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執筆練習、短編集

パステル・ブルーな君へ

作者: 結川さや

診断メーカーにて、「昼の水族館」で登場人物が「寄り添う」、「半袖」という単語を使ったお話を考える、というお題で書いたお話です。


 生まれ変わったら、魚になりたい。

 僕は常々そう思っていた。

 何も考えず、水の流れに身を任せて漂い、生きる。

 ゆらゆら揺れる海草の間を抜け、光差し込む青の中を泳ぎ、立ち上る泡を仰ぎ見る。

 世界は全てぼんやりと曖昧で、地上みたいに強烈なエネルギーを放つものなんてなくて。

 そうすればきっと、僕は何も考えずに生きていけるだろう。

 そんな風に思っていた。

 

「君、よく来てるね」


 話しかけられたのは、いつものように大きなトンネル状になった通路で立ち止まり、決して触れられない水中で泳ぎ続ける魚たちを見ていた時だった。

 びくりとして見上げた僕に、青い半袖の制服を着たオネエサンが笑いかけている。

 まるきり知らない人ではなかった。から、僕はただ頷いた。咄嗟のことで、声が出なかったのだ。


「あ、ごめんごめん。急に声かけたら引くよね普通。なんか、何度も見かけてる常連さんは知り合いみたいな気になっちゃってつい」


 オネエサンは長い茶髪の頭を掻き、苦笑する。身構えたのはそれだけの理由ではなかったのだけれど、彼女は明るく笑い、僕が見上げていた水槽――というより、擬似的な意味での『海』を指し示した。


「あたしもここ、好きなんだー。キレイだよね。あの中に入って、なーんも考えずに泳いでたら楽かなあ、なんて思っちゃう」


 オネエサンの気安さに戸惑っていた僕は、その発言に目を見開いた。自分と同じように考える人もいるのだと、この思いが決して特異なものではないのだと、知らされたからだった。

 口を滑らせ、たった一人自分の小さな願望を知ることとなったひとは、これ見よがしにため息をついた。

『まったく……お前にいくらかけてると思ってるんだ。馬鹿なことを言ってないで、さっさと自分のやるべきことをしなさい』

 そう言われた時、本気でわからなくなった。僕のやるべきこと、やらなきゃいけないことって、一体何なんだろう、と。

 いつも通り、しっかり勉強して百点を取ること。クラスで一番――いや、学年で一番の成績を収めること。

 父の営む事業の、次期跡取りとしてふさわしい姿を見せること。

 生まれてから十三年の間、寝ても覚めても言われ続けてきた言葉は脳裏に刻み込まれている。

 けれど、その意味がわからなくなった。

(一体、何のためにそうしなければいけないの?)

 疑問は、もちろん口に出すことなど許されるはずがない『馬鹿な』ものだった。


「じゃね、仕事あるから行くわ。バイバイ」


 あっさりと片手を振って、長い髪の束を翻し立ち去ろうとする。この水族館の系列グループである社名と制服、それに彼女の仕事道具が詰まった黄色い業務用ワゴン。全てが、彼女が一清掃員であることを如実に示していた。父などは視野にも入れないであろう人々の、ひとりでしかない。

 それなのに、僕は尋ねていた。気づけば、声をかけてしまっていたのだ。


「あの――!」


 学校でも塾でも、当然家庭でも出したことのない大きなトーンに、オネエサンは振り向き、屈託のない笑みを見せた。その瞬間から、彼女は『見たことのある人』から、『知り合い』に変わった。


 水沢、と書かれた名札を付け、今日も彼女は館内を掃除して回る。

 十二時十分過ぎ。ちょうどお昼休みに入った時を見計らって、僕はあの水中トンネルに佇む。

 近くのコンビニにお昼ごはんを調達しに行く彼女が、何も知らずに僕を見つけて手を上げるように。


「こんにちは、波美なみさん」


 僕も何食わぬ顔で――ポーカーフェイスには自信があるんだ――片手を上げて応える。

 苗字だけでなく、名前まで涼しげな彼女は笑う。右の頬にだけえくぼができる笑い方も、茶色の髪をかきあげる仕草も、それから少しだけ左足を引きずる歩き方も、もう見慣れている。

 

「こんにちは、すいくん」


 波美さんも笑う。僕も笑う。

 平日の真昼間から、学校をさぼって何してるの、なんて彼女は言わない。だから僕も話さない。

 その代わり、僕も聞かないことに決めていた。

 彼女がどういう事情でこの仕事を選び、毎日毎日水槽や床や階段の手すりや何かを磨き続けるのか。

 どうして、いつも一人でお昼ごはんを食べるのか。

 夕方五時になるとそそくさと、どこへ帰っていくのか。

 何も聞かないから、波美さんは謎だらけだ。一度だけ、年齢だけは自分から話してくれて、それだけ。

 僕に関してもそれは同様なのだろうけれど、波美さんはどう思っているのか、いつも挨拶と短い会話を交わすだけ。そういう関係が、僕はいつしか好きになってきていた。


 こぽこぽと泡は上り、水は揺れる。

 魚になりたい十三歳の僕と、二十三歳の波美さんは、今日もわずかな距離を保って、水中トンネルで並ぶ。互いに何も言わず、ただ泳ぐ魚を見ている。同時に、夢見ているのだ。自分もまた、そんな風にゆらりゆらりと海水に抱かれることを。

 時間にしてものの五分、いや、三分程度にしかならないだろう逢瀬のために、いつしか僕は毎日通うようになっていた。週一度か二度だったエスケープがそうまで増えては、家にばれないはずもなく――。

