第1話 縁談は突然に
社交場で遠巻きに目にすることはあっても、きちんと言葉を交わすのは今日が初めて。
うら若き乙女たちの憧れの的――アルフレッド・アッシュフォード。
午後の陽が差し込む、アッシュフォード侯爵邸の応接間で。世間話に花を咲かせながら、少女は噂の青年を慎重に観察していた。
相談したい旨があるので、近日中に侯爵邸を訪問したい。
そう約束を取り付けたのは財務大臣である父だが、当日侯爵邸を訪ねたのは娘である少女と御付きの侍女だけ。
その光景に驚いた様子を見せながらも、以降のアルフレッドの対応は完璧な貴公子と謳われるに相応しいものだった。初対面にも等しい異性と二人きりで話す。そんな状況に緊張する少女を気遣うように、穏やかな笑みを湛えて会話を広げてくれる。
「フローリア嬢は王都を離れ、公爵領で過ごされていらっしゃいましたよね? 戻られたのは……ひと月ほど前でしたか。独身貴族の憧れの的――妖精姫の帰還に、社交界が騒がしくなったのは今でも覚えていますよ」
「王都はなにかと騒がしいので……のどかな土地でのんびり過ごしてみたいと、かねてより父に相談しておりましたの。社交の兼ね合いで許可が下りたのは三ヶ月という短い期間でしたが、静かな暮らしを満喫させていただきましたわ。今の時期はサウスティアの花が見頃で、紫色の絨毯のような景色が広がっておりますの。アルフレッド様も訪れる機会がありましたら、ぜひご覧になってくださいませ」
話題は二人が挨拶を交わした新年のパーティや、王宮での父との他愛ないやり取りへと移っていく。
次第に緊張が解れ、出された紅茶のまろやかな甘みを味わう余裕が生まれ始めた頃――アルフレッドがふと、思い出したように切り出した。
「そういえば、公爵から相談があると伺っています。僕はてっきり公爵家の問題だと思っていたのですが……公爵が同行されていないということは、事情を抱えていらっしゃるのはフローリア嬢なのでしょうか?」
熱を持った頬を冷ますように息をふぅ、と吐いて。少女は、本題を口にした。
「アルフレッド様には現在、密かにお付き合いされているご令嬢や将来の約束をなさっている、もしくは意中の方がいらっしゃったりするでしょうか?」
穏やかな紫苑の瞳がぱちくり、と瞬いた。
「年頃のご令嬢からそのような話題を振るのは、受け取る側によっては誤解を与えてしまいますよ?」
やんわりとした口調ではあったが、釘を刺されているのはわかった。ここであっさり引いてしまったら、覚悟が水の泡。羞恥心を堪え、緊張で締まる喉から懸命に言葉を絞り出す。
「誤解ではありません。わたくしは本日、アルフレッド様に縁談を申し込みに参りました。わたくしは、このお話をするために王都へと戻ってきたのです」
親しい間柄でもないのに当人間でプロポーズ。おまけに女性からなんて常識外れもいいところ。大抵の男性は眉をひそめるであろう少女の言動にも、アルフレッドは顔をしかめたりしなかった。困惑は窺えたが、嫌悪の色は滲んでいない。ここまでの態度で感じていたが、穏やかな人という世間の評判は正しいみたいだった。
「フローリア嬢であれば、引く手数多なのではありませんか?」
先ほど彼が口にした通り、少女は社交界で妖精姫と謳われるほどの美貌を持つ。生家は王国でも屈指の家柄を誇る公爵家。美貌、家柄、教養。貴族の娘としての格をすべて備えた少女を妻にしたいと言う貴族の男は、もちろん多い。だが。
「わたくしは、どなたの妻にもなりたくないのです」
かぶりを振ると、アルフレッドの瞳が瞠られた。
不思議そうに首を傾げる仕草はあどけなく、女心を擽るもの。噂の貴公子はどんな人物なのか。一挙手一投足に気を払い、注意深く観察しながら、少女は訴えを続ける。
「正確には結婚して縛られたくない、と言いますか……」
曖昧でありながら、それらしく響く理由を告げて。
「そんなわたくしの想いとは裏腹に、断っても断ってもお話は舞い込んできて……途方に暮れているのです。両親も、首を縦に振らないわたくしにやきもきしております。アルフレッド様も、結婚には意欲的ではありませんでしょう?」
理想の結婚相手として名高いアルフレッドは、どんな縁談にも靡かないことで有名だ。
「ですので……」
会話の流れは事前に想定していたのに、いざ本番になると緊張でうまく言葉が出てこない。どう説明すれば誤解なく伝わるだろうかと模索しているあいだに、アルフレッドは合点がいったように相槌を打った。
「あぁ、つまり結婚は形だけで仮面夫婦、ということですね」
キレ者という評判に違わぬ察しのよさに救われた少女は、慌てて首を縦に振った。
「もちろん、結婚後にアルフレッド様に意中の方ができた場合、離縁していただいて構いません。世間体を加味して何年かは関係を続けていただけると助かりますが……」
早々の離縁はお互いの名誉を損ねてしまうので、二、三年は結婚生活を続けられたら理想的。
