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 蝉の声が聞こえる。


それは、いつものように、やかましい雑音ではなく、

思考のすこし奥の方で静かに響いている。


そう、真夏の太陽の日差しの降り注ぐ音に似ている。



【白揚羽】


 まどろんでいた意識は、指先に感じるほんの少しの違和感に、呼び起こされた。


ゆっくりと視線をそこにおくると、おぞましい現実に悲鳴をあげる。


私の指、手の甲から二の腕まで、黒い点々としたモノが蠢いている。


「どうしたんだい?」


膝の悪い祖母が、庭からゆっくりと顔を出す。


私は構わず、自分の手にたかるそれを必死に、振り払っていた。


その正体は無数の蟻で、整然とした列は、急に起こった変化に輪を乱して乱雑にざわめきはじめる。


「あぁ、さっきアイスを食べていたから、その匂いがちぃちゃんの指に残っていたのかねぇ。」


穏やかに、そう笑う祖母は、よいしょ、と声をあげて私のところまで上がってくると、慣れた仕草で、蟻の群がる畳の上を箒で掃いた。


「お風呂、行ってくる。」


私は混乱した思考のまま、身体中に蟻が這っているような恐ろしさを感じ、慌てて浴室へと急いだ。


蟻、なんてものを間近で見たのは、何年ぶりだろう。

育った家は、マンションの十二階だし、一人暮らしをはじめた今は、マンションの五階。

蟻と対面するような環境ではない。

外で遊んでいた、もう十年以上も前ではないだろうか。


ここでは、うたた寝するにも、注意が必要なわけね。

冷水を身体に浴びせながら、やっと冷たさを取り戻した頭で溜め息をつく。


祖母の家は、鹿児島の小規模な村から、更に山の方へと入った所にあった。

バス停まで、徒歩一時間。1km離れたところにやっと隣家があるといった具合の本当に田舎ってかんじのところだ。

ガス、電気はかろうじて通ってはいるが、温かい風呂にありつくには、浴室の下にある暖炉に蒔で火を起こさなければならない。

シャワーはなく、浴槽の横に置いてある大きなバケツに湧き水が溜めてあり、それを使う。

真夏日とはいえ、その水が私の体温を奪うのは十分すぎるほどだ。


それでも、何度も頭から水を浴び、昨日の残り湯の溜まっている浴槽へと身体を沈める。

残り湯は、冷水に比べればいくらか温かく、自分を安堵させた。


蟻の群がっていた自分の指をさすっていると、ふと、ある詩が頭に浮かんだ。


(蟻が蝶の羽を引いている あぁヨットのやうだ)


誰の詩だっただろうか。小学校の教科書で見たのが、たしか一番最初だった。

そして、最後に見たのは、半年前。大学受験の時、志望大学の過去問の問題集に本屋で、目を通した時だ。


(この詩の表すものを600字以内で論じなさい。)



