目覚めたら十七年経っていたのですが
「……ん、痛……っ」
何故だかひどく軋む身体をギシギシと動かし、手をついて上半身をゆっくり起こす。いつの間にか寝てしまっていたようで、目前には壁しかなかったからすぐには分からなかったけれど。どうやらここは自室ではなく、見覚えのない建物のようだ。
妙な感じに全身の関節が痛むし、さすってみると両腕の皮膚はひやりと冷えている。まあこの石造りの建物の中、特に掛け物もなく寝ていたようだから当然なのかもしれないけれど。それにしたって、これは……一体、どういう状況なのだろうか。ぼんやりする頭でひとまず周囲を観察してみることにした。
私が寝ていたのは、小さめの寝台ほどの大きさの箱だ。ともすると棺桶のようでもあるが、蓋はない。丁寧に施された内張はソファーのように柔らかで、上等な生地に見える。実際今手をついている底の部分を指先でさすってみると、滑らかなシルクのようでうっとりしてしまう。ドレスにも使えそうなこの生地を寝具……? に使うなんて、誰のどのような趣味だろうか。
また、特に気になる物は他にもある。目覚めた時から腕の中にぴたりと収まっていた、人ほどの大きさのふわふわしたクッションだ。おそらく抱いて寝ていたのだろう、妙にしっくりきている。今は膝の上に乗せているけれど、こんな細長く妙な形のクッションはあまり見たことがない。確かに、何かをぎゅっと抱きしめて寝るのはなんだか心が温かくなるし安心できるから、安眠にも繋がる気がする。箱の内張と同様、このクッションもたいそう高級な仕立てだ。寝心地を追求するためか表面に刺繍などは入っていないけれど、肌触りも良いし爽やかな香りもする。これは確か……セラ様が好んで、クローゼットに焚き染めていた花の香だろうか。何故だか胸がぎゅっとして、懐かしいような不思議な気持ちが湧いてきた。
私が身に着けているのは着慣れたいつものお仕着せではなく、外歩き用の動きやすいドレスだ。こんな高級そうな生地の上に寝ていたにもかかわらず、少々汚れたブーツを履いたままなのは何故だろうか。歩きやすくて気に入っていたはずのこの靴は、いつも仕舞う前にきっちり手入れをしていたはずで。それが今こんな状態なのはどういうことだろうか。なぜドレスのまま寝ていたのかも、ここがどこで今どういう状況なのかも、頭がぼんやりしていて思い出すことが出来ない。
何か、大切なことを忘れている気がするのだけれど……。
大分身体も温まって来たので首を周囲に巡らせ、部屋の内部も確認してみる。やはり、見覚えはない場所のようだ。石造りの壁で窓は一切ない。扉は奥の方にひとつ、家具もほとんどなく、唯一あるのは私が寝ていた箱の横に置かれた椅子が一脚だけ。箱自体は台座にでも据えられているのか少し高さがあるため、椅子に誰かが腰掛けるとちょうど視線が合う計算だろうか。
天井には明かりの魔道具が設置されており、それは贅沢なほどに煌々と室内を照らしていた。床にもほこりなどはひとつも積もっていない。ふと思い立って自分の髪の毛にも指を通してみたが、さらさらと流れる感触はいたって清潔に思える。時計もないし、どれほどの時間私がここで寝てしまっていたのかも推測は出来なかった。
どうしたものか、としばし茫然としていた私の耳に、ぱたんと扉の開く音が届く。
唯一の扉があった方向へ顔を向けると、そこにはひとりの長身な男性が立ちすくんでいた。
サラサラの金髪にきりっと形の良い眉。やや切れ長の瞳はブラックダイヤモンドのように美しく、通った鼻筋に薄めの唇が今は可愛らしくぽかんと開いている。
「……ミリア……」
その声を聞いた瞬間。
大量の情報が一気に脳裏へ流れ込んできて、その衝撃に起こしていた上体がくらりとよろめいてしまった。
思い出したのだ、命を賭してでも守りたかった人のことを。あの時、周りには沢山の敵がいて。突如戦場のようになった草原は、緑の草木の上に赤い血飛沫を浴びていて。木陰から現れた黒い服の男が、呪われ王子と……そう、セラ様を、呪われ王子と呼んだのだ。
