第2話 ご機嫌斜めなマリアヴェル
アルフレッドの部屋で彼の帰宅を待つマリアヴェルは、とてもとても、とても不機嫌だった。
時刻は十九時を回っている。いつ王宮からアルフレッドが帰宅してもおかしくない時分だ。ふてくされた顔でソファに座り、静まり返った部屋で兄を待ち続けていたマリアヴェルは――扉の開く音で、弾かれたように顔を上げた。
「あれ、マリィ。僕の部屋で待っているなんて珍しいね」
瞳を瞬かせた義兄にお帰りなさい、と駆け寄ったマリアヴェルは――。
「お兄様。これは一体どういうことなのか、説明してもらえるかしら?」
手に持っていた新聞を、兄の目の前に突き出した。
記事の見出しは端的だ。
――アッシュフォード侯爵、シュタットノイン公爵令嬢と結婚間近か。
『二人の交際は順調で、侯爵は足繁く恋人の部屋に通い、夜な夜な密会を重ねている。人目を忍ぶのは嫉妬深い侯爵の妹が原因か』
なんて、どこを抜き取っても不愉快な文言が。
紙面を流し見たアルフレッドが、ふと首をひねった。
「我が家に大衆紙なんてないはずだけど」
「今日のお茶会でシルヴィーがくれたのっ」
社交場は今アルフレッド様の話題で持ちきりよ、なんて台詞と共に押し付けられたのだ。大衆紙は一般市民の娯楽であって、購読する貴族は少数派。ゴシップ大好きなシルヴィーらしい趣味といえる。
「君に負けず劣らず、シルヴィー嬢も一般の令嬢から外れた一面があるよね」
「話を逸らさないで、お兄様」
「そんなつもりはないよ。やましいところ……は少し違うか。マリィの機嫌を損ねるような事実はないから」
ソファに腰掛けたアルフレッドの隣に並んで座り、マリアヴェルは端正な横顔を見上げる。
「それじゃあ、記事は全部デタラメ?」
「記事の内容はね。先週フローリア嬢が訪ねてきて、縁談の話が持ち上がったのは事実だけど」
「……初耳だわ」
「そういえば、マリィはちょうど不在だったね。僕に縁談が来るのは珍しい話でもないし、逐一報告なんて普段からしていないだろう?」
アルフレッドに寄せられる縁談を、彼の口から知らされることはない。噂という形で、人づてに聞くのが常だった。
「……いや、フローリア嬢が一人で話をしに来たわけだから、よくあることとは言い難いか」
「え? フローリア様が直接お兄様に縁談を申し込んだの? そんなの普通じゃないわ」
耳を疑う発言だった。
フローリアについて、マリアヴェルはよく知らない。一つ年上のとても美しい令嬢、くらいの認識だったのだが、随分と大胆な人みたいだ。
アルフレッドが肩を竦める。
「普通じゃない提案だったからね。縁談というよりは契約、かな」
そう言って、フローリアとの間に持ち上がった契約結婚の話をしてくれる。フローリアの提案に、マリアヴェルは憤慨した。
「わたしのお兄様に『ちょうどいいから』で縁談を申し込むなんて、失礼だわ!」
「そこなんだ」
苦笑するアルフレッドを、きっ、と睨み据える。
「お兄様が軽んじられているのよ? もっと怒って!」
「でもほら、貴族の結婚ってそういうものだから。離縁が前提って点と細かい諸々を除けば、フローリア嬢の提案は常識から大きく外れているわけでもないよ」
指摘されてあっ、と気づく。
家柄が釣り合うから、見栄えがいいから。家の格が高いほど政略結婚は一般的になり、個人の感情は排除されていく。アルフレッドが自由にさせてくれるから感覚が抜け落ちてしまっていたが、それが貴族社会の普通なのだった。
「フローリア様の申し出に、お兄様はなんて答えたの?」
「もちろん断ったよ。マリィとの約束があるからね」
まるで約束がなければ乗っていたかのような言い回しは気になったが、むくれていても話は進まない。
「それならどうしてこんな噂が流れたりするの? 交際は順調で結婚も間近だなんて、縁談の申し込みから話が飛躍しすぎているわ」
交際内容だってやけに具体的だし。
「そのほうが世間の興味を惹けるからじゃないかい? 実際、シルヴィー嬢の耳にまで届いているわけだから」
