第3話 お嫁さんにしてくれますか?
アルフレッド・アッシュフォードは社交界で完璧な貴公子と讃えられる、飛び抜けた美貌の青年だ。
透き通った鼻梁は涼しげで、優しげな紫苑の瞳にひとめで魅了される者は少なくない。輝くような金髪は華やかな雰囲気を助長させ、気品と優雅さを兼ね備えた振る舞いは貴族として洗練されている。
うら若き乙女たちの憧れの的――義兄アルフレッドに、マリアヴェルは帰宅してすぐさま夜会での一部始終を報告した。
「というわけですので、ガスリー家との婚約は解消してくださいませ。謀反の疑いがあるオズボーン家の令嬢を口説いただけでは飽き足らず、わたしを貶めようとした殿方との婚約は侯爵家の名誉を著しく――と〜っっても損ないます」
にっこり微笑んで、そう締め括る。
居間のソファに並んで座った兄は、話を聞き終えると盛大にため息を吐いた。
「マリィ……」
中性的な顔にはっきりと呆れの色が浮かんだので、マリアヴェルはムッとした。
「お兄様ったらひどいわ。婚約者にこっぴどく振られた可愛い妹を慰めてはくれないの?」
「その割には随分と嬉しそうじゃないか」
ぴしゃりと指摘され、緩んだ口角を慌ててへの字にする。
「婚約者に浮気されたんだもの。可愛い可愛いマリィの心はズタズタです」
「よく言うよ。クリスティーナ嬢とロバート殿を引き合わせたのは、他の誰でもないマリィだろう?」
意表を突かれて、マリアヴェルは幾度か瞬きした。綺麗な紫苑の瞳を覗き込みながら、反論を試みる。
「お兄様ったら、何を仰るの? わたしがクリスティーナ様に初めてお会いしたのは先月末。王女殿下の誕生祭の時よ? ロバート様がクリスティーナ様に熱を上げ始めたのは先月半ばのこと。引き合わせようにも、時期が合わないわ」
「クリスティーナ嬢はロバート殿に接触する二日前、イレーナ嬢主催のお茶会に参加している。名簿を確認してみたら、君と親しいライラ嬢が出席していたよ。彼女はマリィからクリスティーナ嬢をそれとなく焚き付けて欲しいと頼まれたって証言してくれたわけだけど……弁明はあるかい?」
「妹の身辺調査にも手を抜かないなんて、流石はお兄様。抜け目がないわ」
マリアヴェルは早々に白旗をあげた。
「まったく、君って子は……」
「オズボーン家の調査書を書斎に置いたままにしていた、お兄様が不用心なのよ」
アルフレッドの職務には貴族の身辺調査も含まれる。王太子からの指令で誘拐事件に関与している貴族を追っていた彼は、早い段階からオズボーン家に目を付けていた。
ロバートとの婚約をどうやって解消したものかと頭を悩ませていたマリアヴェルは、兄の書斎に入った際に調査書を見つけ、オズボーン家を利用する手を思いついたのだ。
我ながら上手く立ち回ったと思うのだが、アルフレッドの顔に浮かぶ厳しい色は晴れない。マリアヴェルはしゅん、と項垂れた。
「流石にやり過ぎだった……?」
「……いや。今回の件はロバート殿にとっていい薬になっただろう。これに懲りて見境なく女性に手を出す軽薄さを改めてくれるなら、僕の仕事が減って助かるよ」
ロバートは恋多き男性として有名だった。流した浮名は数知れず、侍女に手を出して妊娠させたという話まである。今はクリスティーナにお熱でも、いずれ別の女性に手を出す姿は想像に難くない。口では真実の愛うんぬんと語っていたけれど。
「結果はいいんだけど、ね」
持ち上がったアルフレッドの手のひらが伸びてきた。いつだってマリアヴェルを安心させてくれる、世界で一番好きな人のぬくもり。
瞳を細めて猫のように頬を擦り寄せると、アルフレッドが困り顔で言う。
「激昂した男と二人きりで話すなんて危ない真似、今後は控えて欲しいな。マリィのことだから煽るような発言もしたんだろう? 何かあったらどうするんだい? もうちょっと警戒心を持ってくれないと」
「ロバート様と話をしたのはバルコニーだもの。一歩動けば人が大勢いる広間よ? 何かされそうになったらすぐ逃げるつもりでいたし、普段はちゃんとお兄様の言いつけどおり、男の人と二人きりになるのは控えてるんだから」
社交界デビューした頃から男性への警戒心を持つよう言われていたけれど、ロバートとの婚約が決まった時、女性関係でだらしない噂が多い男だから結婚するまでは十分に距離を取るんだよ、と忠告された。そんなに心配なら縁談を断ればいいのにと思ったけれど、何か事情があるのだろうと考えて口には出さなかった。それでも兄があまりにも不安そうな顔をするので、ロバートとの外出は徹底して断ったのだ。
