黒蟻
焼け付くような夏の日に、力なく薄紅の花が揺れている。
縁側に座った私の上では、青い風鈴が生ぬるい空気と共に音を奏でている。
【黒蟻】
祖母は朝から定期検診のため、病院へと出かけていった。
家の中はひっそりと静まりかえっている。
夏の高い日差しも、蝉の狂声も、縁側までしか届かない。
縁側で、白い日差しに晒される私の皮膚は、ジリジリと悲鳴をあげている。
額にはじわりと汗が浮かんでは蒸発してゆく。
どこか落ち着かない私の気持ちとは裏腹に、時折、麦茶が半分だけ注がれた二つのグラスの中で、氷が小さな音を立てた。
その音にすら、過敏に反応してしまう私の横で、智衣は洗いたての紺色のシャツを乱さずに、涼しげな顔で、夏の空気の先をじっと見据えていた。
智衣が隣に居なければ、すぐにでも寝転んで、このキャミソールもスカートも脱ぎ捨ててしまえるのに、暑さで霞がかってくる意識と、自分を繕っていなければならない緊張感にも似たそれが、私の中で葛藤していて、まだ、緊張の方が勝っているのか。
それとも単に、あの日見た智衣の狂気に、萎縮しているだけなのか。
考えようとしても、頭の中には蝉の狂声が響くだけで、まともな思考も出来そうにない。
「智ちゃんは、私の事嫌い?」
暑さと雑音で煮立ったように、ぼんやりとした意識のまま言葉を発した。
「……どうして?」
智衣は、どこか遠くを見つめたまま答える。
居心地の悪さがまた、足元からのろのろと湧き上がる。
しがらみにも似た緊張感を何とか緩めようとして、私は楽しい事なんて何一つないのに、
笑顔を作って軽口を言う。
「だって、何考えてんのか解んないんだもん。」
肩までの黒髪が、静かに揺れる。
智衣の深い闇色の目が、こちらを向く。
私は、その色を直視出来ずに視線を泳がせた。
「解ってるくせに。」
ぽつりと、智衣の呟いた言葉。
その意味すら、よくわからない。
私が、一体彼女の何がわかっているのだろう。
私は、自分の事すらまだ良くわかってないというのに。
「解らないよ。」
私はまた笑った。
虚しい微笑を貼り付けたままで、返答を待ったが、結局それはなかった。
時折吹く風で、智衣の髪が蝶の舞うように揺れた。
シャツから覗く二の腕は、強い日差しで青白くぼんやりと揺らめく。
土から立ち上る生温い熱気の中、整然として座っている彼女は、浮世離れしていて、どこか人間でない何か別のモノなんじゃないかという不思議な不気味さを私に与える。
智衣の身体は、体温のない精巧なビスクドールで、その身体の中には、人間の魂とは何か違うものが宿っているかのような。
夕闇の中、蝶を殺した智衣の目には、それが確かに映っていたのだ。
狂気にも似たそれを、私は知りたいのだろうか。
あの蝶は、蟻に運ばれ地中深くに眠っているのか、それとも別の生き物に運ばれたのか、もうどこかへ消え去っていた。
カランと音を立てて、グラスの氷が揺れる。
私は、透明な茶色の液体を飲み干して、目蓋を下ろした。
蝉の声が、聞こえる。
目蓋の先は、明るい。
目を閉じるだけじゃ、闇はやって来ない。
此処に座ってどのくらい時間が経った?
祖母はあと何時間で帰ってくる?
智衣は、勉強とか忙しくないのだろうか?
夏休みにわざわざ東京から鹿児島の田舎まで来た意味は?
じゃあ、私はどうして此処にいる?
そこまで考えて、目を開けた。
こめかみを伝った汗が、顎の先から音もなく落ちた。
憂鬱な方向に行きそうな思考を必死に食い止める。
出来れば、今は考えたくない、目をそらしておきたい別の現実が、私の中にあった。
白い庭土からまた、さらに先にある花壇では、様々な花が、それぞれの色を乱雑にばら撒いている。
白揚羽もまた、赤く萌えていた。
その色は、私の思考をぼんやりとぼやけさせる位に鮮やかだ。
「ねぇ、ちさちゃん。」
ふわふわと彷徨っていた意識を現実に呼び戻すかのように、智衣の声が響いた。
「どうして、此処に来たの?」
それは、拒絶にも似た、冷たい響きを持っていて。
そう、私の気のせいではなく、確かに智衣の瞳には、侮蔑の感情が混じっている。
「それは、おばあちゃんの具合が心配だからって。」
その攻撃をやり過ごそうとする本能が、私の表情を作る。
苦笑を浮かべた私の顔は、すぐに、打ち壊された。
暗転。
私はしたたかに背中を打った。
自分の肩を体温の無い智衣の腕に押さえつけられている。
「わかるでしょう?」
幼い子供に言い聞かせるような、彼女の声色にぞくりと背筋が凍る。
「どうして、私たちが此処へ来ているのか。あなたの両親は、一度でも見舞いに来た?医療費の負担もしてないでしょう?
でも、代わりにあなた寄越した。それが、どういう事かわかる?」
ゆっくりと言葉を吐き出す彼女の表情は、逆光で、よくわからない。
薄暗い影の先にある眩しい光に、私は目を細めた。
智衣の言葉は全て事実だった。
その事実が、静かに私の中を抉ってゆく。
解っていたはずだ。
両親の打算を。そしてそれに抗う術もなく利用されている自分も。
肩を掴んでいた冷たい指先が、私の首筋へ点々と黒い影を落とす。
それはまるで黒蟻の群れ。
服の下を黒蟻が這っている。
そんな気味の悪さが、汗ばんだ肌の上を動きまわる。
それは、きっと私には見えない痕を残している。
蟻は、列を乱さないように、見えない体液を足跡の代わりに残しているらしい。
きっとそれと同じように、私の身体には今、幾十もの痕が纏わりついているのだ。
現実に頭が追いつかなくなって表情を上手く作れない。
そんな私を見て、智衣は楽しそうな声を出した。
「その顔、いいわね。いつもの作り笑いよりもかわいいわよ。」
何処か馬鹿にしたような口調。
それは初めて聞く彼女の声色で、私はこの状況から何とか抜け出そうと必死に声を出した。
「それが、智衣の本性なんだ?」
責めるような口調に、智衣は乾いた声で笑う。
「本性って何?私は普段表情を出さないけれど、へらへらと偽物の笑顔で繕って本性を出してないあなたに比べれば、大分マシよ。」
智衣の言葉に、自分の顔が次第に硬直してゆく。
言い訳の言葉すら見つからない。
私の存在は段々と壊れされていく。
今の自分は、手品の種をばらされたマジシャンのように滑稽だ。
黒蟻が無数に這う。私を侵食し、埋め尽くす。
「あなたみたいな人をね、偽善者っていうの。」
智衣は、笑っていた。
表情は見えないけれど、きっとあの夕闇の中で見た狂気を孕む笑顔で。
私は、表情を失くしていた。
瞳に智衣の狂気を焼き付けたまま。
FIN




