第14話 両者の言い分
「……フローラ。会いに、来てくれたの……?」
アンネローゼの表情は複雑だった。喜びと怯えと苦さが入り混じった、形容し難い顔色。
一方のフローリアは際立った美貌を怒りで染めていた。柳眉を逆立て、胸に抱いていた大衆紙をテーブルにばさりと放り出す。
「こんな記事を見たら、見たくない顔も見に来ざるを得ません。自分が何をしたか、わかっていて?」
「……」
無言のアンネローゼに呆れたように嘆息して。フローリアが冷ややかに言う。
「アンネの一方的な言いがかりだと、すぐに訂正してまわって。アルバレス家にも謝罪を――」
「しないもん」
アンネローゼの一言に、整った眉がぴくりと反応する。ますます剣呑な目つきになるフローリアに怯むことなく、アンネローゼが捲し立てる。
「これでわかったでしょ? 私は本気なの。カインと結ばれるべきなのはフローラ。それが私の本心なの。前に言ったでしょ? 私はカインよりフローラが大事。私の一番はフローラなの。この記事がその証明だよ。だから――」
ぱんっと。乾いた音が応接間に響き渡る。フローリアがアンネローゼの頬を引っ叩いたのだ。
「馬鹿にしないで! 伯爵家の令嬢ごときがわたくしに同情だなんて、何様のつもりですの?」
フローリアの怒りは尤もだけれど、あんまりな物言いにアンネローゼが心配になる。口を挟んだら火に油を注ぐ気がしたから、マリアヴェルはハラハラと眺めるしかない。
肩を怒らせたフローリアは、憤りに燃える瞳でアンネローゼを睨み据えた。
「あなたの同情なんか、わたくしは要らない。カインが愛しているのはアンネなのよ? 彼の口説き文句を一つも本気にしていないと? いい加減にして! どこまで彼の優しさに甘えれば気が済むのです?」
「なんで……っ」
嗚咽を漏らしたアンネローゼが、苦しそうに眉根を寄せた。
「フローラはいつもそう! いっつもカインの肩を持つの。私の気持ちをちっともわかってくれない!」
何度もかぶりを振って。
「フローラが言ったんだよ? カインと結婚する私の顔なんか見たくないって。だから私……っ、嘘でもそんなこと言ったりするフローラじゃないってわかってる。あれがフローラの本心でしょ? だったらカインと結婚なんかしたくない! 訂正しないもんっ」
「……そう。なら、わたくしたちが顔を合わせるのは今日で最後ね」
感情を感じさせない冷たい声で、フローリアがそっけなく言った。涙の滲んだアンネローゼの瞳が愕然と見開かれる。信じられない、という顔。
「本気で言ってるの……?」
「嫌なら、このような浅はかな真似は今回限りにしてください。これ以上、わたくしがあなたを厭う理由を増やさないで」
呆然と立ち尽くすアンネローゼから視線を引き剥がしたフローリアと、目が合う。公爵家の令嬢とは思えない乱暴な足取りで近づいてきた彼女が、マリアヴェルの左腕を掴んだ。
「え、ちょっと、フローリア様っ!?」
そのまま引きずられるようにして、マリアヴェルは応接間から連れ出された。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
連行先は、公爵家の馬車の中だった。マリアヴェルを強引に押し込み、対面に座ったフローリアは、馬車が走り出した途端に凄まじい剣幕で。
「想い合っている婚約者同士を別れさせようだなんて、どんな神経をしているのですかっ!? 今度二人の仲を邪魔しようものなら、ありとあらゆる手段を講じてあなたの社交界での居場所を失くして差し上げますッ!」
意味を理解するまでに、時間がかかった。
ぱちりと目を瞬かせ、フローリアの言葉を反芻したマリアヴェルは――大きく目を見開く。
「え? え? アンネ様は、カイン様がお好きなの……?」
「……呆れた。なぜ確かめもしないのです!」
フローリアの据わった目を見れば、嘘を吐いているようには思えなかった。
「だって、そんな素振り、少しも……」
言いながら、気づく。
それくらい、アンネローゼにとってフローリアが大切なのだ。カインへの思慕を完璧に押し殺せてしまうくらいに。
フローリアの言う通りだ。アンネローゼの気持ちもきちんと確かめておかなくてはならなかった。何もかも、マリアヴェルが軽率だった。
想い人と結ばれるはずだった親友の縁談がめちゃくちゃになるところだったから、フローリアはこれだけ憤りを露わにしているのだろうか。
目の前の令嬢がどんな人物なのか、マリアヴェルにはまったくわからない。
初対面の印象はお世辞にもよくない。アンネローゼへの物言いも辛辣だった。でも、友人と想い人との婚約を案じる思いやりは持ち合わせていそうで――。
