革命の、そのあと。
かーん、かーん……――両親の死を知らせる非情な鐘の音に耳を傾け、瞼を閉じる。
沸き立つ民衆、噴き出す血潮。
今頃赤く染っているだろう「自由」の名がつけられた広場は、両親の首を中心に歓喜の渦が巻いているに違いない。六百年の王政の果て、時代は進み、失政を重ねた王家は不必要になった――それだけの話だ。
そしてまた、最後の王の娘であった私もいずれ殺されるのだろう。
牢獄に幽閉されてから早一年、両親も兄もいなくなり、残された王の直系はこれで私だけになる。
ガス灯が煌々と輝く暗闇の中、冷たい壁に背をもたれて足を投げ出し、ゆっくりと瞼を下ろす。
指を組んで今し方命を終えた両親のために祈りを捧げ、それから開いた扉の先に立つ男の青い瞳を見た。
「お前、何をしているの」
掠れた声を喉から絞り出す。いかにも貴公子然としたその美しい男は私の問に答えることもなく、許可を得ぬままに私の領域に足を踏み入れた。
かつかつと彼の靴の底が音を鳴らす。履物も与えられていない私の足は赤く、すり傷だらけだ。他国から嫁いできた母が好んで着ていた田舎風のモスリンの服は擦り切れて穴が開き、それを着ている私は王都の貧民街に暮らす哀れな女と相違ないだろう。
「哀れみに来たというのか? それともお前、断頭台に私を送る都合がついたことを知らせに来たのではないだろうね」
「殿下」
「私はただのリリスだ。エセルディ=ルイ・クラウス、革命軍の主格たるお前はそれをよく理解しているだろうに――ひとときでもお前を信じた私が愚かだった」
エセルディが私の前で片膝をつく。それから逃げるように立ち上がり、項垂れた黄金の頭を見下ろした。一年前と何ら変わらない姿にずきりと胸が痛み、動揺を隠すためにリリス=マリー・ド・デュランシスとして生きていた時のように毅然と背筋を伸ばす――かつて婚約を誓い合った筈の男が、今や私の生命を脅かす存在になるとは思いもしなかった。
彼を愛していたのか、と問われると、どうだろう、というのが本音だ。
対外戦争を重ねた曾祖父の代からの負債が尾を引いて財政難に直面していた王室は、国一の資産家の公爵家との繋がりを強化しようと私とエセルディを結びつけた――それが始まりで、ロマンスなんてものは何も無かったのだ。
幼い頃から定められた三つだけ年上の少年に、幼い私は反抗的だったように思う。
他国の王族に嫁ぐものだと思っていた私は、権威よりも自由を愛するという奔放なエセルディの父の考えが理解できなかったし、それに私は単に病弱で我儘な子供だったのだ。
けれど、そんな子供にも少年は根気強く接してくれた。季節毎の贈り物も欠かさず、気障な物言いでこそあったものの人の心を掴む才能に長けていた彼に、私は次第に絆されていって。
『殿下、どうか目も向けられぬ野花の美しさを理解される御方になってください。価値を見出されずに摘み取られるその草花を不必要だと断定しているのは、あくまで全ての者たちではございません』
庭園に目を輝かせる私に、博識な彼は花の名前をすらすらと並べ立てながらあらゆることを教えてくれた。
私はそんな彼を実の兄のように大切に思っていたし、一緒になった後もきっとうまくやっていけるだろうと信じていた。エセルディだけが、着飾ることしか知らない幼い私と対等に向き合ってくれたから。
なのに、エセルディは――世界で一番最低最悪なことをした。
十四の時、民衆の自由と平等を求める共和派が王党派を攻撃して議会を掌握し、それでも尚権威に縋ろうとしていた王一家を地方の宮殿に軟禁したところまではまだよかった。
エセルディの父が共和派に協力していると聞いても、それでも私はまだ彼の妻になるのだと信じて疑っていなかった。
捏造された王一家の悪評を広められようとも、私たちの知らないところで王党派が共和を求める市民を弾圧して虐殺しようとも、母の祖国との戦争が起きて各地で戦いが繰り広げられても、兄がまともな治療を受けられぬまま流行病で命を落としても、そして国王夫妻の処刑が決定されても。
私はまだ信じていた。
