初めてのお出かけだったのですが
「ねえミリア、早く! 早く!」
「セラ様、お待ちください。もっとしっかりお姿を隠さないと」
「大丈夫だよっ、帽子もかぶったし。ねえお弁当は持った? 忘れ物はないかな?」
「ふふっ、お出かけが決まってからずっと楽しみにされていましたものね。ですが安全が第一だと忘れてはいけませんよ? 護衛の騎士様たちの言うことをよく聞いて下さいね。分かりましたか?」
「わーかってる! でも僕だって誰より上手に魔法が使えるもの。ミリアは本当に心配性すぎるよ!」
「セラ様の魔法の腕が素晴らしいことは誰より知っておりますわ。ですがミリアはセラ様が心配なのですよ。風が冷たくはございませんか? あら、上着の袖がまた少し短くなったかしら。どんどん大きくおなりですものね、また今度新しいものを仕立てましょうね」
陛下との話し合いの後、予定通り数日後には護衛の騎士たちが派遣されてきた。これまでは離宮の外周を巡回するくらいだったものが、これからは室内でも警備を行ってくれるという。下働きのメイドたちも同様だ。今更よく知らない他人が生活空間に増えるのも正直落ち着かないけれど、セラ様はこれからこのような状態が普通になるのだ。慣れなければならないだろう。
予想通り呪いの影響による体調不良は誰もおこさず、直接触れ合わなければ何の問題もないことが分かった。
彼らとも話し合いを行い、安全かつ目立たない城の入退出経路の選定や外出先の選出、下見も済ませてようやく今日がセラ様の初めてのお出かけなのだ。テンションが上がってしまうのも無理ないことだとは思う。
セラ様はこれまでずっとわがままひとつ言わず、大人しく物分かりの良い理想的な子供として過ごしてきたのである。それが誇らしくもあるし、唯一の側仕えとしては正直助かりもしたけれど、こうして年相応に無邪気な姿を見ると素直に微笑ましいと思えた。同時に、もう少し早く外に出してあげられていたらとも思ってしまうけれど。過ぎたことを悔やんでも仕方がないのだ。私も今日という日をめいいっぱい楽しむのが一番だろう。
「さあ、馬車にお乗りください」
「うん、わかった!」
セラ様の呪いは馬には影響がないことが分かったけれど、まずは練習が必要だ。今日は馬車で一時間ほどの森の近くまでピクニックに行く予定だから、現地についたら少し馬に乗って歩かせるくらいは出来るかもしれない。なにしろセラ様に触れられるのは私だけなのだ。その私自身はというと、淑女学校で習ったのは優雅な横乗りの仕方だけ。それもせいぜい常歩程度だ。二人乗りして後ろから支えるほどの技術も自信もないので、まずは大人しい馬に跨りゆっくり手綱を引いて歩くくらいにしようと計画している。
建物の影になる位置から出来るだけ姿かたちを隠し、素早く馬車に乗り込んだ。護衛の騎士たちは騎乗で並走してくれるが、目立たないよう各所で徐々に合流していくことになっている。
これまで馬車に乗った記憶もないセラ様はきょろきょろと車内を見回し、落ち着かない様子であった。
「さあしっかりと座って下さいね。案外と揺れるのですよ」
「はぁい。早く窓の外も見たいな……」
「それはもう少し離れてからにしましょうね」
お弁当に詰めたセラ様の好きなおかずや、食後の果物のこと。初めて触れた馬の肌の温かさや、お尻が跳ねる馬車の揺れ。何気ないひとつひとつのことでセラ様は感動を覚え、目をキラキラと輝かせている。
離宮から一歩外へ出て、まだ数分。たったそれだけの時間でも、セラ様の世界は急速に広がっているのだ。
あの日勇気を振り絞って、陛下に手紙を出して本当に良かったと思う。私の身勝手な欲望によって、セラ様を狭い鳥かごで飼殺してしまうような未来を選ばなかったことに安堵する。
昨日からソワソワしてなかなか寝付けず、さらには今朝も早起きして準備を始めたためかセラ様は少し眠たそうだ。
先ほどまでみせていた興奮は少し落ち着き、首がこくりこくりと揺れている。
「まだもう少しかかりますから、少しお休みくださいな」
「ん……わかった」
席を移り、端に寄った私の膝にセラ様が頭を乗せた。幼かった頃を思い出して口元に笑みが浮かぶ。サラサラの金の髪を優しく梳くと、間もなくすうすうと寝息が聞こえ始めた。
ここで休んでおけば、向こうでめいいっぱい楽しく遊べるだろう。無意識に口ずさんだ私の子守唄だけが、車内に響いていた。
「──わぁっ……! 広い……! ねえ、ミリア、すごい、広いね……!」
「ええ、緑が色鮮やかでとても綺麗ですね」
到着したのは、一面にシロツメクサの草原が広がる開けた場所だ。少し歩いたところには木々が立ち並ぶ木立もあり、下見をしてくれた騎士によるとその奥には小さな水場もあるそうだ。街道からは僅かに外れており、わざわざ通りかかる人もそういないだろう。ここなら確かにセラ様も思う存分遊べそうだ。
