第3話 妖精姫の来訪
祈りが通じることはなく――翌日、さっそく嵐がやってきた。
アッシュフォード侯爵邸に客人が訪れたのは、午後のお茶の時間を過ぎた頃。使用人から報せを受けたマリアヴェルは、急いで応接間へ向かった。
アルフレッドは朝から知人のパーティに出席している。客人の相手はマリアヴェルが請け負うしかなく、扉を開けると、ソファに座っていた人物がふわりと立ち上がった。
「初めまして、アッシュフォード侯爵令嬢。シュタットノイン公爵が娘、フローリアです」
恭しく膝を折って会釈する令嬢は、妖精姫と囁かれるに相応しい美少女だった。
品の良さを掻き立てるラベンダー色の髪はふわふわと背中を覆い、ヘッドドレスで飾られている。肌は抜けるように白く、大きな瞳は神秘的な灰褐色だ。
挨拶を返しながら、困惑と共に華やかな美貌を見上げる。
「当家にどういったご用でしょうか? 兄のアルフレッドは不在で――」
「存じております。本日の目当てはアルフレッド様ではなく、マリアヴェル様ですから」
マリアヴェルの言葉を遮って、フローリアが優美な微笑みを浮かべた。
「未来の妹となる方に、早いうちからご挨拶しておこうと思いましたの」
「……一体、何のお話でしょうか?」
不躾な訪問の非常識さすらどうでもよくなるほどの、衝撃発言だった。
対面のソファに座ったマリアヴェルが眉をひそめると、透き通った瞳がきょとん、と瞬いた。
「アルフレッド様は、妹君にお話しされていらっしゃらないのですか?」
どうにも雲行きが怪しそうだ。一度深呼吸してから、マリアヴェルは淑やかに笑んだ。
「縁談のお話でしたら、兄はお断りした、と。ですので、わたしがフローリア様の義妹となる日が訪れることはありませんわ」
「まぁ……。独占欲が強い妹君に、アルフレッド様もお困りのご様子でした。妹は縁談を歓迎しないだろう、と。わたくしとの関係を伏せるのも致し方ない判断だと思っておりましたが、ああいった形で世間に知られてしまった以上は打ち明けてくださっているとばかり……」
そう言って、フローリアは悩ましげに眉根を寄せる。マリアヴェルは眉間に深く皺を寄せた。悪女として有名なマリアヴェルはともかく、アルフレッドのことまで好き勝手言われるのは許せない。
「いい加減なことを仰らないで。お兄様がわたしに秘密を作ることは、確かにあります。ですが、わたしに嘘は吐きません。フローリア様との記事は事実無根だと、兄はわたしにそう言いました。それが、事実のすべてです。お兄様にとってあなたは無関係な赤の他人。デタラメな話に兄を登場させ、侮辱するのはやめてください」
大好きな兄は、外で妹の愚痴をこぼすような人でもなければ、女性関係で嘘を吐く人でもない。
きっぱり言うと、フローリアが目を瞠った。
「…………」
暫し沈黙していた彼女は、悪戯がバレた子供よりも悪びれた様子なく、ふぅ、と肩を竦めた。
「悪評を広めてしまう愚かなご令嬢相手ですから、信じていただくのは容易かと思っておりました。アテが外れてしまいましたわね」
「どうしてこんな嘘を吐くのですか?」
「もちろん、アルフレッド様と結婚するためです。わたくし、外堀から埋めていくつもりでおりますの」
しれっと答えるフローリアは、繊細な見た目に反してなかなか図太そうだった。
「フローリア様は契約結婚を希望されていらっしゃるのでしょう? お兄様でなくても――」
「提案を呑んでくださるであろう殿方は、探せば見つかるでしょう。ですが、わたくしはアルフレッド様がいいのです」
「……お兄様に、特別な想いが?」
社交場で一目惚れしたとか、言葉を交わすうちに惹かれてしまったとか。あの兄なら十分に起こり得る。
フローリアはたおやかに微笑んだ。
「アルフレッド様の為人を存じ上げませんもの。好意の持ちようがありません。ですが、あの綺麗なお顔は好みです。容貌だけでも周りが羨みますわ」
「……っ、冗談言わないで! お兄様はあなたの自尊心を満たす装飾品なんかじゃありませんっ!」
――わたしこの方、嫌いだわっ!
