみると、布をどうやって持って縫ったらいいのか、それさえも分からなかったのだった。針と布を手に思わずあたふたしてしまうティア。すると、それを察してか、エレナはティアの手を取って、
「こちらの手はこう、こちらの手はこうです」
持ち方の指南をしてくる。それに頷いて、再び縫うことに挑戦してゆくティア。まず、布の下から刺して少し進み、上から刺す、そしてまた少し進み、下から刺して、少し進んだところで上から刺す。何度かそれを繰り返した。だが……。きれいに真っ直ぐ進むエレナのモノとは違ってティアのは、かなり見るも無残だった。下から刺して、少し進んで上から刺す時、すなわち、糸が上に出てくる時、まっすぐでなく、斜めに出てきてしまったり、一つの線、一つの線の幅が、それぞれ違ったりしてしまうのである。だいぶ進んだところまで来て、広げて見てみると、点線状のモノはまっすぐでなくでこぼこになっていて、更に線一つ一つが小さかったり大きかったりになってしまっていた。一つの大きな線としても、まっすぐでない。
それを見て、少しひくついた笑みになるエレナ。初めてとはいえ、これは本当に基本中の基本だ、子供がやる訳ではないのだから、余程不器用でなければ、もう少しきれいに出来る筈のものであった。なのに……。
ティアは少し落ち込むような感覚を覚える。すると、それを察してか、エレナは慌てて、
「きっと、慣れれば、うまく縫えるようになるでしょう。とりあえず、今は先へ行きましょう」
気を取り直して、そう言ってくる。
そうして、今度は玉止めを習い、バックステッチというモノに入ってゆく。だが、やはりできたのはガタガタの直線で、というより直線にすらなっておらず、ランニングステッチ同様の無残な有様になっていたのだった。
またも、笑顔が凍るエレナ。それに、ティアはエレナの気持ちを察し、ひたすら肩をすくめてゆくばかり。
自分、やっぱり刺繍は向いてないよ……と心で思うが、せっかく教えてもらっている手前、それが言えない。すると、そんな思いを知ってか知らずか、
「今日は、この二つを重点的にやってゆきましょうか。終わるころには、きっと綺麗に縫う事ができると思いますよ」
笑顔で、何とか取り繕うようにエレナはそう言ってゆく。
それで少しやる気を起こし、エレナの期待に応えるべく、縫い物に奮闘してゆくティア。そうして言葉通り、その日はランニングステッチとバックステッチの特訓で終わっていった。のだが……。
基本で、簡単な筈なのに、最後まで綺麗に仕上げることは出来なかった。無残な結果に、微妙な空気に包まれる室内。エレナの表情は固まっていて、そんな彼女を横目に、いたたまれない思いにティアはなる。そうしてティアは片づけをしてゆくが、それはこれからの頭が痛くなる日々の、大いなる序章に他ならなかった。
そう、それから次の日も、またその次の日も刺繍を習っていったティアだった。
刺繍もランニングステッチや、バックステッチから進んで、ストレートステッチや、アウトラインステッチ、サテンステッチなど少しずつ難しいモノに挑戦してゆくようになった。だが、その結果は一日目と同じ、ガタガタのぼこぼこで、本当に子どもの手習いのような有様だったのだ。
やっぱり刺繍は駄目なんだよ、向いてないんだよと、心の中で泣くティア。だが、自分でこれと言い出してしまったのだから、引っ込みがつかない。何とか食らいついてゆこうとするが、色々種類のある縫い方を覚えるのも大変なら、きれいに縫う事も大変。覚える数が増えてくるに従って、難しさが上にあがるにしたがって、それは顕著になっていった。
そして、刺繍の稽古に入ってから七日目、ロングアンドショートステッチというモノを習っている時だった。当然の事ながら、今までで一番難しい縫い方だった。それもあってか、あまりにも綺麗に出来なさすぎて、縫いながら、泣きたい気持ちになっていたティアだった。一方のエレナは、もう慣れたのか、ティアの出来にも文句一つ言わず、その手の動きを見つめている。だが、
ああ、イライラする。大体、椅子に座ってじっと何かをしているって事が、性に合ってないのよ。
そう、剣で動き回っていることに喜びを感じるティア。このような座りっぱなしで動けない状態は、苦痛以外の何物でもなかったのだった。そして、
ぶすっ!
「いっ……!」
もう何度目だろう、またも針で指を突いてしまったのだ。すると、
ぷちん。
その時、何かが全てがはじけた。
「ああ、もう嫌! こんなの嫌!」
「王妃陛下?」
突然叫んだティアに、エレナは不思議そうに顔を覗き込む。
「もう刺繍は終わりよ。いい、終わり!」
そう言って、ティアはその場から立ち上がった。そして、あっけにとられるエレナを横目に、速足で廊下へと出てゆくのであった。
石造りの、飾り気のない素朴な廊下をティアはドスンドスン音を立てながら、不機嫌に歩いてゆく。その胸の内は、もうやってられない! 唯ひたすらそれで……。だが、出てきたはいいが、その後どうしていいのかわからなかった。ならば、一旦心を落ち着けようと足を止めると、一つため息をついて、ティアは宙を見る。目に入るのはやはり飾り気のない武骨なまでのシンプルな天井。
「はぁ……」
思わずといったよう、今一度深いため息をつくと、ティアは大きく開けられた窓辺へとゆく。外は晴れ、初夏の明るい空が青く広く続いていた。こういう日こそ、剣の練習をやるのに絶好の日和だ。なのに……。
面白くない気持ちでティアはその外を見回していると、不意にとあるものに目が留まった。それは……。
ティアの顔が明るく変わる。




