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善意警察

作者: 村崎羯諦

「善意警察です。善意の現行犯として、あなたを確保します」


 善意警察? 聞きなれない単語に対して、俺は聞き返すこともできず、その場で固まってしまう。


 俺は()()声をかけただけだった。


 道を迷いながら歩く、小綺麗な老人。手に持った鞄は金具の質からして高級品。ハイブランドのロゴがアクセントになっている高級なコート。つまり、俺にとっては格好の獲物。


 荷物をお持ちしますよ。よくある親切の形をした前置きで話しかけ、老人の身体に優しく触れる。老人は人を疑うことを知らない眼差しで俺を見返し、助かるよ、若い人は優しいねって微笑み返す。


 俺の本当の目的が、このまま老人を家まで送り、空き巣のターゲットになりえる住所を特定することだと知らないまま。


 あまりにもちょろすぎる。笑いを抑えようとしていた俺に声をかけてきたのが、善意警察を名乗る怪しい男だった。


 こんな怪しい相手は無視した方がいい。しかし、そんな俺の考えを読み取ったのか、男は胸元から手帳を取り出し、俺の目の前で開いて見せる。目の間に合ったのは本物の警察手帳と『善意捜査一課』という単語。


 本物の警察? しかし、俺が疑問を口にするよりも早く、男は手錠を取り出し、俺の手にかける。そして訳がわからないまま、俺は乱暴に腕を捕まれ、そのまま強引に近くに停めてあったパトカーへと押し込まれる。


 扉が閉まると同時に、視界が急に暗くなった。何が起きたのかと思う間もなく、目隠しが顔に巻かれていく。布の匂いは消毒液と機械油。嫌な予感しかしない。


「ちょっと待て、どこへ連れていくつもりだ」


 返事はなかった。エンジンがかかり、車が滑り出す。どれくらい走ったのかもわからない。距離感も方向感覚も奪われ、俺はただ、手錠が食い込む金属の硬さだけを感じていた。


 やがて車が止まり、腕を強く引かれる。そのまま何かの建物へ連れ込まれる。


 足音が響く。コンクリートの冷たい床。外の空気とはまるで違う湿り気。ここが警察署ではないことだけは、すぐにわかった。


「座ってください」


 押し込まれるように椅子へ腰を下ろす。目隠しが外された瞬間、俺は思わず息を飲んだ。


 目の前の壁一面が巨大なガラス窓になっていた。そしてその向こうには、街が広がっている。高層ビルと公園、清潔な道路。人が歩き、笑い、話している。よくある街の風景。ただ、そこにいる人々の表情や振る舞いに、俺は違和感を覚えた。


「驚いて当然です」


 背後から声がした。さっきの善意警察の男だ。


「ここは留置所ではありません。善人だけを集めた街、『善性隔離区』です」


 善性隔離区? 困惑する俺に男が説明を続ける。


「考えたことはありませんか? 世の中全ての人が善人であったならいいのにと。我々はその考えを妄想で終わらせたくない。だからこうして、善人だけを集め、理想的な共同体を作り上げたようとしているのです。


 外の社会では実現しえない、人々が互いを心から信頼し、争いなど存在しない世界。それがこの街です。


 ここに住む者は、我々の保護対象になります。医療、住宅、食事、教育、労働環境、どれを取っても最高水準です。争いも奪い合いもない。誰も裏切らず、誰も搾取しない。善人は、善人にふさわしい生活を受けるべきだ。それが我々の義務であり、この街の価値です。


 そして我々はこの街の発展のため、外の社会からこの街にふさわしい人間をスカウトするという活動も行っています。あなたはこの街の新しい住人の候補として、ここに連れてこられたのです」


 男は淡々と端末を操作し、こちらを見た。その眼差しは強く、鋭かった。


「質問します。あなたは、この街に住む資格のある善人ですか?」


 自分が善人かどうかなんて、考えたこともなかった。むしろここに連れてこられたきっかけだって、決して善意から出た行動ではなく、むしろ悪意から出た行動だ。


 だが。俺は窓から見える街の風景へ視線を向ける。窓の向こうでは、人々が笑い、争わず、豊かに暮らしている。あれが本当に善人だけの街だと言うのなら、住めるものなら住みたいと思った。


 楽をして、いい暮らしをして、何も心配せずに暮らす。俺だってそんな生活をしてみたい。


 それに……俺はそこまで悪い人間だろうか。


 多少は悪事の経験もあるが、人を殺したわけでもない。むしろ、あの老人に声をかけてやったのは事実だ。下心はあったとしても、優しくしたことも、ある。善人と呼べないこともない。そう思えてきた。


「俺は、善人だ。だから、俺をあの街に入れてくれ」


 その言葉が口から出た瞬間だった。俺の肩が強く引かれる。いつの間にか背後に立っていた二人の男が、俺の両腕を乱暴にねじり上げていた。


「おい……何するんだ。俺は善人だぞ! この街に住む資格がある人間に対してそんな仕打ちをしていいと思ってるのか!」


 二人は何の反応も示さず、抗議も叫びもすべて無視された。俺は救いを求めて男を見る。しかし、男は俺を蔑むような表情で見下ろすだけだった。


 ふざけるな。俺の虚しい叫び声が反響する中、俺は足を床に引きずられながら部屋の外へ連れていかれるのだった。

「以上が、本日の報告になります」


 善意警察の男が直立し、上官と思しき人物に端末を差し出した。その声は相変わらず淡々としている。


「逮捕者数は今月で四十二名。新たに善性隔離区へ移住が認められたのは三名。そして、『善人にふさわしくない』と判断し、収監した偽善者どもの数は二十九名になります」

「よくやった」


 上官は満足げに頷いた。口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。


「君のおかげで、この社会はまた理想に近づいた。特に自分のことを善人だと自信満々に言えるような偽善者……そういう奴らを取り除くことが、純粋な善人のみで作られた社会への第一歩だからな」

「恐縮です」

「これからも我々の理想のために尽力してくれたまえ」


 男は静かに頭を下げる。


「はい。偽物の善意を見逃さず、偽善者を取り締まる、それがわれわれ善意警察の使命ですから」


 上官と男は満足げに微笑んだ。その笑顔には疑いも迷いもなかった。


 ————まるで、自分こそが本物の善人であると確信しているかのように。

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