座席に座り直したフローリアは、厳しい表情で窓の外を見つめている。美しい横顔からは明確な怒気が立ち上っていた。
話しかけられる雰囲気ではなくて、マリアヴェルも外に目をやった。
柔らかな朝の陽射しに照らし出された街並みに、ふと首を捻る。流されるまま馬車に乗り込んでしまったが、一体どこに向かっているのだろう。少なくとも、アッシュフォード邸とは反対方向の道を進んでいた。
「ここからだと、公爵邸の方が近いのです。わたくしが降りたらアッシュフォード侯爵邸まで送らせますわ」
マリアヴェルの怪訝な面持ちに気づいたらしい。フローリアが冷ややかな声でそう言った。
「……ありがとうございます」
フローリアがポツリと言う。
「もしもこの先、社交場でカインの話題になったら――」
「カイン様の立場が悪くなるような発言は控えるし、誤解のないようきちんと訂正すると約束するわ」
「……そう。その言葉が本心だと良いのだけれど」
短く答えるフローリアの視線は、外へと向いたまま。
彼女がマリアヴェルに怒るのは当然だ。フローリアからすれば、友人の婚約をぶち壊そうとした正真正銘の悪女なのだから。
でも、アンネローゼは。
「アンネ様は、フローリア様と元の関係に戻りたい一心だったの。だから、あの……それだけは、わかってあげて……」
フローリアがわずかに目を瞠る。少しの沈黙の後、やっと彼女がこちらを見た。
「生涯を共にする伴侶に比べれば、いつ疎遠になるともしれない友情なんて大したものではありません。あの子が思いやるべきなのはわたくしではなく、カインですわ」
「アンネ様にとってはそうではないから、ご自身の想いに蓋をしてまでフローリア様に譲ろうとなさったのでしょう?」
フローリアが嘆息する。
「あなたがどこまで事情を把握しているのか存じませんが、カインが愛しているのはアンネです。あの子の独りよがりでカインの気持ちを踏み躙るのが正しいと?」
「そうじゃないわ。そうじゃなくて……それくらい自分を大事にしてくれる人にあんな言い方をしたら、失ってから後悔することになる、かも」
会うのはこれで最後だとか、そういった脅し文句を軽々しく口にするのはよくないと思うのだ。
「……」
フローリアの中にまだアンネローゼへの友情が残っているのなら。
「アンネがいつまでもわたくしにべったりでカインを蔑ろにするから、空気を読んで距離を置いただけの話です。アンネの顔が見たくないというのだって……あの子が分からず屋だからつい口を衝いて出てしまっただけで、深い意味なんてありません。それをアンネが大袈裟に捉えているだけ」
「それなら、深い意味はなかったとアンネ様に伝えて差し上げて」
フローリアが腹を立てている件に関しては、アンネローゼに非がある。加担したマリアヴェルも同罪だ。
だが、元を辿ればアンネローゼが手段を選ばない程に思い詰めてしまったのは、フローリアが徹底して距離を置くようになったからで。
「直接アンネ様に伝え難いなら、せめてお手紙の返事はするとか……とにかく、前触れなく親友に距離を置かれてしまったんだもの。アンネ様が思い悩んでカイン様を譲ろうとする気持ちも、わからなくは――」
「いい加減にしてッ!」
悲鳴にも等しい叫びに、マリアヴェルは口をつぐんだ。ハッと息を呑む。
神秘的な灰褐色の瞳には、くっきりと涙が浮かんでいた。
「……っ」
「フローリア、様……?」
嗚咽を飲み込み、ドレスの袖口で涙を拭う。拭っても拭っても涙は止まらず。整った顔を歪めたフローリアが、苦しげに言う。
「わたくしがカインを想っているだなんて事実はありません! アンネの気遣いは無駄なの……っ! 何もかも、全部ッ」
「それって、どういう……」
戸惑うマリアヴェルの眼差しに耐えかねたかのように。フローリアが叫ぶ。
「もう放っておいて! わたくしはこんな想いをするためにアルフレッド様に会いに行ったわけではありません!!」
拒絶をめいっぱい込めた叫び。そのままフローリアは顔を逸らし、マリアヴェルを見ようとはしなかった。
どうしよう。
わからない。わからないけれど、マリアヴェルは、フローリアをひどく傷つけてしまった。何が彼女の心に刺さったのか。一番大事なことなのに、見当もつかなくて混乱する。
長い沈黙の果てに、馬車が止まった。公爵邸に着いたのだ。
「あなたが関わっても、いい結果にはなりません。これ以上拗れさせることは控えて、大人しくしていてください」
静かな声でそう告げて、フローリアは馬車を降りて行った。