序章
中盤、平家物語を知っている人にはにやりとくる場面があります。でも、ほとんど原型はとどめてないので、知っている方も知らない方も楽しめるように書いているつもりです。どうぞよろしくお願いします。ちなみに、並行して「悪魔は、夜悲しい夢を見る」も連載しております。よろしかったらそちらもどうぞ!
男は、とあるものを前に悩んでいた。それは、真っ白な紙を挟んだ、まだ一文字すら打たれていない黒いタイプライター。それ、否そいつは、その場にじっと鎮座して、早く、早く打って とでも言いたげに、無言で男にプレッシャーをかけてくる。全く、重々しくも見えるその重厚な作りが、今の男には、更に自分を追い立ててきているようにも、威圧感を与えてきているようにも感じられ……。募る焦り。唯ひたすら彼が手を伸ばしてくるのを待っているかのようなそのタイプライターを前に、男は焦りを募らせる。そして、男にとってその用途は唯一つ、物語を打つ、ということであった。だが残念ながら、肝心のその案が全く思い浮かばなく……。
時刻は現在午後二時半、まだ日のある頃であった。そう、時間がない訳ではなかった。だが中々案が出ないことに焦って、更にその気持ちを目の前のタイプライターが煽ってきて、男は思わずうーんと唸ってゆく。すると、そんな所に、
トントントン。
部屋の扉をノックする音が響く。
「はい!」
と答えれば、男と同じくらいの年齢の一人の女性がお盆を手に部屋の中に入ってきた。
「少し一服したらどう? 根を詰めすぎるのもあまりよくないわよ」
そう言って女性は、お盆から男の座るデスクの上に、湯気の立ったコーヒーを置いてゆく。それを見て、男は困ったような笑みを浮かべながら、
「まだ、ストーリーすら浮かんでないんだよ。余り、のんびりしてはいられないかな」
それに、「ふうん……」と言葉を零し、女性は少し残念そうな顔をする。そう、まるで可愛いわが子に約束でも破られたかというような眼差しで。そして、
「今度は何を書くつもりなの?」
何気ない女性の問いだった。だが何故か、思わずといったよう、男は照れた笑いを口元に浮かべると、
「いや、恋愛ものはどうかと思ってね。ファンタジーの。年甲斐もないんだが」
年甲斐もない、どうやら男はそれを気にしているようだった。だがその言葉に女性は「そんなことないわ」と言うと、手に持っていたお盆を胸に抱え、
「出来上がったら、また読ませてね」
邪魔してはいけないと思ったのだろう、そう言って、早々に女性はその部屋から出ていった。
扉が閉じ、沈黙が覆う部屋、それに男は再び頭を悩ませ出す。
そう、男は小説家だった。それもファンタジーの。で、今回挑戦するのがファンタジーの恋愛小説。この世に溢れんばかりの作品が存在するジャンルだった。そんな、群雄割拠状態のこのジャンルに、割って入る、否、抜きん出る為には、読者の心をグッと掴むようなストーリーを考え出さねばならなかった。だが、恋愛小説など書いたことのない男、唯ひたすら焦るばかり。考えに考え、ならば本文に入る前に設定を捻り出そうかと、今度はノートを開く。そして地図を描いてゆく。
まずは横に細長い楕円状の図形。これが大陸だ。そうしてその大陸、名前はどうしようかと男は悩む。昔、あまりのこだわりに、名づけだけでなく言葉まで作ってしまったファンタジーの大家がいたが、流石に彼にそこまでの技量はなかった。なので、今ある国から言葉を頂いて、輝く太陽、ニテンスソール大陸と名付ける。そして今度は行く人々という意味のアレジャン皇国。やはり名前は今ある国、リベルテ国から頂いてくる。そのアレジャン、ニテンスソール大陸の中で最も巨大で、力のある国ということにした。そうして男は描く。鉛筆で、大きく大陸に半楕円を。これがアレジャンの位置だった。そう、海に面する大陸の南西から大きく東へと広がる地域をアレジャンとしたのだ。そして、その周りに八つ小さく半円を描いてゆくと、西から東へと順に、
「これがショイオイル王国、クヴァール国語で意味は内気なフクロウ。その隣がカロンメリ王国、ネオットス国語で意味は見事な蜂蜜、更にその隣がジーヴァウーム王国、マーヤトニク国語で意味は生き生きした心……」
と、これも今ある国から言葉を貰い、各国に名前を付けていった。
そんな、半円を描いていった八つの国々、一つ一つ名前を付けていった八つの国々、考えに考えた末、偉大なるアレジャンを宗主国とする、従属国ということにした。そしてそれらの国々は、アレジャンから従一位とか、従二位とかの位を貰い、朝貢する代わりに、アレジャンからの加護を受ける、という事に。そう、段々と世界が形になっていった。だが、まだまだだった。それを踏まえ、男はアレジャンの従属国の更に北にも、数々の国を作っていった。それは、どこにも属さない、アレジャンやその従属国が蛮族と蔑む、騎馬の国々だった。そこにも男はぼんやりとした曖昧な境界を何本も描いてゆくと、それぞれに名前をつけていった。そしてやがて、
出来た……。
そう、地図は出来上がった。ようやく出来上がったのだった。それを男はまじまじと見つめながら、取り敢えずニテンスソール大陸は、こんなものでいいかな、と一つ頷く。少しだけだが前に進めて、男の顔は満足げであった。
さて、次は本文だ。ここまで決めれば何かは書けるだろうと、男はタイプライターへと向かう。まず始まりは、アレジャンの従属国の一つである、従一位という高い位をもらった北のルータという国からだった。そう、今その国では……。