「アルフレッド様は職務の忙しさを理由に縁談を断っていらっしゃるとか。煩わしく思われたことは、一度もないのでしょうか? わたくしたち、共通の悩みを分かち合えると思うのです」
「……なるほど。フローリア嬢が縁談を突っぱねるという厄介事から解放されるため、僕という同志を利用してやろうという魂胆ですか」
身も蓋もない言い方に、少女は美貌の青年を恐々と見上げた。
「お気を悪くさせてしまいましたか?」
実際、失礼な話なのだ。縁談を断り続けるのが億劫だから結婚してくれませんか、なんて。
少女が眉を曇らせると、アルフレッドはクスリと笑った。
「いいえ、逆ですよ。面白いご令嬢だな、と。合理的な考え方は僕も好むところですから」
そう言って優しく微笑んでくれる。ホッと胸を撫で下ろす少女をじっと見つめて、アルフレッドが首を捻った。
「一つ、尋ねてもいいでしょうか?」
「もちろんですわ」
「なぜ僕に白羽の矢を立ててくださったのですか? 契約婚という条件は特殊ではありますが、候補として挙がるのが僕一人だとは思えません」
「父が、アルフレッド様をよく褒めているので……お人柄も含めてちょうどいいのではないかしら、と」
あえて言葉選びをおざなりなものにしてみた。なんとなく、先程の会話でアルフレッドにはこちらの方が響く気がした。案の定、彼はおかしそうに双眸を眇める。
「契約結婚だということは、ご両親も把握していらっしゃるのですか?」
「家族には打ち明けておりません。ただ、わたくしが望む相手と結婚させて欲しいとだけ伝えてあります。承諾も得ておりますし、アルフレッド様であれば両親も歓迎するに違いありません」
「フローリア嬢には兄君がいらっしゃいますから、公爵家の後継に困ることもなさそうですね。ですが、僕の場合はそうもいきません」
アルフレッドが挙げた問題点は、少女も事前に考えていた。
「もちろん、承知しております。アルフレッド様が結婚後に別の女性との子供を授かった場合、わたくしは身を引くことをお約束します。養子を取るというのであれば、母としての務めを誠心誠意果たすと誓いますわ」
即答したはいいものの、すぐ不安になった。そこまで覚悟が決まっていてなぜ普通の結婚は気乗りしないのか、疑問に思われてしまいかねないからだ。
契約結婚にこだわる理由を尋ねられてしまうだろうか。その時はなんて答えればいいのだろう。事前に考えておくべきだったと後悔しても、手遅れだった。
身を強張らせた少女は、どうか気づかれませんように、と強く祈る。
「……お話は、わかりました」
祈りが通じたのか、アルフレッドはそれ以上踏み込んでこなかった。柔和な面差しを申し訳なさそうに曇らせて、首を横に振る。
「すみませんが、フローリア嬢の提案をお受けすることはできません」
「わたくしでは、アルフレッド様と釣り合いませんか?」
「まさか。フローリア嬢で釣り合いが取れなければ、僕は生涯結婚できませんよ」
「では……あ、妹君がいい顔をしないのでしょうか?」
品行方正なアルフレッドと対照的に、義妹のマリアヴェルはいい噂を聞かない。自慢の兄を束縛しているという話も耳にしたことがある。
「まぁ、いい顔はしないと思いますが……」
アルフレッドが苦笑を深めた。
「ちょうどいい相手と契約結婚してしまおう、という考え方は面白いと思います。ただ……僕はこれまで縁談の断りを苦に感じたことがありません。なので、提示された条件では僕にとって利がないんです」
利害の一致にならないから少女の提案は呑めない。それが彼の答え。
「公爵家の後ろ盾では、不足でしょうか? いつか離縁したとしても変わらずお力添えできるよう、兄と両親に掛け合いますわ」
指通りのよさそうな金髪を揺らして、アルフレッドは緩やかに首を横に振る。
「公爵家の助力を必要とする時が訪れたら、僕は僕自身の力で協力を取り付けたく思います。ですので、その提案も魅力的とは言い難いですね」
芯の通った、きっぱりとした言葉。一言一句聞き漏らすことのないよう、真剣に耳を傾けていた少女は、アルフレッドの考えを自分なりに解釈して一つの結論に至った。
「わたくしとの婚約が何かしらの利益をもたらすものであれば、アルフレッド様は前向きに検討してくださると捉えてよろしいのでしょうか?」
「……僕にはその利益が思い浮かびませんが」
困惑顔のアルフレッドは、少女の解釈を否定することはしなかった。しばらく考えてみたが、アルフレッドの言は正しい。彼の心を動かせそうな利益は、今の段階では思い付かなかった。
「……わかりました。突飛なお話をして、申し訳ありませんでした」
立ち上がって深くお辞儀すると、アルフレッドは力になれずにすみません、と優しい言葉をかけてくれる。
事情を深く追求せず、一方的な価値観を押し付けたりしない。察しが良くて柔軟な考えを持った、父が薦めてくれた通りの人。
この方なら、もしかしたら――。
少女は、淡い期待を胸に侯爵邸をあとにした。