大切な弟がいたのですが
私には五歳年下の弟がいた。私とよく似た赤茶色の緩い癖毛に、私より深い緑色の瞳。幼い頃より身体が弱く、あまり外に出られなかったせいか肌はそこらの令嬢たちより青白かった。母は弟を妊娠したあたりから体調を崩しがちになり、それでなくても屋敷の管理や領地運営の仕事で忙しくなかなか顔を見る機会さえない。であれば、と年上ぶって甲斐甲斐しく世話を焼く私に、弟はたいそう懐いてくれていた。初めて話した言葉だって「ねぇね」だったし、いつもよちよちと歩いて私に向かって小さな手を伸ばし、この胸の中に飛び込んできた温かさを忘れることはできない。
可愛いユリス。私の大事な、愛する家族。
外を走り回れないユリスに私は沢山の本を読み聞かせた。彼は一度聞けばその話を記憶することができ、得意げにそれらを諳んじてみせた時にはたいそう驚いたものだ。その後文字の読み書きを覚えてからはもっと驚くことばかり。簡単な物から始めて、あっという間に私でも読んだことのない辞書のような分厚い本までひとりで楽しそうに読むようになった。外に出られない彼にとって、本の中の世界はどれほど広く見えただろう。どこまでも広がる青い海のこと、山奥にだけ生える甘い果実のこと、遠い外国に住む私たちとは異なる外見を持った種族のこと。それらを色鮮やかに語るユリスの言葉で、私の世界まで広がっていく気がしていた。
「姉上は、僕の分まで広い世界を沢山見てきてね」
「ユリスも病気が治ったら外に出られるわ。そうしたら一緒に行きましょう?」
「……うん、そうだね。それまでは、姉上が見て来た楽しいものをたくさん話して聞かせてくれる?」
「ええ、もちろんよ。私がユリスの目に、そして手足の代わりにだってなるから」
「ふふふ。僕は姉上の弟に生まれて、本当に幸せだな」
熱のせいか頬を赤く染め、僅かに潤む瞳を柔らかく細めてユリスは笑った。
その笑みは心から嬉しそうで、でもなんだか無性に胸の奥を騒めかせた。だってあまりにも──美しかったから。私の手の届かないような、触れてはいけない神聖なものに思えたのだ。
「私もユリスが弟に生まれて来てくれて、本当に幸せよ」
だから、いなくならないで。
ずっと私の側で笑っていて欲しいと願っていたのに。
私が十四歳の時に母が亡くなった。最期のその時まで母は書斎に詰めて仕事をしており、急ぎの要件はしっかりと処理を済ませ、そうでない物は丁寧な解説と共にきっちりと整理されていたのが実に母らしいと思ったものだ。母は父の代わりに伯爵家の全ての実務を担っていたのだから。
幼い頃は私に興味がなく、愛していないから会いに来てくれないのだと思っていた。同じ家に住んでいるのに驚くほど顔を合わせる機会がなかったのだ。食事も別で、執務室からほとんど出てくることのない母。私はまだいい。でも、まだ幼いユリスにはもう少しくらい気遣ってもらえないかと勇気を振り絞って訪れた執務室。母は私の顔を見て、疲れた顔ながらも嬉しそうに笑ったのだ。起きているときに見るとやっぱり違うわね、会いに来てくれてありがとうと。
それからは手伝える範囲のことは手伝ったし、その合間に僅かながらも父の話を聞いた。
領地にはほとんど顔を出さない私の父は、元々この家の嫡子ではなかったのだとか。幼馴染だった母と父は予想外にも昔から仲が良く、芸術肌で飄々としており一風変わったところのある子供だった父は絵をかくのが好きだったそうだ。
嬉しそうに、でもどこか悲しそうに、昔お父様に描いてもらったのよと見せられた母の肖像画はちょうどその時の私と同じ年頃の少女の姿で。はにかむ赤毛の少女の絵はとても美しく、スカートの刺繍のひとつひとつまで丁寧に描かれていた。
事情があり急遽当主になって跡を継いだ父は、やはりその性質を変えることができなかったようだ。領主としての仕事はしっかり者の母に任せ、自分は変わらず趣味に勤しんでいた。絵を描くために領地を離れたと思ったら、遠い土地で才能を見出したという若い芸術家に投資したりもしていたようだ。ふらふらと家を空けてはお金を使い、またふらふらと出て行くことの繰り返し。その合間に私たちが生まれ、しかしそれでも父は変わらなかった。
