自分の家族だとは思えませんが
ちょっと長めです
久しぶりに見るアースノー伯爵家の屋敷はどこか煤けていて、活気がないように見えるのは私の心持ちのせいだろうか。
領地は王都から馬車で半日ほどで、立地が悪いわけではない。目立った産業もないけれど大きな問題もなく、堅実に運営していけば手堅い税収のある中堅の立ち位置のはずだ。少なくともミリア自身の記憶の中ではそうだったし、いずれユリスが跡を継げば賢いあの子はきっともっとこの領地を良くしてくれるだろうと思っていた。
しかし、ユリスの体調が良い日に散歩した思い出の庭は今や無残に荒れ果てており、本来ならそこにいるはずの門衛さえいない。仕方なく自ら門を開け、重い扉を開き屋敷へ足を踏み入れた。
「──ごめんください」
一応声を掛けてみたものの返答は特にない。先触れは出しておいたはずなのだけれども。見渡せる玄関ホールに見覚えのある物は無く、家を間違えたと言われた方が納得できるくらいだ。
どうしたものかとしばし立ち止まっていれば、奥の方からガチャンと何かが壊れる音が響いた。
「どうして旦那様は帰って来ないのよ!!」
「──すが……仕事──」
「あの人に一体何の仕事があるというの! 間もなく領地に戻って来るって言ったのに……!! 今年こそ、今年こそはって……!」
聞き覚えのあるこの高い声は、おそらく義母だろう。我が家に来た当初からヒステリックな人だと思っていたけれど、笑えるくらいに変わっていないらしい。なるべく関わり合わないよう暮らしていた二年程度の短い間でさえ、あの金切り声を何度聞かされたかしれない。
話が違う、旦那様を呼び戻せ、お前たちのせいだ、目障りなのよ──と。罵倒の台詞で母娘の血の繋がりを実感させられるとは、なんとも笑える話だ。
正直当時は突然やって来た「新しい母」を認める気には到底なれなかったし、向こうからも常に厳しい目を向けられていたから、互いにいい関係を築くなんて夢のまた夢だったと思う。しかし自分も大人になってみて分かったこともある。義母は本当に、父のことを愛しているのだ。どのようにして彼らが出会い、子供まで作っていたのかはよく知らない。けれど父の様子を思い返せば、きっと彼は初めから義母を利用するつもりだったのだろう。あんな手紙一枚で事情の説明もなく領地に置き去りにされ、強引に仕事を押し付けられたというのに彼女は今なおあの男の帰りを待っているのだ。
もとは男爵家の生まれだったという義母に、領地管理の知識があったとは思えない。妹の年齢からして、父とそういう関係になったのは今の私より年若い時分だっただろう。ようやく愛する人と一緒になれるのだと喜び勇んでやって来てみれば、伯爵領の運営を丸投げされて当人は姿を消してしまうなんて。そこに残っているのは、憎い恋敵が遺した幼い子供が二人だけだ。そこにどれほどの苦労があったのかは想像もできない。仕事に関しては頼まれれば多少の手伝いは出来たかもしれないけれど、義母はそれを望まなかった。だから、私も手を出さなった。
同情はしないし、多分今後も好きにはなれないと思う。
けれど、決して一過性ではなかった義母の愛は本物だ。そんな人を平然と利用し、先祖代々続いてきたこの家を潰さんとしている父が一番の病巣なのだろう。それが分かっていても今更私に出来ることなど何もないし、たとえあったとしてもする気はなかった。母とユリスが亡くなった時点で、もう私はこの家の一員ではなくなってしまったのだから。
挨拶に行こうか一瞬だけ迷ったが、今はやめることにした。あの状態で私が顔を出せば、余計に苛立たせてしまうだろうし。
もはや懐かしさも感じない廊下を通り過ぎ、まっすぐユリスの部屋へと向かう。普通なら片付けられていてもおかしくないほどの時間が経っているけれど、そうはなっていないという確信があった。ユリスの部屋には彼自身の手によって結界の魔法がかけられていたからだ。ユリスは病弱だったけれども、魔法の才能には目を見張るものがあった。むしろそれが原因で病弱だったと言ってもいい。魔力が多すぎたのだ。小さく虚弱な身体に収まりきらない力が、内側からどんどんと身体を蝕んでいく。それは成長と共に加速し、到底成人までは肉体が持たないだろうと予告されていた。