「さあ、セラ様。最後にもう一度だけ復習しましょうね。ひとつ、護衛の騎士たちから勝手に離れないこと。ひとつ、行っていいのはあの木の生えている手前まで。ひとつ、怪我をしないように気を付けること。ミリアとの約束ですよ。できますか?」
「わかった! 気を付けるね!」
「では、お昼までは自由にして結構ですからね。お弁当を食べたら乗馬の練習もしてみましょう」
「うんっ! じゃあ僕あっちの方まで行ってみたい! ミリアもついて来て!!」
弾かれたような勢いで駆け出していくセラ様を苦笑しながら追いかける。まずはこのあたりに敷物を敷き、ピクニックの準備を整えておこうか。一応動きやすい服装で、編み上げのブーツを履いてきたけれど。やんちゃ盛りのセラ様に追いつくのはなかなか難しいだろう。今は少し離れたところで、年嵩の護衛騎士に対して子犬のようにじゃれついている様子が見える。
やはり離宮の庭では狭かったのだなと思う。それにしたって、外からの視線を気にして毎日は出してあげられなかったのだ。
抜けるような青空の下、ふかふかの土と柔らかな草が足に当たる感触。吹き抜ける風の爽やかな香り。全身で感じるそれらのひとつひとつが嬉しくて仕方がないのだろう。仮眠をさせておいたのが良かったのか悪かったのか──。せめて水分くらいはこまめに取らせないといけないなと心に留めておく。
ころころと転がり大声で笑うセラ様を見ながら、私もそちらへゆっくりと歩み寄った。
騎士たちも含め、大勢でわいわい話しながら野外で食べる食事。初めて触れ、おっかなびっくり跨った馬。ゆっくりだがそのまま歩かせることも出来、嬉しそうに頬を紅潮させたセラ様はとても嬉しそうだ。
騎士に木剣を貸して貰い、型を見様見真似で習う姿は案外様になっている。一時は心理的に距離を置いていた騎士相手でも、こうして交流を持てばすぐに打ち解けられる社交性だってある。
さすがにはしゃいで疲れてきたのであろうセラ様を、騎士たちも優しい顔で見守っていた。
そろそろ今日のところは引き上げようかと片付けを始めた頃。木立の方から、ガサリとなにかの音が聞こえた。
「念のため確認して参りますので、どうぞこちらでお待ちください」
「ええ、分かりました。お願いいたします」
騎士のひとりが物音のした方向に駆けていく。他の騎士も帰り支度の為、馬の支度や馬車の準備に忙しそうだ。
心地良い疲労も感じつつ名残惜しさがあるのだろう、セラ様は改めて草原をぐるりと見渡していた。
「……あっ」
突然ぴくりと肩を揺らしたセラ様は、さっと立ち上がると徐に走り出した。
「セラ様っ、お待ちください」
今は近くに騎士がいない。セラ様の視線は、先ほど騎士が向かった木立と反対側の端のあたりを向いている。
「ミリア、今あの木の影から黒いウサギが出て来たよ! 絶対にそうだった、早く見に行こう! 逃げちゃう前に!」
「セラ様、いけません! 今は騎士様が……はぁっ、おりませんので」
走りながら叫ぶと息が切れてしまい上手く伝えられない。私の様子に気付いたセラ様は笑顔で数歩戻ると、私の手をぎゅっと握って再び走り出した。
「早く、早く! 逃げちゃうから!」
「セラ様……! 一度、とま、って……!」
かなり離れた位置にいた騎士と一瞬目が合い、彼が慌ててこちらに向かって来るのが見える。顔を前に戻すと、その視線の先の木立が不自然にゆらりと揺れて見えた気がした。
ぞわり、と不意に肌が粟立つ。セラ様に握られた手を、死に物狂いで強く引き寄せた。
「──セラ様っ!!」
驚き目を丸くするセラ様を隠すようにして胸に抱く。走っていた勢いが止まりきらず、私たちはそのまま草原にごろごろと転がった。
ピイっと警笛が鳴り、騎士たちが叫ぶ声が聞こえる。敵、賊、襲撃などの言葉が辺りを飛び交っていた。
地面から僅かに見上げたその木立の影。黒い衣服を纏い、妙に姿かたちのはっきりしない何者かがこちらを見て、笑っている……ように、見えた。
咄嗟に位置を入れ替え、胸の中に抱えたセラ様を地面に押し付けて、その上に覆いかぶさるようにして隠す。この方だけは。セラ様にだけは手出しさせない。私はもう二度と、大事な物を奪わせたりなんかしない。
「ミ、リア……?」
胸の中から、震える小さな声が聞こえる。
騎士たちの怒声、剣のぶつかる高い音、何かがどしゃりと崩れ落ちた気配。
「大丈夫です、大丈夫ですからね……セラ様は、絶対にミリアが守ります……!」
否応なく漂う濃密な血の匂いに身体が震える。
先ほどより近い距離で響いた誰かの足音に、肩がびくりと跳ねた──その瞬間。
「──呪われ王子が! ずっとボロ屋敷に引きこもってりゃ良かったのにな!」
どくんと不自然に心臓が鳴った。セラ様を抱えた指先が、じわりと冷たくなっていく。土を掻くブーツの足先が動かない。音が、遠くなって。身体の、自由が奪われて……。
パキ、パキ、パキ────
風になびく髪の毛の一本一本までをそのままに、次の瞬間、ミリアの身体は石へと変わっていた。