無知なお姫様は、まだ誰かの救いを期待していたのだ。宮殿を包囲する革命軍――否、正規の国軍の先頭でエセルディが彼の父の隣に立っているのを見るまで。
呆然と立ち尽くす私の前で、すっかりやつれてしまった両親が蹴飛ばされるように乱暴に馬車に乗り込ませられる。
私を一度振り返った母の表情は悲嘆に満ちていて、誰よりも美しかった黒髪は白髪に変わってしまっていた。
その時にはもう、私は私たちの運命を悟ってしまっていた。
淡い希望を打ち砕かれて絶望する私の前にエセルディが片膝をついて手を差し出してきても、せめてもの反抗でその手を強く打ち、誰の力も借りずに馬車に乗り込んだ。王女として示せる最後の矜恃が、それだったから。
そうして私たちは宮殿からこの牢獄のような塔に移され、一年経った今、遂に両親の処刑が執行された。
この後私の処遇がどうなるのかは分からない。両親のように殺されるのか、それともどこかに引き取られて嫁がされるのか。
「エセルディ、お前たちは私を殺すの?」
「いいえ、私の元へいらしていただきます」
――一瞬、呼吸が出来なくなった。
冴え冴えとした青い瞳が私を見上げ、鉄球のようなその言葉が私の心臓を打ち砕く。今度は隠せない動揺に、私は唇の端を歪める。
何故家族を殺し、私を裏切ったお前の元に行かなければならないのだ――それなら殺される方がずっといい、失政を働いた両親は仕方ないにしても、ろくに看護もされずに汚い寝床の中で苦しみながら死んでいった兄を思うと、私は押し潰されるような思いに息の仕方を忘れてしまうのに。
はは、とわざとらしく声を上げて笑い、傲慢な仕草でエセルディの顎をぐいと持ち上げる。彼は表情を少しも動かさなかった。
「お前が私たちを裏切ったのではないか。お前にとって私はまだ利用価値があるとでも? 家族を無惨に殺されたのだ、私がお前たちを殺そうとしないとは限らないぞ」
「貴女様をお守りするためです」
「同情などいらぬわ、王家の生き残りを生かしておくことがお前たちの望む『自由』に利益をもたらすわけでもなかろうに――それともなんだ、お前にとって私はまだいたいけな幼い婚約者のままか」
冬の寒さに凍えていた時も、兄の死に際の時も。まともな食事を与えられずに痩せ細っていく私たちを見て、エセルディは何を思っていたのだろう。
国を破壊し尽くした王家に対する当然の報いだとでも考えていたのだろうか、祖先が敷いてきた悪政と時代の流れに翻弄されてしまったのは私たちも同じなのに。
冷えきった空気に、鼻の奥が痛む。身分制の頂点に立つということが“そういうこと”であることは分かっている。
王が神である時代は終わりを告げ、力をつけた人々が彼らによる彼らのための時代を求め、そうして「自由」のために打ち倒されること。
革命がいずれ訪れる必然であったことは仕方ないけれど、でもこんな残酷な終わりを迎えることも正当化されてしまうのだろうか。
「――『自由』ほど罪深いものはございません。『自由』の名のもとにどれだけの命が奪われたのか、振るわれた正義は本当に正しかったのか。英雄という言葉に酔いしれる人間も多かったことでしょう」
彼の手が彼の顎に添えた私の手を外す。立ち上がった彼を見上げた私は思わず後退ったけれど、すぐに背中に壁が当たった。
行き場をなくした私に、エセルディが無感情な顔で迫ってくる――昔は表情豊かで少年らしい少年だった彼は、いつの間にか冷徹な男に変わってしまった。
「この国を護るために父の言葉に従ったことに悔いてはおりません。迫る内外の危機を打破するには旧体制を根本から覆さなければなりませんでした。諸外国からの反発は免れることは出来ませんが、あらゆる点で停滞したこの国を改革していくのに、旧体制では限界がありましたから」
彼の長い腕が私の顔の隣に伸びてくる。工業化に遅れをとったこの国が、他国に比べて圧倒的に不利な立ち位置にいるのは知っていた。他国の技術に目がくらんで結んだ通商条約が国内の経済に大打撃を与えたことさえも、私は。
父も外相も分かっていたはずだ、自分の行いが自らの首を絞めていたことなんて――もっと違うやり方は無かったのだろうか?