その問いを見て、私はこの試験は無理だなぁ、と思って試験勉強をしなかった。

この詩を読んでも、命の連鎖だとか、土を海に比喩だとか、平凡な私には月並みな解答しか浮かばないのだから。

受験生のポーズをとるためだけに、図書館には行っていたが、小説を読んでいるだけだった気がする。

その年の、試験問題は、樋口一葉の『竹くらべ』だった。私は、前日に『にごりえ』を読んだ。

なんで、『竹くらべ』にしなかったんだろうと後悔した記憶がある。

いつも、私の人生はそんな具合に、一つだけ掛け違えていた。


それでも、何とか合格して、大学生にはなったけれど。

そこまで思って、浴室のガラス戸の外から、声が聞こえた。


「ちさちゃん、タオル持ってきたんだけど。」


「あ、ありがとう。」


私は、浴槽を出て、タオルを受け取る。智衣は、それが済むとさっさと行ってしまった。

バスタオルを巻いて居間に戻ると、蟻は一匹も居なくなっていた。

縁側から吹き込む風で、濡れた髪を乾かす。風は、夏の日の落ちる前の柔らかい哀愁にも似た匂いで、肌を優しく撫でた。

台所からは、祖母と智衣の夕飯の準備の音だけが響いている。


「何か、手伝う事ある?」


台所へと顔を出すと、黙々と作業している智衣の背中と祖母の笑顔があった。


「じゃあ、ちぃちゃん。鶏に餌をやってきてくれるかい?こっちは智ちゃんがやってくれてるから。」


そう言われ、私は勝手口から鶏舎のある裏庭へと出た。

鶏舎と言っても小さなもので、鶏が20羽弱、金網で出来た簡素な小屋のなかを乱雑に動き回っているものだ。

トタンの屋根と壁で仕切られた空間は、独特の匂いと湿気が充満している。

大きな布袋に入っている鳥の餌をバケツに入れながら、こうやって、大学最初の夏休みを過ごすのかと漠然と考えた。


 別に、鶏も、田舎も、祖母も嫌いじゃない。

この穏やかな日々は、人の感情に神経質で、憂鬱な感情にとらわれやすい自分には、合っていると思う。


ただ、足を悪くした祖母が田舎で一人暮らしているのが心配だから、という名目で、

ここに寄越されたという事実が私の心のどこかにひっかかっていた。

その原因は、従姉妹の智衣の存在にあった。


私が、祖母の家に来る数日前、母方の従姉妹の智衣も、東京からここへと来ていた。

智衣とは、小学校の頃以来交流は殆どなかった。

幼い頃は、同い年なのもあってそれなりに仲の良かった記憶があるが、今ではその影すらない。

どこか他人行儀になったのは、時間の経過のせいだろうか?

それとも、智衣か、私か、あるいは両方に原因があるのか。


智衣は、東京大学へと通っている。

秀才ぶりは、高校の頃から有名で、全国模試の優秀者の欄に智衣の名前があるのを、私は何度も目にした。

その頃は、それが何だか誇らしくて、クラスメイトに自分の事のように自慢したりもした。

勉強頑張ってるんだろうなぁ、とひた向きで、努力家な少女を想像していた。

その空想は、既に打ち破られてしまったけど。



 数年ぶりに再開した彼女は、夏の高い日差しに、白い麻のワンピースを煌かせながら、静かに肩の上の黒髪を揺らし、

無表情で立っていた。均整のとれた顔立ちからは、何の色も発せられてなくて、ぞっとした。

私が、二コリと笑いかけて挨拶をしても、事務的な挨拶の言葉だけが返ってきた。

私と智衣には、何か見えない大きな壁があって、きっと二人の世界が交わる事はないのだ。そうはっきりと感じさせる声だった。


智衣の目は、私を映さない、それどころか、何も映っていないような気さえするのだ。

彼女は、東京にも、この田舎にも、似つかわしくない。存在が世界に溶け込めていないのだ。

それは、私に、静かな絶望にも似た感情だけを引き起こした。


智衣と私は、そんな具合で、一週間経った今も、ぎこちなさはなくならない、けれど、祖母は優しく常に微笑んでいた。

膝が悪いとはいえ、日常生活には問題はない程度のもので、重いものを運ぶ時や、膝に負担のかかる仕事を控えればいい。


大体の家事の手伝いは、智衣がそつなくこなしているので、私に与えられる仕事といえば、朝の花の水遣りと、鶏の餌やりくらいだった。

手持ち無沙汰な私は、一週間という日々を、ただぼんやりとするか、祖母の話相手になるかで、一日一日を送ってきた。


「ねぇ、お前は楽しい?」


 金網の狭い空間の中で、無心に餌をつついている鶏に問いかけてみる。

もちろん返事はない。頭の動きと共にうなるような小さな鳴き声が聞こえるだけだ。

一週間も、毎日こうやって世話をしていると、はじめはただの鶏の群れにしかみえなかった鶏も、一羽一羽見分けられるようになってきた。

身体の大きさ、トサカの形、羽の色や模様の微妙な違い。ちゃんとそれぞれに違いはあるし、それぞれに命はある。

 でも、生まれたときから、ここでこうやって死ぬまで過ごすのは決まっていたんでしょう?


それでも、生きていて楽しいの?