そんな彼が自ら施した魔法だ。きっと今も残っているに違いない。ミリアは確実に入れるけれども、義母や妹弟は入室を許可されていない。家を出ることを決めた時には貴重な蔵書を置いて行くのが心配だったけれど、容易には手出しできないと分かっていたからこそ決断できたのだ。
ぎぃ、と小さな音を立てて扉が開く。あの頃と少しも変わらぬこの部屋を見てようやく「家に帰って来たのだな」という感傷が胸に渦巻いた。紙とインクの匂いは驚くほどに記憶のままで、振り返れば本を膝に抱えた小さなユリスがおかえりと笑ってそこにいるのではないかと思えるくらいだ。
換気されていない空気はじとりと重い感じがするけれど、埃なんかは全く積もっていない。きっと清潔を保つための何らかの魔法も施されているのだろう。本の管理の為にもともと日当たりの良い部屋ではないけれど、それでも長期間放置していればカビのひとつも生えていておかしくないと思う。頭が良くて、先読みも得意だったユリスらしい丁寧な魔法だ。
生きているものの気配のない部屋をぐるりと見渡してひとつ息を吐き、持参したバッグを開く。用事はなるべく早く済ませて、セラ様のもとに帰りたい。
探していた王立学園の教本一式に、魔法基礎と応用。セラ様が特に得意とされている氷の適正に関する本は多めに選び出した。防御と攻撃についてのものと、治癒魔法は光適正持ちが少ないせいか蔵書も僅かであったがこれも一応持っていく。もし使えれば、いざというときに役立つだろう。
几帳面に並んだ本棚のうち、植物に関するものが並んだ一角。歯が抜けたように隙間が空いたスペースは、きっとあの日ユリスが持ち出したものだ。池の底に沈んでしまったのか、あるいは別のどこかにいってしまったのか。しばらく探していたものの、結局見付けることはできなかった。両隣の本の背表紙を指先で撫でて瞳を閉じると、瞼の裏には楽しそうに本を読み聞かせてくれたユリスの笑顔がはっきりと浮かぶ。
「──帰りましょう」
本はなかなかに重いものだ。十冊も持てば女の力では少々辛い。日々離宮の仕事に励んでいなければ、持ち上げることさえ難しかったかもしれない。でも今の私ならば運べる程度だ。この家を出てから、それだけの時間が経っている証拠でもある。
「ユリス、貴方の力も貸してちょうだいね」
もう一度部屋を見渡してから、軋む扉をぱたんと閉める。見えない結界が再び部屋を覆ったのを感じた。
長居する気もなかったがやはり辞去の挨拶くらいはするべきかと考えながら階段の前まで来たところで、突然背後から声がかけられた。聞き覚えのある、鼻にかかった高い声だ。
「えっ、アンタ……まさか、ミリアなの……?」
「……?」
振り返るとそこには、彼女の母親によく似た鮮やかなスカーレットの瞳と、それに合わせた赤いドレスで着飾った女性の姿があった。栗色の髪は父譲り。ざっくりと開いた胸元に派手な化粧はこれから夜会にでも行くのかという豪奢な装いだ。調度品も何もない質素な屋敷に不釣り合いなその姿はいっそ滑稽にも見える。
「……オレリー」
あの日父に連れられて我が家にやって来た、腹違いの妹だ。私のふたつ年下だったはずだから、彼女ももう二十二歳になるということか。貴族女性の適齢期としては終盤と言える年齢だけれど、この様子ではまだ未婚であるようだ。彼女ほどの美しさであれば、欲しがる家は少なくなさそうに思えるけれど。
「アンタ、今更何しに来たの……? まさかこの家に帰って来るだなんて言わないでしょうね。分かっていると思うけど、ここはもう私たち家族の家なのよ。もうアンタの場所なんてないんだから、戻るなんて絶対に許さないんだからね……!!」
激昂したオレリーは髪を振り乱し、足を踏み鳴らして怒声を上げる。彼女のそんな様子にもなんだか笑えてきてしまう。この家はところどころでおかしな具合に時が止まっているのではないかしら、と。