血が流れなければならない方法しか、本当に選べなかったのだろうか。
エセルディはそれを選択できる立場ではなかったのだろうけど、けれど。
噛み締めた唇から血の味がする。かつて「鷹の目」だのなんだのと称された父譲りの鋭い金の目をエセルディに向け、「戯言を」と吐き捨てて彼の頬を強く打った。
「『英雄気取り』がよくもまあ言うものだな、お前の情婦となって生き恥を晒すよりかは今ここで自ら首を切る方が幾分かましだろう――下衆め、我が王家への忠誠の為に命を散らした臣下たちも報われぬわ!」
見苦しくとも、無様に泥水を啜ろうとも、無惨に踏み躙られようとも、生きなくてはならぬ、と思える程には私は強くはない。
後ろ指を指されながらエセルディの庇護の元で生きていくくらいならば、私は自ら命を絶とう。それは全てを失った私に残された、唯一の権利でさえあった。
「私は最後の王の娘だ。それは如何なる時も真実であり、お前たちの望む『自由』をも脅かすだろう。エセルディ、お前の敬愛する父は私を殺したいのではないか?」
最後の王女として、最後の瞬間まで強くあり続けよう――そう低く抑えつけた声が、震える。
決して涙を流すまいと口角を上げてみても、胸底から湧き上がってくるどす黒い感情がそれを許さない。
ああ、本当に。叶うならば、お前のその見開かれた美しい碧眼をこの手で抉り取ってやりたいのに――声を殺して無様に涙を流す私をただ見つめているだけのお前が、心の底から憎くて仕方がない。
エセルディは、私が打った赤い頬を押さえることもしなかった。
ただ押し黙って私を見つめ、何かを逡巡するように僅かに俯いた後、感情の乏しい表情に小さな亀裂を入れる。
「殿下」
「黙れ」
「私は……貴女様を妻にお迎えする日を、幼い頃からただ夢見ておりました。例え何が起ころうとも貴女様が幸福な生涯を送れるように、と」
「だがお前は私を裏切った」
お前が何事もしなければ、私はお前の望み通り幸福であれただろうな。
そう詰ろうとしても、引き攣った唇は望んだ通りの言葉を紡いでくれない。どんなに憎かろうが長年兄のように慕ってきた彼には情がある――恋情はなくとも生涯を寄り添っていけると思えていた相手の裏切りは、いとも容易く私の心を凍らせて粉々に砕いてしまったというのに。
「いくら拒んだとしても、私は既に定められた通りにお前の元へ行くことになるのだろうね。その同情がまた私を絞め殺すのだ、父や母や兄を殺した男に組み敷かれることのおぞましさに身悶えして泣く女が幸福だとでも?」
「……皇国が帝国人捕虜と貴女様の身柄の引き換えを提案しております。貴女様が望まれるのなら私の元ではなく、皇国へお連れしましょう」
皇国は、母の祖国だ。母と親しかった叔父が皇帝として君臨しているかの国は、きっと私を哀れな運命と共に語るだろう。だとしても、この男と共にいるよりかは遥かに良い。私が望めばこの国に攻め入ってくれるかもしれない。
そうだ、それがいい。皇国もどうせ先は長くないだろうが、エセルディの元にいるよりか遥かにいい。
「はは、そうか、それなら憎いお前の顔もこれ以上目に入れずに済むな、エセルディ――なあ、何故お前が泣いている?」
彼の目に、滲むものがあることに気がつく。
何故私ではなくお前が涙を流すのか――動揺して彼の頬に手を伸ばしかけ、我に返る。
記憶も覚束無いくらいに幼い頃、私が我儘を言って泣いている時、エセルディが目線を合わせて「楽しいことを考えませんか」と私の頬を両手ではさんで笑ってくれたことを思い出す。
何故、何故こんな時に思い出してしまうのか。私は、この男を殺したいくらいに憎いはずなのに。
「何故、何故お前が……」
「いいえ、貴女様がお気になさることではありません。全ては殿下のお望み通りに」
「それならば私がお前に死ねと命じればお前は死ぬのか?」
そう問うと、エセルディは薄らと唇に緩やかな弧を描いて首肯した。「それが貴女様のお望みであれば」――怖気がする程に一直線な視線が私を貫く。彼は、こんな目をする男だっただろうか。
「……それは愛か? それとも悔悟か?」
