閑話 悪女を目指そうと思います
シリアスなエピソードが続いていたので、箸休めの番外編です。作中の時系列は第1章内では最新のものとなっております。
マリアヴェルはその日、友人であるライラの姉の婚約披露パーティに参加していた。
森と水に囲まれた屋敷の庭園で開かれたガーデンパーティは、ライラが姉の挨拶回りに付き合うことになった途端、過ごし方に困る退屈なものとなってしまった。共通の友人であるシルヴィーがいれば話は変わるのだけれど、都合が付かなかったため彼女は不参加。
男を惑わす悪女の噂で有名なマリアヴェルの交友関係は狭く、アルフレッドが同席していない限り他の令嬢から歓迎されることは殆どない。眉をひそめられるとわかっていて華やいだ輪に入っていく図太さを、マリアヴェルは持ち合わせていなかった。なので結局、ライラと別れた後は会場から外れた木陰で一人、涼んでいた。
清涼な木の香りやサワサワと擦れる葉の音はのどかで、眠たくなってくる。ハンカチを敷いて座り込んでしまおうかしら、なんて考えていたマリアヴェルに、声がかかった。
「ねぇきみ、一緒に飲まないか?」
振り返ると、グラスを手にした男が立っていた。朗らかな笑みと共に、シャンパンが注がれたグラスを差し出してくる。反射的に受け取りながらも、近づいた拍子に漂ってきた酒の香りに嫌悪感をおぼえた。
悪女の噂から対人関係には特に気を払う必要があるマリアヴェルは、招待客の名前と顔を事前に頭に入れて社交場に顔を出す。男がセラータ伯爵家の次男であることはすぐにわかった。そして、彼に婚約者がいるということも知っていた。
ワイングラスを掲げる男に向けて、マリアヴェルは微笑んだ。
「婚約者のハーメリー男爵令嬢に悪いですもの。遠慮しておきますわ」
社交辞令の笑みを浮かべて離れようとしたが、腕を掴まれた。
「ジェーンなら今日は来ていないんだ。気を遣うことなんて何もないさ」
そう言って、馴れ馴れしく肩に手を回してくる。今日のマリアヴェルのドレスは襟ぐりが深く、肩は剥き出しだ。素肌を舐めるように滑る男の指の感触に、ぞわりと鳥肌が立つ。やんわりと払い除けようとしても、男はしつこかった。肩に回された手が背中をなぞり、腰まで来たところで――嫌悪が頂点に達したマリアヴェルは、手にしていたグラスの中身を男にぶちまけた。紳士服がシャンパンでぐっしょりと濡れれば、流石に男は顔色を変える。
「何するんだ、この女!!」
「こんな昼間から随分と酔っていらっしゃる様子でしたので。頭を冷やすにはちょうどいいのではありませんか?」
憤りをたっぷりと孕んだ男の眼光に負けじと、マリアヴェルも怒りを露わにした。
「わたしは侯爵家の娘です。あなたの火遊びに付き合うはずないでしょう」
婚約者の預かり知らぬところで繰り広げる軽薄な遊び。貴族の女性でも恋愛をゲームのように楽しむ既婚者なら後腐れないだろうが、マリアヴェルが相手として適しているはずない。
冷ややかに睨み据えると、男は舌打ちした。
「話とちげえじゃん。つまんねー女」
吐き捨て、男は興醒めしたように去っていく。捨て台詞は、マリアヴェルをこの上なく不愉快にさせた。
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ライラの姉に改めて祝いの言葉を伝え、パーティの途中で帰ったマリアヴェルは――。
「なによ、勝手に噂を信じて近づいてきたくせに、つまらない女ですって!? わたしはアッシュフォード侯爵令嬢なのよ。火遊びなんてするはずないじゃない!」
自宅の居間で荒れ狂っていた。
悪評を放置しているマリアヴェルが悪い。だからといって婚約者でも恋人でもない異性とそういうことをする、と思われているなんてひどい侮辱だったし、手を出しても大丈夫な令嬢、と見られているのも悔しかった。