「王宮では話題になっていないの?」
「社交場はともかく、王宮は流石に周りが弁えているよ」
「それなら、シュタットノイン公爵は? お兄様に何も訊いてこないの? 娘と内緒で付き合っているかもしれないのにだんまりだなんてこと、あるはずないわ」
マリアヴェルの疑問に、アルフレッドが深いため息を吐く。いつもは穏やかな瞳にちょっぴり剣呑な色を灯して、こつん、と。手の甲で、マリアヴェルの額に軽く触れた。
「マリィはどうしてこう、時たま鈍いのかな?」
「鈍い?」
「いいかい? 名家の令嬢と交際するのに、両親に許可を取らないどころか交際自体を秘密にする、なんて不誠実だよ。そんなの、後腐れなく別れるための常套手段だ。公爵が僕を問いただせば、僕への侮辱になる。大衆紙を本気にして僕に確認してくるほど、公爵は浅はかな人じゃないよ」
「それはわかるわ。でも、記事に書かれているでしょう? 妹の嫉妬からフローリア様を守るために伏せていた、って。わたしの噂を知っている人からすれば、説得力があるんじゃないかしらと思って」
「信憑性があったとしても、そんな理由で付き合いを隠す男が最低だって話に変わりはないよ。妹のわがままを窘められず、恋人に負担を強いるなんて誉められた行為じゃない」
「……それじゃあ、お兄様も今の今まで噂を知らなかったということ?」
うん、と頷いてから、アルフレッドがちょっと不服そうな顔になった。
「もしかして、マリィは記事を本気にしているのかな?」
「記事の内容は信じていないわ。でも……」
売れるからというだけで、こんな根も葉もない話が書かれてしまうものなのか。釈然としない想いは拭えなかった。
大貴族のゴシップを捏造したりして、反感を持たれたら出版社はどうするつもりなのか。最悪の場合、新聞社が潰れかねないというのに。
だからマリアヴェルは、フローリアとの交際は事実無根でも、噂になるような何かをアルフレッドが隠しているのでは、と思ったりもするのだ。
「噂が事実と程遠いのは、マリィが誰より身に染みていそうだけどな」
マリアヴェルの手から新聞を抜き取って、視線を落としたままアルフレッドが言う。破談になるたび、あれこれ書かれてきたのがマリアヴェルだ。噂が当てにならないのはよく知っているけれど。
納得しきれないまま、アルフレッドの顔色を窺う。先ほどのように流し読むのではなく、活字をゆっくりと目で追っていたアルフレッドがふと頬を緩めた。
気づいたマリアヴェルは、瞳を眇める。
「お兄様、どうして嬉しそうなの?」
「嬉しそう?」
きょとん、と瞬きしたってもう遅い。アルフレッドが小さく笑ったのを、この目ではっきりと見たのだから。
「……フローリア様といえば、妖精姫と讃えられるほどの美貌の令嬢よね。噂になって喜ぶ男の人は星の数ほどいるでしょうけど、お兄様もその中の一人なのね」
じとっ、としたマリアヴェルの眼差しにたじろぎもせず、アルフレッドはにっこりと微笑んだ。
「美貌ならマリィも負けてないと思っているよ?」
「その手には乗らないんだから」
おだてておけば誤魔化せると思ったら大間違いだ。ますます眦をつり上げるマリアヴェルを見て、アルフレッドが苦笑する。
「噂になったことを喜んだわけじゃないよ。ただ……印象通りのご令嬢みたいだなって、僕の見立てが当たっていて可笑しくなっただけ」
「デタラメの記事でどうして人柄がわかるの?」
フローリアの内面に言及するような内容は、書かれていなかったはず。
「デタラメだからこそ、わかることもあるんだよ」
そう言ってまた微笑むアルフレッドの内心は、まったく読み取れない。わかったことといえば、義兄は現状を面白がっていて、噂をどうこうしようという気はなさそうだ、くらいのもの。
追及しても実りはなさそうで、マリアヴェルはため息と共に引き下がる。
面白くはないけれど、アルフレッド本人がこう言っているのだから騒ぎ立てても仕方がない。噂が早く消えてくれることを祈るしかなかった。