「両方です。革命の炎から貴女様を連れ出すことは許されなかった。貴女様の憎しみは当然のこと、我々は我々の理想のために貴女方を犠牲にしたのです」
「エセルディ――」
「貴女様が望まれるのなら私は死にましょう、地位も名誉も財産も捨てることを厭いません。私は……貴女様を心からお慕いしておりました」
唇が戦く。
この人を決してひとりにしてはいけない、と、心の底から思った。
それは、愛という美しい情動から沸き起こる考えではなかった。
私がエセルディを拒絶すれば、彼はこの世から跡形もなく消えてしまうだろう、という確信。
少年の頃と変わらない表情で穏やかに微笑む彼に、不穏な影が過ぎる。
裏切り者である彼のことなど気にも留めず、ただの都合の良い駒に成り下がろうとも叔父の元へ身を寄せることが私にとっての最善であることは分かっている――けれど私は、彼を見捨てられない。
「……エセルディ、私には取らねばならぬ責任が多くある。皇国に囚われている哀れな帝国民を家族の元に帰し、亡命貴族や我がデュランシス家再興のために尽くすべきではないか? 少なくとも私はそうしたいと願っている」
そう、これは私の本心。
だから皇国との取り引きには応じるつもりだ、帰れぬ故郷を思う心も、帰らぬ家族を待ち続ける心もよく知っているのだから。
「私は父――ジェローム=ルシアン・ド・デュランシスの娘だ。何を奪われようと、それだけは決して揺るぐことはない」
エセルディは何も言わなかった。それが一層私の心臓を締め付けて、ああ、どうしてこうも非情になることができないのだろう――お前がそんな顔さえしなければ、この情も後腐れなく捨てることができたのに。
浅く息を吸い、吐く。
ただひとつ、問いたいことがあった。
「――お前が娶りたかった女は王女である私か、それともただのリリスか?」
答えは、聞かなくてももう分かりきっているけれど。
大陸の味方を欲しがっているだろう叔父は、いずれ帝国か他の有力な国との縁談を私に取りつけるだろう。
その時に与えられる選択肢の中に、王家に連なる公爵家の長子であるエセルディも入ってくるはずだ。だからその時は彼のことを選んでもいいのかもしれない――そうしなければ、酷く後悔してしまう気がする。
「私がお慕い申し上げたのは称号ではありません、貴女様御自身です」
穏やかで落ち着いた、優しい声。
家族も富も名誉も全てが奪われた以上、共和派の中核的存在である彼を心から許すことなんてできるはずがない。惨めにも生き延びた私が裏切り者たちに媚び、死者を貶めてはいけない。
けれど、エセルディは確かに私の安寧だった。向かうべき場所であり、帰るべき場所でもあったのだ。
だから彼の優しさを、過去を、信じてみたいと思ってしまう――私の拠り所は全て過去に置いていかれ、進んでいく時間の先にあるものは不安定な暗闇だけだ。
これからどう扱われてどう利用されるのかも分からない未来の中、大海に放り出された哀れな鼠のように生を諦めて海底へただ沈んでいくのではなく、最期まで己のために足掻きたい。
それが、それこそが私が生き延びた意味と言えるのだ。
「エセルディ」
彼の名を呼ぶ。声が震えたのは、込み上げてくる感情を抑えつけたから。
悲しげに微笑んだ彼が、あの頃のように唇を噛んだ私の頬に手を添える。同時に感じた嫌悪と安心は矛盾していて、ああ、どうしてこんな風にしかなれなかったのだろう、本心からお前を愛することができればよかったのに。
「決してお前に身も心も許すまい、愛することもないだろう。だが……私の傍で私のために生きなさい、それがお前にできる私への――王家への償いだ」
息が苦しい。悲劇の王女と揶揄されることも、後ろ指を指されることさえも耐え難い苦しみであることは容易に想像できるのに、それ以上に私は、彼を。
堪えきれずに溢れた私の涙を隠すように、エセルディが私を抱き締める。
温かい。冷たさと悪意に慣れてしまったこの体に、人肌の温かさはどんなものよりも私に幸福を感じさせる――薄暗い塔の中、一人の哀れな女の嗚咽が響く。流れた涙は、どこにも落ちなかった。