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渇き

 皺だらけの温かい手が、私の髪を撫でた。

水の跳ねる音がして、冷たく濡れらされたタオルが額の上に置かれる。

私は、薄く目を開けて「大丈夫」と一言呟いてまた目を閉じた。


【渇き】


「林檎擦ったから、食べなさい。」

しばらくして、祖母が透明なガラスの器を持ってきた。

 重力の増したままの身体を無理やり起こして、それを受け取る。

長い時間、真夏の陽射しを浴び続けた体は未だに熱を持ち続けている。


早い話、私は軽い日射病になったのだ。

私と同じように、縁側で陽を浴びたはずの智衣は、素知らぬ顔で夕飯の準備をしていた。

低い耳鳴りが頭を埋め尽くして視界が揺らいだが、何かを考える余裕がなくなるのは、今の自分にとって好都合だ。

のろのろと林檎を口に含むと、冷たい蜜が口の中いっぱいに広がる。

食欲は全くないけれど、そのひんやりとした感触が心地よくて、私は何度もその蜜を掬った。

「おばあちゃん、足どうだった?」

「あぁ、大丈夫だよ。ただもうちょっと痩せないと、膝に負担がかかっちゃうみたいだねぇ。」

祖母は、畑仕事をやめて太っちゃったからね、と笑いながらそう付け加えた。

褐色の水気のない頬の上に、三日月を横にしたような双眼。

その中にある水の底のような黒い瞳を直視することを、私はいつも躊躇った。

柔らかい笑顔の奥にあるものを見極めきれる程、私は大人ではない。

ただ、ごく自然に存在そのものが優しい微笑を纏う一人の老婆を、祖母とする事に、私は小さな幸福を感じるのは確かだった。

それは、今の自分の浅しさや狡猾ささえ、赦されたような気分にさせる微笑だった。

 祖母が、丸椅子からゆっくりと身を屈めたので、私は慌てて畳の上にある氷水の入っている洗面器を手に取った。

祖母の左膝には、手術の時に金属を入れてあるので、深く曲げたりは出来ないのだ。だから畳の部屋では大抵、丸椅子を持ってまわっている。

「そんなに、気を使わなくていいんだよ。具合の悪い時は、思い切り甘えなぁ。」

どこか訛りのある口調で、そう笑って祖母は立ち上がった。

私は、そこで水替えは自分で行くべきだと気付いたけれど、今更どうしようもなく変に後味の悪い思いをした。

(手伝いにくるどころか、余計な仕事を増やして。)

母親が居たら真っ先にそうからかってきそうなものだが、生憎この家にはそんな人間はいない。

黄昏と線香の香と畳の匂いの交じった独特の田舎の空気。

ふと、祖母は具合の悪い時に甘えたりするのだろうか、と思った。


 目が覚めた時には、窓に映る世界は紺色の影に覆われていた。壁に掛かった時計の針は、夜の十時を指している。

額にいつの間にかのせられていたタオルは、すでに生温かった。

喉の奥がはりつくような乾きを覚えて、私はゆっくりと立ち上がった。

祖母はもう寝ているらしい。ガラス戸で隔てたられた隣室から静かな寝息が聞こえている。私の隣に敷かれた布団は、整然として乱れた跡はなく、智衣の姿はない。

 居間を抜けて台所に辿りついた所で、私は首を傾げた。

てっきり智衣は居間か台所にいるものだと思い込んでいたから、妙に拍子抜けした気がした。

薄青のグラスに水を注いで、ゆっくりと飲み干す。静か過ぎるこの空間で、年季の入った萌黄色の冷蔵庫の稼動音だけがやけにくっきり響いていた。

ぼんやりと椅子にもたれながら、自分には考えんなきゃいけない事がある、と思う。

それは、自分がこれからどうするのかとか、何がしたいのかとか、このままでいいのかとか、そんなモヤがかった抽象的な事だけじゃない。

でもそれが何なのか、自分自身よくわかっていない。ただ何となくこのままじゃいけないような気がする。

ただ、考えようとしても、どこかでそれを拒んでいる何かが自分の中にあった。

「偽善者」

智衣の呟いた言葉が、脳裏を過ぎる。私ははっと我にかえったような気がして、昼に智衣に触れられた部分が冷え切っていくような恐ろしさを感じた。

 首筋に手をあててみて、自分を落ち着かせるようにゆっくりと目を閉じた。

キャミソールの内側に手を差し入れてみても、そこには熱を持った柔らかい乳房があるだけだった。指を滑らせて肋骨を撫で、腹、腰骨へと手を這わせてみても、何の変化もない少し普段より熱っぽい体があるだけだ。

 何も変わってないじゃないか。どこか安心したような気分で、溜め息を吐いた。

大丈夫だ、まだ壊されていない。私は壊れたりしない。自分に言い聞かせるようにそう心の中で唱える。

 癒えたはずの渇きが、またのろのろと喉元に這い上がってきているのを感じながら。











 




 


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