家を出る前まではしばしばこのように怒鳴り散らしてくる妹のことを恐ろしく思っていたし、それでも妹なのだからと多少は理解しようと頑張ったつもりだ。生まれながらに父は側におらず、囲われ者として平民たちと馴染むことも出来ず。見目の美しさ故に危険な思いや嫌な言葉を吐きかけられることも多々あったようだし、そんな時味方であって欲しい実の母は愛する男の背中を追うばかりで少しも守ってくれなかったと。
可哀そうな子だと思う。でもそれは、決して私のせいではないのだ。
『アンタは良いわね、母親に愛されて。生まれてからずっと貴族として贅沢させて貰えたんでしょ。綺麗な服着て、肌も髪もツヤツヤで。私たちがどんな暮らしをしてたかなんてちっとも知らなかったくせに!』
今なら言い返せる。知ったことか、と。
だけど。
『良いことを教えてあげるわ。お前を生んだせいで、お前たちの母親は死んだんですって! 親殺しのお前を愛する者なんているわけないわ。お前の姉だって優しい顔をしているけれど、心の中ではきっとお前を恨んでいるのだから!』
ユリスにそんな暴言を吐いているのを見付けた時に、彼女を理解しようとするのはもうやめた。なるべく優しく声を掛けることもだ。確かに魔力の高いユリスを生んだせいで、母は身体が弱くなったかもしれない。けれど確かに母はユリスを、ユリスと私を愛してくれていたから。息つく間もないほど忙しい執務を終えた就寝前、毎日欠かさず私たちの寝顔を見に来ていたと知ったのは、母が亡くなる直前だったけれど。
自分が傷付いた分他者にも痛みを与えようだなんて、そんなことは絶対に間違っているのだから。
「ええ、安心してちょうだい。たまたまユリスの荷物で必要な物があったから取りに寄っただけなのよ。もう用事は済んだから、私は帰らせてもらうわね」
ユリスの名を聞いたオレリーは、こめかみをひくりと引きつらせた。
「……この家の物は全部私たちアースノー伯爵家の資産でしょう? アンタが勝手に持ち出すなんて泥棒だわ。あの部屋は私も母さんも片付けたいと思ってたのよ。良いわ、ついでだから鍵を開けなさいよ。あの気色悪い子供の遺した物なんて、この際全部売り払ってやるんだから……!」
「──泥棒、ですか。いいえ、ユリスの持ち物は全てユリス自身の資産から購入した個人的なものですよ。それら全てに関する所有権の移譲手続きは生前の彼の手によって書類にも残されています。逆に伺いますけれど──私の母が遺した遺産はどうなってしまったのかしら。直系の女性が受け継ぐはずのジュエリーもいくつかあったはずなのですが。ふふ、本当の泥棒は……一体誰なのかしらね」
ぎり、と歯を鳴らしたオレリーは顔を赤く染めると、靴底を鳴らして詰め寄って来た。
ユリスを馬鹿にされたと思ってつい煽りすぎてしまったかもしれない。まずい、と思ったときにはもう遅かった。
「アンタなんかに私の気持ちが分かるわけない──!!」
ドン、と肩口を押され、後ろに一歩たたらを踏んだ。しかしそこはもう階段の降り口で。空を切った足は宙に浮き、目を見開いたオレリーの顔を見ながら私は階下へと落ちて行った。
──セラ様にこの本を届けなければ。ユリスの遺してくれたこの本だけは、絶対に守りたい。その一心で、抱えたバッグを胸に抱く。不思議と時間がゆっくり流れているように感じた。頭を打つのは良くないだろうと首を丸めて、ぎゅっと目を閉じる。
ガツン、と左の肩に衝撃が走り、内臓がふわりと浮いたと思ったら次いで背中の真ん中あたりにも痛みが生じた。うっと声が漏れ、閉じた瞼の裏に光が瞬く。ばさっと音がしたと思ったら、バッグから数冊本がこぼれていた。
「………………っ!」
手を伸ばそうにも、あまりの痛みに腕どころか指先さえも動かし方が分からなくなっている。はふはふと喘ぐように息を吸い込み、その僅かな振動さえも全身に痛みを響かせた。
「なんでよ……」
いつの間にか降りて来ていたらしいオレリーが、私の足元で震えている。
「なんで、なんで……あの子は死んだ後まで愛してくれる人がいるのに…………なんでなのよっ!!」
彼女は喚き散らしながら落ちた本を一冊無造作に拾い、それを力任せに引きちぎった。
「ああ──っ! やめて……!」
二つに分かれてしまったそれらの残骸を床に投げ捨て、オレリーはヒールを履いた足でぐりぐりと踏みつける。