領主としても親としても、根本的に向いていない人だったのだろう。母が亡くなった日も彼は家にいなかったし、葬儀の後に呟いた「これから僕はどうすれば……」との言葉を聞いた瞬間に、私の中の父という存在は消えてしまった。もう保護者はいない。私が、私自身とユリスを守っていかねばならないのだと。
形だけでも一応家にいるようになった父だが、それもだいたい一年ほどで限界が訪れた。ぼんやりしたり苛々したりを繰り返すようになり、突然家を空けたかと思えばある日突然三人の男女を連れて戻って来たのだ。
一人は父と同年代の妖艶な女性。華やかな金髪は手入れが行き届いていないようだが顔の造作は比較的整っており、胸が大きく腰は細い肉感的な身体つきをしている。身に纏ったシンプルな服装はいかにも平民向けのものだが、それがかえって彼女の女性的なスタイルを強調していた。スカーレットの瞳が強い光を宿しており、屋敷の中や私たちを鋭く観察している様子であったのを覚えている。
もう一人は私よりひとつふたつ年下に見える少女で、肩につくくらいの長さの髪は父と同じ栗色だ。瞳の色は横の女性と同じスカーレットだけれど、顔立ちが如実に父と似ているなと思った。まだ少女らしいあどけなさを残しつつも、しなやかな肢体は既に女性らしさを醸し出している。同性の私であっても危うい魅力のある少女だと感じた。
最後の一人はユリスより少し大きいくらいの少年だ。健康そうだがまだ成長途中で華奢な身体つきをしている。慎重に周囲を確認する姿は怯える野良猫のようで、私と目が合った瞬間にその釣り気味の瞳をはっと見開いていた。
「今日からお前たちの家族になる。新しい母と、妹弟たちだ。これからは彼女たちとうまくやりなさい」
「私はオディール。……アースノー伯爵夫人になるわ」
「……オレリー」
「フィリップです。よ、よろしく」
父の言葉とは裏腹に、穏やかならぬ眼差しで私を眺めるお母さまは本当にうまくやる気があるのだろうか。オレリーもあからさまに険のある目つきで私の服装や顔立ちをじろじろと検分している。フィリップだけはもじもじと頬を染めつつぺこりと頭を下げた。
「ミリア・アースノーですわ」
家庭教師に教えられた通りの作法で優雅に軽くスカートを摘まんで挨拶をすれば、母娘が揃ったようにふんと鼻を鳴らした。
「ユリス・アースノーです」
ユリスが軽く礼をする。一番年下にはなるけれど、現状この家の嫡子であるユリスは父の次に立場が高い。これでも十分に礼を尽くした対応といえた。にも拘らず、どうやら不満を覚えたらしい女性陣が顔を顰めた。
ユリスを庇うように私が一歩前へ出ると、この場で事を荒立てるのはやめにしたらしい。こちらとしても上手くやれるとは到底思えないけれど、初日から問題を起こしてくれなくてよかったと僅かに安堵した。
そんな私たちの様子を見つめる少年の眼差しは、何故だかじっとりと湿っている気がした。
それぞれに部屋を用意したり、必要な衣服を用意したり。彼女たちの生活の場を整えるための手続きは私がやった。書類は流石に父が作っているのだろう。正直言って、母が亡くなってまだ一年だというのにこの人たちを連れて来た父に幻滅していたし、そもそも父によく似たこの子供たちは私とさして変わらぬ年齢なのである。中でも、ユリスが一番年下であるというのが私にとって最も忌まわしい事実だった。全ての執務を押し付けて、伯爵としての仕事は種をまくだけしか為さなかったこの男は。母から搾り取れるだけの全てを搾り取った上で、その隙に他の家族を作っていたというのだろうか。そのくせ、たまにふらりと帰ってきては平然と母をも抱いて去っていったのか。
妊娠中の悪阻に苦しみながらも必死で執務をこなしていた、母の苦労などひとつも知らないで……。
その肉感的な身体をすり寄せて、私たち子供が側にいようがお構いなしに娼婦のような振る舞いをみせるお母さま。この先ずっとこんな光景を見せられ続けるのかと辟易していれば、その後数日で父は屋敷をあっさりと出て行った。新たに整えた義母の部屋で響く金切り声に駆け付けてみれば、くしゃりと丸められた手紙が一通、私に向けて投げつけられた。軽く広げて確かめたそこには見慣れぬ父の文字で「領地の仕事は頼んだ」と書かれていたのだった。
