第13話 最低で身勝手な。
肩を揺さぶられて、マリアヴェルの意識はまどろみから引き上げられた。重たいまぶたを持ち上げると、アルフレッドがこちらを覗き込んでいる。
カーテンの掛かった室内は薄暗かったが、どこかから鳥の鳴き声が聞こえてくる。正確な時刻はわからないけれど、朝であることは間違いない。
「お兄様……?」
アルフレッドが自ら起こしに来るなんて珍しい。半身を起こしたマリアヴェルは寝ぼけ眼を擦りつつ、ベッドの端に腰掛けた兄を見上げた。
「起こしてごめんね。出仕前に君に話しておくべきだと思ったから」
「……?」
普段のマリアヴェルは、アルフレッドが王宮へ向かう時間ならとっくに起床している。だが、ここ三日は寝つきが悪くて生活リズムが狂っていた。
目を閉じると、先日のアンネローゼの悲嘆に暮れた顔が脳裏をちらついて。関わらないと決めた選択が正しいのかわからなくて、考え始めると目が冴えてなかなか眠れないのだ。
アルフレッドも気づいているのか、だらしないと咎めるようなことはせず、マリアヴェルの朝寝坊を黙認してくれていた。
「これを」
差し出されたのは大衆紙だった。薄暗いせいで記事の内容はよくわからない。
受け取りつつ、首を傾げる。我が家に大衆紙を買う習慣なんてない。
「気掛かりがあったから、あの夜以降買いに行かせていたんだ。裏面の記事を見て」
「裏面?」
紙面をひっくり返すあいだに、アルフレッドがさっとカーテンを開けた。一気に部屋の中が明るくなる。
眩しい朝陽が、びっしりと並んだ小さな文字を照らし出す。
『アルバレス子爵家の次男坊、婚約者を捨て、アッシュフォード侯爵令嬢に乗り換えか。夜会でアッシュフォード侯爵令嬢と親密な様子をみせた婚約者に、イスマイール伯爵令嬢が激怒した』
記事を一読したマリアヴェルは、呆然とする。
「どうして……」
人目があったとはいえ、勘違いを招くような光景ではなかったはず。マリアヴェルとカインはそれほど長く話し込んでいないし、アンネローゼが輪に加わったのだってほんの一瞬のこと。
周囲が誤解する前にマリアヴェルはあの場を離れた――はず。
「どうしてこんな根も葉もない記事が出回ることになったか、心当たりがあるんじゃないかい?」
意味深なアルフレッドの表情。考えを巡らせたマリアヴェルは、思い至る。
「アンネ様ね……」
彼女が故意に新聞社に記事を書かせた。そうとしか思えない。
短い時間であったとはいえ目撃者もいただろうし、アンネローゼ本人が新聞社に話題を持ち込めば、信憑性は抜群だ。
「この記事をカイン様が知ったら……」
「あまり、いい気持ちにはならないだろうね」
彼はアンネローゼが婚約解消を望んでいると知っているし、マリアヴェルが共謀したと思うかもしれない。もしカインの耳に届いていたら、今頃はひどく怒っているかも。
マリアヴェルが関わったら余計にこじれさせてしまう気がする。だが、この記事はマリアヴェルのせいでもある。知らん顔をするのはあまりにも無責任だ。
「アンネ様のお屋敷に行くわ。きちんとお話しして、それからカイン様に謝罪しないと」
こんなやり方はよくないとアンネローゼを説得して、二人でカインに謝罪する。すべてはそれからだ。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
先触れのない突発的な訪問でも、伯爵家の使用人はマリアヴェルを歓迎してくれた。
応接間で待っていると、アンネローゼはすぐに顔をみせた。ソファから立ち上がったマリアヴェルは、持ち寄った大衆紙を彼女の鼻先に突き付ける。
「アンネ様の頼みは聞かなかったことにすると言ったのに、記事をでっち上げたのね?」