あまりにも腹が立って、マリアヴェルは感情任せに言い放つ。
「あなたがどれだけ社交界で持て囃されていたって、相手に敬意を払わないような失礼な人に、お兄様は靡いたりしないんだからっ」
マリアヴェルの剣幕にも、フローリアは動じなかった。それどころか、余裕の笑みまで浮かべている。まるで、昨夜のアルフレッドみたいに。悠然とした態度で、フローリアは緩やかに首を横に振った。
「アルフレッド様のお気持ちは、必要ありませんわ。先ほどの発言から推察するに、マリアヴェル様も記事には目を通されたご様子」
「……あのデタラメな大衆紙なら、確かに読んだわ。シュタットノイン公爵令嬢も、わたしの友人と同じでゴシップを好む変わったご趣味がおありなのかしら?」
「いいえ? 普段は大衆紙など読みませんわ。ですが、あの記事だけは別です。わたくし自らが情報を提供したのですから」
「は?」
「わたくしとアルフレッド様の交際を、世間は信じますでしょう? 外堀を埋めるために利用させていただきました。これでわたくしの下に寄せられる縁談は減りますし、いずれアルフレッド様も手に入る。一石二鳥といったところでしょうか」
夢見るようなうっとりとした表情から飛び出たのは、とんでもない発言だった。
「そんなことをしたって、お兄様が否定すればそれまでだわ」
有りもしない空想を書き立てたって、アルフレッドの気が変わるはずもない。
マリアヴェルが大きく首を横に振っても、自信たっぷりなフローリアの態度は崩れなかった。手のひらを胸に当て、
「機が熟しましたら、両親にもアルフレッド様のことを相談しようと思うのです。今の段階では父も母も噂を本気にしておりませんが、わたくしが事実だと後押しすれば話は変わりますわ。実の子供の言葉を信じない親は少数派でしょう。加えてわたくし、これでも非の打ち所がない公爵令嬢なのです。わたくしの言を両親が疑うことはありません。アルフレッド様が交際を否定すれば、わたくしを弄んで捨てたと憤ることでしょうね」
どうでしょう、と言わんばかりのフローリアの表情。勝ち誇ったような微笑みを前にすれば、茹っていた頭は一気に冷静になる。マリアヴェルが思っているより事態は厄介だ。
財務省の最高責任者であるシュタットノイン公爵の権力は、絶大だ。そんな彼から娘に手を出した責任を取れと抗議されたら――さしものアルフレッドでも、突っぱねることはできないだろう。
「ご理解いただけましたか? 一度は断られてしまいましたが、わたくしとアルフレッド様の婚約が成立するのは時間の問題かと」
「こんなやり方でお兄様に婚約を承諾させて、フローリア様は満足なの?」
「先ほど申し上げた通りです。アルフレッド様の心は要りません。ただ、周囲から見て非の打ち所のない方に伴侶となっていただきたいのです」
フローリアの熱弁は続く。
「わたくしはお飾りの妻で構いませんし、結婚後にアルフレッド様が誰と関係を持とうと目くじらを立てたりしません。王宮での勤めはもちろん、私生活にも干渉しないことを家名にかけて誓いますわ。シュタットノインの後ろ盾は、アルフレッド様にとっても悪くないもの。マリアヴェル様は、これでもまだわたくしと兄君の婚姻に反対されるのでしょうか?」
真っ直ぐな眼差しに、マリアヴェルは言葉に詰まった。政略結婚という観点で見れば、アルフレッドにとってフローリアは最良だ。二人の婚約を認められないのは、マリアヴェルの我儘でしかないのだろうか。
膝に置いた手を、ぎゅっと握る。
「……やり方が、汚いんだもの」
絞り出した声は弱々しく、マリアヴェルからしても負け惜しみにしか聞こえなかった。頰に人差し指をあて、フローリアが小首を傾げる。緩く巻かれたラベンダー色の髪をふわりと揺らして。
「父から聞いたことがあります。主君の命を果たすため、アルフレッド様は時に非情な手を講じることもある、と。わたくしのやり方は褒められたものではないでしょうけれど、軽蔑されるほどのものでもないと思いますわ」
「今お兄様の仕事の話は必要ないわ。当人の意志を無視して強引に話を進めようとするなんて、家族なら快く思わないのは当然でしょう?」
マリアヴェルの反論に、フローリアはクスクスと笑いをこぼした。
「どうして笑うのですか?」
「だって、こんなにおかしいことってありませんわ」
目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、フローリアは不思議そうに言う。
「マリアヴェル様がアルフレッド様の縁談を邪魔しているというお話を、幾度か耳にしたことがありますわ。アルフレッド様も否定されませんでした。それも、当人の意志を無視していることになりませんか?」
「それは……っ」
マリアヴェルに嫉妬した令嬢が流した噂で、事実無根の言いがかり。そう言い返そうとして、口をつぐんだ。
アルフレッドが縁談を蹴っているのは、マリアヴェルとの約束があるから。でもそれは、縁談を望む令嬢からすれば邪魔をしているのと相違ないのではないか――そう思ったからだ。
フローリアが優雅に微笑む。
「もちろん、わたくしはお二人に干渉するつもりもありません。結婚後もどうぞ、アルフレッド様を独占してくださいませ」
「あなたが義姉だなんて、認めません!」
マリアヴェルの精一杯の返答に、フローリアはふふっ、と上品な笑みをこぼした。
「アルフレッド様との婚約が正式に決まりましたら、その時は快くわたくしを義姉として迎え入れてくださいな」
侍女を引き連れて応接間から出て行くフローリアを、マリアヴェルは呆然と見送る。
「なんなのよぅ〜〜」
何がどうして、こんなことになってしまったのだ。
「フローリア様の仰っていることが正しいの……?」
やり方は姑息だが、フローリアとの結婚はアルフレッドの地位を盤石なものとする。その点は間違いなくて――。
マリアヴェルは、途方に暮れてしまった。