「セ、ラ、さま……」
口から発した声は、驚くほど音にならなかった。ひどく掠れたその呟きは、それでも確かに届いたらしい。
「ミリア……っ!」
駆け寄って来た青年が私の背中を支えてくれる。大きな手だ。大人の男性の手。声は低く、近くで見るとより一層身長の高さを感じる。
受け入れたくない。そんなはずはない。そう思うのに、心の奥底にいる何かは確かに理解しているのだ。
これは、セラ様なのだ、と。
膝に乗っていたクッションを徐に放り投げ、彼は上体を屈めると私の肩をそっと抱きしめた。耳に当たる息がくすぐったい。
「ミリア、ミリア……。ごめん、ごめんね。ああ良かった、ミリア……」
「セ、ラ様、なの、です……よね?」
「うん、そうだよ。僕が、セラ。ミリアが寝坊している間に──……僕の方が、年上になっちゃったんだ」
「寝坊……私、どうして……」
「ごめん、ミリア、僕が……僕のせいで、ミリアは石になってしまって……」
「石に……ああ、だからあの時……」
おそらくあの黒服の男に何かの攻撃を受けたのだろう。動かなくなっていく身体と狭まる視界、遠ざかる音に自分の身体の変調を感じてはいた。
「……あれから十七年、経っているんだ」
「じゅう、七年……?」
セラ様の背に回そうと思い、なんとか持ち上げかけた手がびくりと震える。十七年とは一体どういうことだろうか。生まれたばかりの子がとっくに成人するほどの長い時間が、過ぎているというのか。確かにあの日十一歳だったセラ様の姿は、すっかり立派な大人の男性になっていて。
ゆっくりと離れていくセラ様の顔を間近でじっくりと見つめる。この瞳、やはり偽物などではない。嘘でも、冗談でも、多分……夢でもない。だってあんなにずっと一緒に過ごしてきたのだ。分からないはずがなかった。
悔しいような、悲しいような、でもどうしようもなく嬉しいというような、そういう瞳の色をしている。少年の頃と同じように表情をころころ変えることはないけれど、それでも雄弁に物を言う私の大好きな色。
「セラ様は……すっかり大人に、なられたのですね……」
生きていてくれた。ただそれだけで、とても嬉しい。
私が守れなかった間に辛いことはなかっただろうか。危険なことはなかったのだろうか。聞きたいことはたくさんあるけれど、それでもやっぱり。
「私は、セラ様を、守れましたか……?」
「……っ」
僅かに唇を噛んだセラ様は、一度目を閉じてからこくりと頷いた。
「ミリアのおかげで、僕は命を失わずに済んだ。守ってくれて……本当に、ありがとう」
「……良かった……」
私は、間違えなかったのだ。
ゆるりと笑んだ私を見て、セラ様もその目を細めて笑い返してくれた。
あの頃の無邪気な笑みとは違う大人の男性の表情に、なんだか胸がどきりとしてしまう。確かに私が知っているセラ様のはずなのに、長い月日は無邪気な少年を妖艶な大人にも変化させてしまうのか。
内心で慌てる私に、セラ様が手を差し伸べる。その大きな手と節くれだった指先からなんとなく目を逸らすと、熱い指先がふわりと私の頬に触れた。
「……セラ様……?」
「全部、責任を取るから。ね……僕の、ミリア」
顎をくい、と上げさせられると、ついに間近で目が合ってしまう。
その瞳は新月の夜空のように深く、昏い。
ぱちりと瞬きをした次の瞬間には、セラ様の唇と私のそれが重なっていた。
「──んっ……」
ぼやける視界の中、その黒が私の思考を染めていく。入り込んできた熱い舌先が私の口内を犯す感触に、背中がぶるりと震えた。
怠い身体は突然の出来事を拒む力もない。例え身体が自由であったとしても、私がセラ様を拒めたかと言えば──きっと、出来なかった気がするけれど。
私が守れたのは多分、セラ様の身体だけ。
ぼろぼろになってしまったその心の内に、どれほどの傷を隠しておられるのだろうか?