それとも、生きているって感覚すらないのだろうか。

ここにいる鶏たちは、大半は、寒さや病気や、たまにやってくる狸やイタチによって死を迎える。

その度に、近親相姦を繰り返して、あるべき数へと戻る。

数が増えすぎないように、卵は毎日、食卓に並ぶか、炒り卵にされて小川の魚たちの餌になる。

ここにいる命たちは、そういう運命なのだ。

でも、それは、私のいる世界とたいして変わらない。

そう、だから私に、そんなことを憐れむ資格もないのだ。


 私は、しばらくそうしていたけど、いい加減足が痺れてきて、朝にやり忘れた花の水遣りに行くため立ち上がった。

鶏舎を抜けると、日はゆっくりと傾いて、それでも眩しい光をふりかざしている。空はまだ高い。


名を知らない花の並ぶ花壇には、夕飯の匂いがかすかに漂っている。

そのどこな懐かしい空気に乗るように、アゲハ蝶が二匹、ひらひらと付かず離れずして舞っていた。

その蝶を避けるように、水遣りを済ませ、ゆっくりと蝶を目で追っていくと、花壇の片隅にひっそりと咲いている花が目についた。


高さは、膝よりも少し下くらいだろうか。子供の手の平ほどはある鮮やかな薄紅色の花。

その薄紅の花弁が四枚、輪をなして陽射しを浴びている。

綺麗に開ききった花弁は、先端にいくほど紅を帯び、つけ根はぼんやりと白い。

不思議な色。指でその花弁に触れると、あっけなく花弁が二枚、ひらりと土の上へ落ちてしまった。

土の上で、花弁にたまった水滴がきらり、と光った。


「ちぃちゃん、ご飯の準備が出来たよ。」


祖母が、勝手口から顔を覗かせる。


心もち、祖母の表情は活き活きとしている。

祖父が大往生を遂げて二年、祖母はこの家で一人で生活している。

この静かな世界で、彼女の話相手は、鶏と、花達と、家の前を流れる小川の魚たちだと言う。

静かに、規則正しく、日々を送り、死を待つ。

祖母の優しい、すべてを受容するその表情は、私をたまらなくせつなくさせる。


「おばあちゃん、この花。」


私は、悪戯が見つかった子供のように肩を竦めて、花弁の半分になってしまった花を指差した。


「あぁ、その花はね、白揚羽っていうんだよ。」


「その花びらはね、日が落ちるとだんだん白くなってね。花が閉じると羽を休めたアゲハ蝶の形になるんだよ。」


そう言って、ご飯を食べてもう一回見にいってみなさいと、私を手招きした。

白揚羽、私は、土の上に落ちた花弁を拾って、そう心の中で反芻させた。




 居間に戻ると、智衣は既に、きちんと正座をしていた。

私は、祖母や智衣に、無邪気を装い軽快に話かけながら、箸を進める。

「智ちゃんとこの大学はどう?私はね」だとか

「この前、お母さんがね」とか

一丁前に、学生生活を楽しんでいるフリをしながら。

智衣は、愛想笑いを返すわけでもなく、邪険にするわけでもなく、

「うん。」

「そう。」

ときわめて、単調な相槌を返すだけだ。

それは、言いようもない苛立ちと虚しさを私に植え付ける。

私は、一体何をやってるんだろう。そう頭を抱えたくなるような。


 私の事を苦手だとか、嫌いだとかなら、それなりの態度をとればいいのに。

そうすればこっちも、対応できる。

それすらないから、私達には何の関係も成立しないんじゃないか。


無関心。

無関係。


そう感じれば、感じるほど、私は智衣を意識せずにはいられない。

そして、気まずいような、苦しいような、居た堪れない気持ちになる。

私は、何の取り柄もない、意味もない存在だと。

自分で認めざるをえなくなる。

焦りにも、絶望にも似た感情が、自分の中に巣食っている。

それが、暴れだしそうになる。


「後片付けは、私がするね。」


無駄な気遣いだけで、今日の夕飯も終了した。

どっとおしよせてくる疲れを、溜め息で吐き出して、何かを堪えるように、

重ねた皿を、流しに浸けて、丹念に洗っていく。

窓から差し込む西日は、かすかな淡いオレンジで、台所はもう薄暗い影を落としていた。



田舎の寂しい夕暮れは、何だか人を泣きたくさせる。

私は、白揚羽を見に行こう、と思った。



「ちさちゃん。」


 ぽつり、とやっと聞き取れるくらいの声が聞こえた。

振り返れば、暗い夕陽を背に、智衣が立っている。

華奢な白い両の手には、これから訪れる夜を凝縮したかのような黒いアゲハ蝶が握られて。


「どうしたの?それ。」


そう問うや否や、智衣は、手の中で、もがくそれを、握りつぶした。

ぽとりとそれは、手を離れ土の上へで動かない。


「綺麗に見えても、害虫だから。花がダメになっちゃうでしょう。」


智衣の目の色に、変化はない。不気味なくらいの静寂を湛えている。

私は、言葉を失くしたまま、立ち尽くした。



その時、私はどんな顔をしていただろうか。

繕う事も出来ない私の表情を見て、智衣の口元が、ぐっと歪む。

それは、初めてみた智衣の表情。

狂気を孕んだ、静かな笑顔に、私はぞっとした。

ぞっとする程に、妖艶だった。


無言で惚けている私を残したまま、智衣は指先の鱗粉を掃って行ってしまった。

夜の闇が静かに、二匹の蝶を包み始める。


私は、白く染まった白揚羽を見つめながら、何度も反芻させる。


智衣の狂気と、あの言葉を。


 蟻が、蝶の羽をひいている

  蟻が蝶の羽を・・・




FIN








 






作中に出てくる詩は三好達治氏の「土」です。

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