 あえなく、僕は自宅謹慎と処された。もちろん、ただ一人しかいない身内である、父によって。

 見張りを付けられ、授業だけは受け、自室に直行する日々。

 散々怒鳴られ、叱られ、冷たく蔑まれてもなお、僕は眉一つ動かすことはなかった。

 だって、あいかわらずわからなかったから。

 成績は下がっていない。授業なんて受けなくても、全て知識は先に身に付けている。

 学校に通う必要性も、クラスメイトと過ごす意味も、どうしても理解ができない。

 そう言ったら、父はかなり長い間黙りこくってしまった。

 僕は、自分が本当に無表情で不気味な子供であることも、それゆえに父が僕を心底愛せないでいることも知っていた。それを隠すために、金と人脈の全てを使って僕を後継者として育て続けてきたことも。

 家から出ることもかなわなくなって、僕が思ったことは一つだけだった。


(今頃、彼女はどうしているだろう?)


 波美さんだけが、僕を気味悪がらなかった。

 彼女だけが、僕の同志だった。

 年の差も立場の差も、何もかもを超越して、僕たちは同じ感情を共有していた。

 

 ……好きだった。


 そう、理解した瞬間に、乾ききっていた瞳に何かがこみ上げた。

 熱いものが、ぽろりと頬をつたって落ちた時、僕は初めて心の声に従った。

 しゃがみこんで、嗚咽して、何が何だかわからなくなるくらいに絶叫して、呻いた。

 苦しくて、苦しくて、息ができなくなって――倒れ行く視界の中に、海を見た。


 ふわふわ、ゆらゆら。

 青い世界に漂うのは、僕と波美さんで。

 魚の下半身を持った僕たちは、ゆったりと水中を回遊するのだ。

 手をつなぎ、寄り添って、地上に存在する身長差なんていう無粋なものに邪魔されず、対等に。

 紺碧の中で微笑む波美さんは、僕にそっとキスをした。


 目が覚めた時、まるで夢の続きかと思った。

 心配そうに僕を見つめる、波美さんの姿があったから。

 声も出せないで起き上がった僕が次に見つけたのは、なんともいえない複雑な表情をした父親の顔。

 

 極度のストレスによる過呼吸発作、及びに不眠症。


 それが僕に与えられた病名と診断だった。

 心が、体の働きを阻害して、なおかつ支配さえできるくらいに力を持っていることを、僕は初めて知った。世にあふれた精神的なアンバランス症状が、まさか自分の身にも起こりうるということも。

 取り乱し、息もできずに意識を失って、それでも僕は呼び続けていたのだそうだ。

 波美さんの名前。それだけがまるで自分を救ってくれる、光の筋であるかのように。


 ありのまま、そのままの姿を認めてあげること。

 周囲の押し付けではなく、本人の心を、希望を、尊重してあげること。

 何よりも、優しい言葉と共感こそが、この子に必要な薬なのですよ、と。

 そう言われたらしい父は、この世の終わりのような小難しい顔で僕を見つめていた。

 途方にくれた、そんな情けない顔を見たのも初めてで、僕は思わず笑ってしまった。

 それを見た波美さんも困ったように笑って、父は気づいたのだそうだ。

 僕が泣いたのも笑ったのも、どれほど久しぶりに見たのか、思い出せないでいる自分に――。


「こんにちは、波美さん」


 今日も、僕は挨拶する。

 

「こんにちは、翠くん」


 彼女も微笑んで、そう答える。


 夢の中では対等だった背は、まだ歴然と差のある状態だ。

 それでも、初めて会った頃より、かなり縮んだ。

 僕は高校生になり、波美さんは二十六歳になった。

 青い半袖は、もう制服じゃなくなって、涼しげなデニムのワンピースに変わっている。

 彼女は変わらず、余計なことは喋らない。

 僕も、あれこれ尋ねることはしない。

 けれど時折、短い会話の中で波美さんが自分の話をしてくれるようになったから、僕も話している。

 波美さんも僕も、きっと長い長い人生の中の、転換期、もしくは休止期というものを体験していたのだ。


 こうあるべきだ。こうなるべきだ。

 時に自分の願望とは違うものを押し付けられ、あるいは強すぎる願望を断絶されて打ちひしがれ、どこにも行けずにさ迷っていた。

 父が何を話したのか、また彼女が本当のところはどう思っているのか、僕は知らない。

 全てを知っていること、知ろうとしていなければいけないこと。

 そんな強制が僕から感情を奪い、押さえつけてきた。

 今までの年月を真実悔やんだらしい父が、僕を自由にしてくれたから。


 それはまるで、起こるはずがないとあきらめてきた奇跡だった。

 世界の全てが変わり、僕を優しく包み込んだ。

 だから、僕はこうして波美さんに微笑みかけるのだ。


「今度は、本物の海に行きませんか?」と。


 生まれ変わったら、魚になりたいとは今でも思う。

 けど、それがあの夢と同じように、好きな人と一緒にでなければいやだとも考えたりする。

 それよりも、今、自分の目の前に広がる道を見たい。

 限りない、無限の可能性に満ちた未来を見たい。

 できることならば、共に地面を踏みしめて、しっかりその手を握り締めて。

 そばで笑ってくれるのが、波美さんであったなら。

 今は少し変わった同志でしかない関係が、少しずつ追いついていく身長みたいに伸びて、その色を変えて、優しく暖かいパステル・ブルーになったなら。

 その時こそ僕は、二匹の魚みたいにあの海を泳ぐのだ。

 僕の大切で、愛しい君と一緒に――。



 了



 

 

 

 

 

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