結婚相手には貞淑さを求めるくせに、遊び相手には大胆さを求めるだなんて男の人は勝手だ。
下ろした亜麻色の髪をソファに遠慮なく散らし、ごろん、と寝転んで。クッションを抱き潰してぶつぶつと愚痴っていると――コンコン、とノックの音がした。視線を天井から動かすと、いつのまにか、開け放たれた扉の前にアルフレッドが立っていた。
「侍女が君の荒れっぷりを報告に来てくれたけど、何があったんだい? パーティも途中で帰ってきたんだろう?」
朝から書斎にこもっていたアルフレッドは、仕事よりもマリアヴェルを優先して様子を見に来てくれたみたいだ。弾かれたように起き上がったマリアヴェルは、入室してきたアルフレッドに勢いよく飛び付く。
「聞いてください、お兄様! 可愛い可愛いマリィの心は今ズタズタなのです!」
「えぇ、と?」
困惑でいっぱいのアルフレッドの綺麗な顔を見上げて、マリアヴェルは今日の出来事を詳細に報告した。
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「まあ、悪評を放置するとそういった誤解も生まれるよね」
隣に座ったアルフレッドは、話を聞き終えると苦笑した。
「これを機に、エレナーデ嬢みたいに噂を消す努力をしてみるかい?」
「……それは、ダメ」
今日の出来事は不愉快でしかないが、悪評は良縁を遠ざける役割を果たしてもいるのだから。そう、と肩を竦めたアルフレッドは、悪女の噂自体は別にどちらでも構わないと考えているようだ。
「それなら社交場で一人になるのは避ける、くらいが現実的な対策かな」
アルフレッドの助言に耳を傾けながらも、マリアヴェルはふと思いつく。
「わたし、いっそのこと本物の悪女を目指そうかしら……」
「は?」
深くは考えずに何気なく口にした解決策は、案外悪くない気がした。紺碧の瞳を輝かせ、義兄の顔を見上げる。
「本物の悪女なら、ああいった場でも上手く男性をあしらえるでしょう? つまらない女、なんて馬鹿にされることもないわ」
つまらない女という評価は、マリアヴェルの矜持を刺激した。男心を知り尽くし、手玉に取る恋の上級者。それが本物の悪女だ。マリアヴェルがそうなれば、二度とあんなことは言われないはず。
アルフレッドは物凄く微妙な顔になった。
「いや、それは無理があるからやめて欲しいな」
「どうして? わたし、いままで婚約者を上手く操縦してきた自負があるわ」
時には想う女性への恋心を煽って駆け落ちの決断を促し。
時には趣味の合う女性と引き合わせ、恋の仲立ちをした。
そんなマリアヴェルだから、異性を手玉に取る素質も実績も十分にあるはずだった。
「うーん。世間でいうところの悪女はまた少し方向性が違うだろうから……」
「男の人を手玉に取ればいいのでしょう? そう大きく外れてはいないと思うわ」
「いや、マリィは肝心な部分を失念しているというか……本物の悪女になりきらなくても、付け入る隙を与えない、くらいの意識で十分なんじゃないかな」
「もちろん気を付けるわ。でもどれだけ気を付けても不測の事態は生じるものでしょう? そんなもしものために、事前に備えておいて損はないはずだもの」
「その対策が噂通りの悪女になること?」
こくこくと首を縦に振ると、アルフレッドが深い深い――ため息をついた。
大きな窓から差し込む陽の光を浴びて輝く金髪に指をうずめ、思案するような面持ちでいたアルフレッドは、
「……それなら、試してみようか」
そんなことを言い出した。
「試す?」
「マリィに悪女の素質があるかどうかを試してみるって話」
「試せるものなの?」
「簡単だよ」
完璧な美貌に浮かぶ笑顔は、キラキラとしていて眩いくらい。義兄の意図が汲み取れなくて、マリアヴェルは小首を傾げる。
「僕を見たまま動かないで。身じろぎも禁止だよ。じっとしていてくれるかい?」
「……?」