私とユリスは、なるべく彼女たちと顔を合わせないようひっそりと暮らすことにした。もとよりユリスは自分の部屋からめったに出ないし、私ももう執務の手伝いはしない。ただユリスが健康で暮らせるように気を配り、共に本を読んで、体調のいい日には時々庭を散歩した。運ばれる食事は日増しに質素になり、衣服や装飾品などは取り上げられてしまったけれど。それでも生活に支障があるほどではなかったように思う。
領の運営がどうなっているのかが気にならないわけではなかったけれど、あの父がこの状況で家に連れて来たということは、最初から新しいお母さまに執務を任せるつもりだったのだろう。どう見てもこちらに対して友好的ではなかったし、何かを聞かれることも頼まれることもない。未成年である私にできることは極めて少なかった。ユリスが継ぐはずだった伯爵位だけれど、この頃にはますます寝込むことが多くなったユリスを見ていると現実的には難しく思える。このタイミングで新しい弟が現れたというのであれば、私とユリスは領地の端に小さな家でも貰って療養しつつ静かに暮らすのもいいのではないか、なんて考え始めていた。
ユリスの看病に母の死、父の失踪と新しい同居人たち。次々と起きた色々な変化に、正直私は疲れてしまっていた。
その日は穏やかな晴天で風もなく、まさに散歩日和と言える気候だった。義母は買い物だか茶会だかで家を空けており、新しい弟は嫡子としての知識を付けるべく教育を受けているようだ。妹はだいたい義母にくっついて歩いているらしいけれど、今日は気分が乗らないから自室にいると聞いていた。
「ユリス、今日は天気が良いから少し庭を散歩しない?」
だから私はユリスの部屋を訪れ、そう声を掛けた。しかし室内からは何の返事もなく、また体調を崩しているのではないかと心配になった私はそっと扉を開けた。ユリスの部屋の扉は彼自らの手によって結界の仕掛けが為されており、登録してある限られた人しか開くことが出来ないようになっている。だから常に鍵がかかっているとも言えるし、私にとっては常に開かれているとも言えた。寝込むことが多いユリスの看病のため、私はいつでも入室していいと許可は得ていたのだ。
「ユリス……?」
ベッドに人影はなく、そっと触れたシーツに温もりはない。壁際にびっしりと詰まったユリスの書棚は相変わらず整然と並べられており、その中で一か所だけ隙間が空いているのを見付けた。どこか別の場所で本を読んでいるのか、本の内容に関することで興味を惹かれ足を運んだのだろうか。
隙間の両隣には植物や薬草に関する書物が収まっており、きっとその間にあったはずの本も同系統のものだろう。
「ひとりで庭に出たのかしら……」
なんだか無性に胸が騒いだ。早く、ユリスを探さなければと。
くるりと踵を返して階段を降りる。その途中、妙に青い顔をした妹とすれ違った。手には珍しく一冊の本を持っており、私には目もくれず自室へ戻っていく様子はどこか不自然だ。いつもならば私に対して目障りだとか、そんな服は不相応だとか、ぐちぐちと言いがかりをつけてくるはずなのに。
まあでも今は急いでいるし、余計な時間を取られなかったのは幸いだと思うことにして先へと進む。庭へ続く扉を開くと、差し込んできた太陽の光に目が眩んでしまった。少し目を細めたまま綺麗に整えられた芝生に足を下ろすと、柔らかく靴の底が沈む。
一歩進んだところで太陽に雲がかかったのか、明るい日差しが一気に暗く陰ってびゅうっと冷たく強い風が吹き抜けた。
乱れた前髪を手櫛で梳きつつ、はっはっと妙に響く己の息遣いを聞きながら庭の奥へと進む。薬草を育てているあの花壇のあたりだろうか。それとも、心地いい木陰が出来るからと新しくベンチを置いたあちらの方か。
「ユリス……、ユリス、どこ……?」
ばしゃばしゃと水の音が聞こえる。
さほど大きくはないが、敷地内には池がある。
でも、あの池には生き物は住んでいないはずで。今は、水生の植物だって時期ではなくて。だから──でも、だけど。
自然と足が早まる。土を跳ね上げ、どくどくと嫌な音を立てる胸元をぎゅっと握りしめて。
私は、走った。