私は未だ震える手をようやくの思いで伸ばし、這いつくばるようにして本の残骸を奪い取った。手を踏まれても、腕を蹴られても構わない。
これは、ユリスなのだ。大事なユリスが遺してくれた、セラ様の為の武器。ユリスを守ることが出来なかった私にもう一度与えられた、神からのチャンスだ。
愛する者をもう二度と失いたくない。誰にも奪わせたりなんかしない。
セラ様はもっと痛かっただろう。今もきっと不安に思いながら、ひとりきりの離宮で私の帰りを待っているはずだ。帰らなければ。必ず帰ると、約束したのだから。
「私のことは、何と言っても、構わない。目障りならば、正式に除籍、すればいいわ。だけど……私の、弟を貶めるのは、許さない。これは、私の大事な人を、守るために必要な物なのよ……!」
「アンタの、そういうところがずっと嫌いだった……! こっちが必死で欲して手に入れたものに、全然興味ないみたいな顔して……誰にも大事にされない私を、馬鹿にしているのよ!」
オレリーが固執する貴族の地位も、綺麗な洋服も、父親という存在も。私にとってはさして重要なものではなかった。
そんなことよりももっと欲しいものがあったからだ。
ユリスはもう手の届かない場所へ旅立ってしまったけれど。まだ、私を頼ってくれる人が確かに存在しているから。
セラ様を守るためならば、私はいくらでも強くあれるのだ。
幼かったオレリーの傷付いた心を癒すのは、同じく子供であった私の仕事ではないはずだ。あの頃もう少し彼女を気にかけて歩み寄っていたら、何かが違ったのかもしれないけれど。最初に拒んで、傷付けたのは彼女の方だ。
いくら私を羨んでも、彼女が求める両親からの愛は返って来ない。だって私が奪ったのではなく、初めからそんなもの存在していなかったのだから。
「……オレリー! また騒いでいるの? 頭に響くからうるさくしないでと何度も言っているでしょうっ!」
きんきんと──それこそ頭に響く声で怒鳴りつつ、姿を現した義母は記憶よりも幾分年を取っていた。当然だろう、私もその分大人になったということだ。
「お、お母様っ、ミリアが、このミリアが……っ!」
「ミリアですって……? この顔……あの女にそっくりになって……」
扇子で顎をぐいと上げられ、不躾に顔をじろじろと検分される。打ち付けた身体はまだずきずきと痛むけれど、ゆっくりとなら動けそうな程度には落ち着いて来たように思う。そっと患部に手を当てれば、なんだか痛みがマシになった気がした。
「──ご無沙汰しております、お母様。今日はこちらに置いたままだった荷物で必要な物があったので、取りに参りました。もう用は済んだのでお暇させていただこうと思いますけれど、私がここへ来るのがご不快でしたらこの際残りの荷物も引き上げますわ。必要であれば、これまでの保管料をお支払いする用意もございますし」
この様子だと領地の運営も上手くいっていないのだろう。思い出は確かにあるけれど、もうここには母もユリスもいない。
彼女たちが言う「家族」の中に、私は最初から含まれていないのだから。
「相変わらず生意気な口を利くこと……っ! 腹立たしいその顔、私にも旦那様にも見せないで頂戴! 一刻も早くよ、ああ、もうさっさと出て行って! 今日は旦那様が帰って来るかもしれないんだから……っ」
「お母様っ、でもミリアはあの部屋の物を持ち出していますわ!」
「うるさいわね! オレリー、いつまでとっくの昔に死んだ子やら既に家を出た娘のことにこだわっているの!? 貴女の婚約者からはさっさと輿入れしてこいと何度も要請が来ているというのに、趣味の悪いドレスを強請るばかりで何の役にも立ちやしないっ。向こうに行って我が家への大々的な支援を取り付けてくるくらいしてみせなさいよ! そうでなければ何のために育ててきたのか──」
母娘でやりあう金切り声を聞きながら、散らばった本を纏め直す。びりびりにされてしまったのは貴重な光魔法の本だった。それらも丁寧に拾ってバッグに入れる。痛む背中を庇いつつゆっくりと立ち上がり、もはやこちらを気にしてもいない二人を尻目にがらんとした家を後にした。
やはりもう、ここは私の居場所ではない。
帰ろう、私を待つ人のもとへ。