声音の真剣さに自然と居住まいを正したマリアヴェルは、言われた通りにアルフレッドをじっと見つめる。
義兄の手が頬に伸びてきても、慣れた感触に想うものはなかった。だが、頬に添えられた手が導くようにマリアヴェルの顔を上げさせたものだから、あれ、と戸惑う。陶器のように滑らかな肌を撫でる手付き。愛しい恋人を見つめるような、熱の灯った扇情的な瞳。普段とは異なる雰囲気に落ち着かなくなってくると、端正な顔が近づいてきて――アルフレッドの唇が、マリアヴェルの頬に優しく触れた。
「お、お兄様!?」
幼い頃に挨拶で交わしていたものとは違う、頬よりも若干唇に近い位置に触れた柔らかな熱に真っ赤になってうろたえると。
「はい、マリィは失格です」
身を離したアルフレッドにしれっと言われて、目を瞬かせる。
「え……、……?」
「このくらいで照れていたら、免疫がないのは簡単に見抜かれてしまうよ? 上手くあしらうには程遠い態度なんじゃないかな?」
アルフレッドの言わんとすることは、茹った頭でも十分に呑み込めた。うぅ、と唸りながら、涼しい表情の義兄に訴えかける。
「だってわたし、今まで男の人と触れ合ったことなんてないんだもの……。涼しい顔で流すなんてできないわ……」
歴代の婚約者とはスキンシップどころか手を握ったことすらない、書類上だけの関係だったのだ。
「うん。だから根本的に異性に耐性のないマリィが悪女になるのは、無理だよね?」
ムキになるあまりに見落としていた問題点を、アルフレッドがさらりと指摘してくる。ぐうの音も出なかった。押し黙ると、
「納得いかないならもう少し試してみるかい?」
マリアヴェルの右手を握って、アルフレッドは蜂蜜みたいに甘い笑顔を浮かべた。絡まった指先が、煽るように指の腹を辿る。
「……っ、お兄さまぁ〜」
耐えきれなくて、涙目になったマリアヴェルは情けない声を上げてしまった。
「ごめん、ごめん。意地悪が過ぎたね」
ぱっと手を離し、
「でもほら、これでわかっただろう? マリィが本物の悪女を目指すのは無理があるし、未婚の令嬢が初々しいのも身持ちが堅いのも当然なんだよ。向こうが紳士失格だっただけの話だ。マリィが意地になる必要なんてないよ」
諭すように言いながら、アルフレッドは頭を撫でてくる。いつもなら気にならないのに、距離の近さも手のひらの熱もなんだか恥ずかしくて、頬が熱くなってしまう。俯いたマリアヴェルの恥じらいに気づいたのだろう。アルフレッドは手を引っ込め、頭を撫でる代わりのように優しく微笑んだ。
「マリィはそのままで十分過ぎるくらい、魅力的なんだから」
「…………」
マリアヴェルが黙っていると、アルフレッドは心外そうに眉をひそめた。
「マリィは僕と例の彼、どちらの言うことを信じるんだい?」
「もちろん、お兄様よ」
「なら、問題ないよね?」
「…………」
「返事は?」
「はぁい」
「怪しい返事だな……」
「そんなことないわ。お兄様への感服を込めた心からのはぁい、よ」
ふざけてそんな冗談を言えるくらいには、ささくれ立っていた心は落ち着きを取り戻していた。冷静になれば、あんな男性に軽んじられたところで大した問題じゃないと思えてくる。気持ちが和めば、仕事そっちのけでアルフレッドが構ってくれているというのにふてくされているだなんてもったいないと気づく。
なのでマリアヴェルは、いつものようにアルフレッドの腕にぎゅっと抱き着いた。義兄の雰囲気が普段のものに戻っているから、恥ずかしさはもう感じない。馴染んだ体温は心が安らぐものだ。
「切り替えが早いなぁ」
「だって、今ならお兄様は傷心のわたしをめいっぱい甘やかしてくれるはずだもの。甘えないなんて損だわ」
「……そーいうところなんだけどね」
「何のお話?」
「マリィはそのままでいいって話だよ」
柔らかなアルフレッドの声に耳を傾けているあいだに、パーティでの嫌な出来事はどうでもよくなっているのだった。