マリアヴェルの主張に、手を離したアルフレッドがくすくすと笑い出す。
「お兄様? どうして笑うの?」
「……いや、マリィが悪女はやっぱり無理があるよなーって。こんなに素直なのにね」
悪女の噂は、アルフレッドに憧れる令嬢たちが嫉妬心から流したもの。大して交流もないのに、彼女たちは理想の結婚相手として名高い貴公子を独り占めしているマリアヴェルが気に入らないのだ。
友人の婚約者に色目を使って誘惑しただとか、性格の悪さが災いして縁談が破談になったとか。それらはあくまで作り話。だが、自身の性格に難があるのは否定しきれないから、アルフレッドの発言は兄の欲目な気がする。
マリアヴェルの両親が亡くなったのは十年前――彼女が七歳の時だ。どんな縁があって侯爵家に引き取られることになったのかは知らないが、侯爵夫妻はマリアヴェルを実の娘のように可愛がってくれたし、アルフレッドもまた、義妹に惜しみない愛情を注いでくれた。
六年前に事故で両親が他界し、侯爵家の当主となってからも変わらず愛してくれるアルフレッドのことが、マリアヴェルは大好きだ。だからできる限り彼の意向に沿いたいのだけれども――。
間近にある紫苑の瞳を、じっと見上げる。
「また新しい婚約者を探すの?」
「君の好きなようにさせてあげたいけど……こればっかりは、ね。周りがうるさいから」
苦笑するアルフレッドに、確認の意味を込めて尋ねる。
「お兄様。わたしとの約束、覚えてる?」
「マリィが大人しく縁談を受け入れるなら、君が結婚するまで僕にくる縁談はすべて断る。ちゃんと実践してるだろう?」
「そっちじゃないわ」
大きく頭を振り、
「わたしが結婚できる歳になって一年が過ぎても相手がいなかったから、お兄様のお嫁さんにしてくれるって約束よ」
本当は、わざと縁談を破談にするなんて真似したくない。だが、マリアヴェルはどうしてもアルフレッドのお嫁さんになりたいのだ。少なくとも、彼に意中の女性がいない限りは。
「悪女として有名な義妹との結婚は、周りが許してくれないと思うけどな」
「それは……だって、悪評がないとまともな縁談がきてしまうんだもの……」
悪女の汚名はマリアヴェルにとって都合がいいのだ。
アッシュフォードの格は義妹の悪評ごときで揺らいだりしない。根も葉もない噂から結婚できない義妹を不憫に想い、亡き両親から託されたマリアヴェルと結婚した。これなら、周囲はアルフレッドの情の深さを讃えると思うのだ。納得しない人たちも当然いるだろうけれど。
「約束は約束だもの。そこはお兄様が上手く根回しするのが甲斐性というものだわ」
他者の説得をさせたらアルフレッドは王国一なのだから。
「二年後に結婚相手がいなかったら、わたしをお嫁さんにしてくれる?」
四年前、初めてマリアヴェルに縁談の話が持ち上がった時。マリアヴェルはアルフレッドへ告げた。お兄様が一番好き、と。物心ついた頃からマリアヴェルの世界に、男の子はアルフレッドただ一人だった。
一世一代の勇気を振り絞った告白への答えは、アルフレッドの困り顔。それから。
『マリィの僕への想いは、恋じゃないよ』
心底困ったという顔で、アルフレッドはそう告げてきた。
ごめんね、という拒絶ではなく。マリアヴェルの気持ちが恋じゃない。
彼の答えの意味をマリアヴェルは一生懸命考えて考えて、一つの結論を出した。
家族への親愛を、恋だと錯覚している。
アルフレッドはきっと、そんな風に考えているのだと。それならマリアヴェルは、あの日の告白が気の迷いでもなんでもなく、勇気を振り絞った本気のものだったと証明すればいい。それができればアルフレッドは真剣に捉えてくれるだろう。
身近に結婚相手として百点満点な人がいるのに、他の男性になんて目を向けられない。
火傷しそうなほどの熱がこもったマリアヴェルの眼差しに、アルフレッドは何を思ったのだろう。伸びてきた手がぽん、とマリアヴェルの頭に置かれ、
「……考えておくよ」
囁いたアルフレッドがそのまま頭を撫でてくる。
「お兄様ったら、答えになってないわ」
マリアヴェルが頬を膨らませても、瞳を細めた義兄はそれ以上何も言ってはくれなかった。ただ、癖のない髪を梳く手つきは慈しみに満ちていたし、嫌だとは言われなかった。
今はそれだけで満足しておくことにして、アルフレッドの腕にぎゅっ、と抱きついたマリアヴェルは考える。
次の縁談はどう乗り切ろうかしら、と。