溌剌としたペリドットの瞳が瞠られる。
「読んだんだ……」
「我が家には注意深いお兄様がいるの」
アルフレッドが危惧していなければ、当分のあいだマリアヴェルの耳には入ってこなかったに違いない。
ぐっと唇を噛んだアンネローゼが、硬い声音で言う。
「マリアに迷惑はかけないよ。私が勝手にやったことだもの。しばらくしてから私の勘違いだったって訂正して回れば、よくある噂の一つとしてみんな忘れてくれる――フローラと、カイン以外は。マリアは反対かもしれないけど、私はこのやり方が正しいって思う」
今回の一件でカインが愛想を尽かすかもしれないし、アンネローゼの両親が噂を信じて婚約を白紙に戻す可能性だってある。
なんであれ、婚約解消の第一歩を踏み出したことだけは間違いない。
大衆紙に視線を落として、マリアヴェルは眉を曇らせる。
「カイン様の気持ちは無視するの? カイン様の好意が誰に向いているか、当事者のアンネローゼ様がわかっていないはずないわ」
ほんの数分言葉を交わしただけのマリアヴェルが気づけたのだ。婚約者として共に過ごしてきたアンネローゼに、カインの心が見えていないはずがない。
こんなやり方をしては、彼が傷つく。
マリアヴェルの視線から逃れるように、アンネローゼが顔を背けた。
「私は……フローラに幸せになって欲しいの。どうしても」
「別の女性を想っている人と結婚して、フローリア様が幸せになれる。アンネ様は、本気でそう思っていらっしゃるの?」
「今はそうだとしても、一緒に過ごせばカインだって心変わりするよ。フローラは素敵な子だもの」
「以前は三人で過ごす機会だってあったのでしょう? それでもカイン様が惹かれたのはアンネ様よ。そう簡単に心変わりするとは思えないわ」
お願いだから考え直して、と。アンネローゼの瞳を食い入るように見つめる。だが、彼女は頑なに首を横に振る。
「マリアは何度も破談を経験してるよね? 婚約者が去っていく時、どんな気持ちだった?」
「え? えぇ、と」
達成感で満ち溢れていました、なんて口が裂けても言えない。
でも。もしも、もしもの話、去っていくのがアルフレッドなら――。
アルフレッドがフローリアと婚約するかもしれないと感じた時、マリアヴェルは半泣きだった。今だって、想像するだけで暗くて悲しい気持ちになる。アルフレッドのいない世界なんて、マリアヴェルには考えられない。
あの時の苦くて苦しい気持ちが、表情に出てしまった。アンネローゼは浅く息を吐き出す。
「マリアなら、私よりずっとフローラの気持ちがわかるでしょ? フローラは気丈に振る舞ってたけど、婚約者に浮気されて……陰でずっと苦しんでた。あんな想い、二度として欲しくない」
「……同じ想いを、カイン様にさせるの……?」
マリアヴェルのポツリとした問いかけに、アンネローゼがハッとしたように息を呑んだ。
大きな瞳からは、今にも涙が溢れ落ちそう。泣きそうな顔でアンネローゼはきっぱりと言う。
「身勝手で最低だってわかってる。でも私は、フローラの想いを叶えてあげたいの」
「アンネ様……」
そうはいっても、カインの想い人は目の前のアンネローゼなのだ。フローリアの恋が叶ってほしいというアンネローゼの想いはもちろん理解できる。かといって、こんなやり方でカインの好意を踏み躙るのが許されていいはずもない。
それを、どう伝えればアンネローゼはわかってくれるのか。
「勝手に決めつけて話を進めるだなんて、あなたの身勝手さは相変わらずね、アンネ」
重い空気を切り裂いたのは、刺々しくて冷ややかな声。
アンネローゼが目を見開く。
「フローラ!? どうして――」
いつの間に扉が開いたのか、戸口にはフローリアの姿があった。