魔法は便利なものですが
「ユリス────っ!」
がばりと身を起こすと、そこは見慣れた離宮内の自室であった。じっとりと首筋を濡らす冷たい汗を拭き、乱れた息を整える。
この季節になると、毎年夢を見るのだ。あの日私の目の前で、蝋でできた人形のように白く冷たくなって水に沈んでいったユリスの夢を。
何年たっても忘れることなく、繰り返し、繰り返し。
「はぁ……。少し早いけれど、もう起きてしまった方が良さそう」
全く気分は冴えないけれど、もう寝直すことは出来ないだろう。今から支度を始めれば、まだ多少ぼんやりした頭でもしっかり朝食の準備には間に合うはずだ。
殿下は先日で十一歳を迎え、身長も随分大きくなった。私は二十四歳になり成長も止まって久しい為、抜かされる日も近いかもしれない。日々近くなる目線が嬉しくもあり、ほんの少しだけ寂しくもある。ユリスは十歳の少年の細く頼りない姿から、成長することが出来なかったから。
殿下は食べ盛りの年頃でもあり、私が作る簡単な料理でも相変わらずたいそう美味しそうに召し上がる。中でもスープがお好きなようだ。鳥の骨から出汁を取り、塩と少しのハーブで味を調えるシンプルなものである。具は旬の野菜を少しと、鳥の肉を叩いて肉団子にしたもの。この透き通ったスープの金色は殿下の髪色にも似ているなと毎回思う。今日はあのスープを作ろうか。殿下は喜んで下さるだろうか。
顔を洗い、髪を梳いてひとつにまとめる。お仕着せを着て、上から白いエプロンをかけた。
「ユリス、行って来るわね」
幼い弟の姿絵に声を掛け、私はキッチンへと向かった。
昨夜仕込んでおいたパン種をまとめ直して少し寝かせる。その間にかまどに薪を入れ、火をつけた。
「《laghu agni》」
指を振れば、そこに現れた火種がジリリと焚き付けを焦がす。火掻き棒で薪を突いて火力を調整したら、続いて鶏の仕込みに取り掛かった。下処理の済んだ丸鶏だったため、部位ごとに分けるだけである。勤め始めた頃はこの肉の処理がどうにも苦手で、血や腸を見る度具合が悪くなったものだ。毎回処理の済んだ食材が届くわけでもないし、巨大な牛なんかはともかく鶏くらいは自分で捌けないと話にならない。私は料理人ではないし、普通の侍女だったならもちろんそんな経験は一生しなかったのだろう。でも私はこの離宮でひとり、セラファン殿下の世話を全てこなさねばならないのだ。今では一本丸ごとの魚はもちろん、鶏も豚も羊さえも解体出来るようになった。いただく命に感謝は捧げるけれど、慣れというのは凄いなと思う。年を取って図太くなったこともあるだろうか。我ながら料理の腕も上がり、今ではそんじょそこらの街の飯屋くらいならいい勝負を張れるのではないか。もちろん、王族用に用意された最上級の素材を使っているせいも多分にあるのだろうけれど。
「《bhamvarah》」
風を起こして火力を調整し、かまどにパンを入れる。鍋には水を張り、鶏の骨とくず野菜を放り入れた。
「《vayu》」
鍋に圧力をかけ、一気に加熱する。こうすると随分時間が短縮できるのだ。あまり大きな鍋だと蓋ごと跳ね飛ばしてしまうので、最初の頃はスープをまき散らしてしまって逆に大惨事を起こしたのを思い出す。
この屋敷での暮らしは極めて単調だ。たった二人の閉じられた世界。そんな中で私たちが熱心に行ったのが、魔法の訓練だった。
セラファン殿下は王族なだけあって、強大な魔力を持っている。おそらくそうでなかったらあっという間に命を失っていただろう。幼いながらも体内に己の魔力を行きわたらせて、身の内を荒らし喰い破ろうとする呪いの力に対抗していたのだと思う。実際殿下と私が魔法の訓練を始め制御を身に着けてからは、あの恐ろしい呪いの症状も随分と軽減されたのだ。これならいつかは殿下自身の力で解呪できる日も来るのではないかと思う。
殿下が苦しむ日がなくなるのは、喜ばしいことだ。ただその日が来たならば、この箱庭と私は一体どうなるのだろうか……。
軽く頭を振り、魔法の制御に集中した。私は殿下に比べたらほんのちっぽけな魔力しか持っていないし、そうでなくても考え事をしてスープを台無しにするなんて殿下にも食材にも申し訳なさすぎるから。
小さな魔力でもあれこれ工夫すれば、ひとりで取り仕切る離宮の管理も随分負担を軽くすることが出来た。この器用さだけが私の自慢なのだ。
スープを一度漉し、具材となる野菜を刻んで入れる。肉は叩いて団子にし、食べ応えが出るよう気持ち大きめに丸めた。
パンの焼ける良い香りが空腹を刺激する。いつの間にか朝日はすっかり昇り、窓から覗く空は抜けるように青かった。
「おはよう、ミリア」
「おはようございます、殿下」
「もう、何回も言ってるでしょ。ミリア?」
「……おはようございます、セラ様」
「ふふ、うん、おはよう」
幼い頃はベッドまで起こしに行き、身支度も手伝ったものだけれど。少し前から殿下は自分で起き、私の手伝いを断るようになっていた。
陛下はがっしりとした体格で未だに鍛えていらっしゃると聞くし、亡くなった王妃様もすらりとした高身長でスタイルの良い方だったらしい。おそらくその血を継ぐセラファン殿下も将来は高身長に育つのだろう。他の王族たちが食べているような豪華な食事をしているわけでもないのに、既に殿下は年齢に対して体格が良い。思春期に差し掛かり、きっと色々と思うところもあるのだろう。本当に子供の成長とは眩しいものだと思う。
そのタイミングで、普段我儘など言わない殿下がひとつどうしてもと駄々をこねたことがあった。それが、自分のことを名前で呼んで欲しいというものである。
それまで私は「殿下」と呼びかけをしていたけれど、セラファン殿下とお呼びすればよろしいですかと問えばそれも違うのだという。通常王族を名前で呼ぶことなどありえないし、ましてや私は友人でさえないただの侍女なのだ。幾度も事情をお伝えして断ったが、しまいには「命令」まで使って承諾させられてしまった。
良くないということは今でも分かっているけれど、心のどこかでは思うのだ。私が殿下の名前を呼ばなければ、他に彼の名前を呼ぶ人は誰ひとりとしていないのだと。
もしかしたら、亡き王妃様ならば彼のことを「可愛いセラ」と呼んだかもしれない。交流のない兄王子たちも、もみじのように小さな手を握ってあやし、「ちいさなセラ」と呼びかけたかもしれない。陛下もこの優秀な王子を見て、「セラはよくやっているな」と褒めたかもしれない。でも、そんな日は来なかった。
だから、私ひとりくらいは良いじゃないかと思ったのだ。
まだ慣れることは出来ないけれど。その名を呼ぶたびに、セラ様があんまり嬉しそうに笑うから。その笑顔の為なら罰でもなんでも受けようと思えるのだ。
「セラ様、今日はスープに肉団子を入れましたよ」
「やった! あのミリアのスープ大好きなんだ。朝から食べられるなんて嬉しいな」
「ふふふ。パンも焼けましたから、いただきましょうか」
「いい匂いでお腹ペコペコ。並べるの手伝うね!」
もしかすると今の状態ならもう、他の使用人たちを戻しても呪いの影響は少ないのかもしれない。だけど私はそのことに気付かないふりをして、今日もセラ様と同じ食卓に着くのだった。