第23話 交渉
家令として一族に尽くす父を見て育ったスコットは、自身も上級召使いとして伯爵家に仕えることを夢見ていた。主人に重宝されるような、誉れある使用人になるのが子供の頃からの目標だったのだ。一家が事故に逢っても主人が帰ってくることを信じ、教習所に通いながら父と共に帰還を待っていた。
十三年の月日は長く、長年待ち続けた伯爵家の生き残りが見つかった時の感動は言葉で言い表せない。スコットはまだ二十歳の伯爵に誠心誠意尽すことを誓い、父と共に屋敷で働いた。ところが、伯爵家を継いだロイドは金遣いが荒く、散財癖がひどかった。見兼ねた父が苦言を呈すると、ロイドは鬱陶しがって二人をさっさと屋敷から追い出した。まるでゴミでも捨てるような、あっさりとした態度で。その瞬間、スコットは描いていた夢の愚かさを実感した。
ロイドにとって使用人は路傍の石ころと同じくらい軽いもの。同じ人間とすら思っていなかったのだ。
墓所の鍵を鍵束からくすねたのは、ちょっとした意趣返しのつもりだった。スコットの想像以上に困り果てている伯爵の様は、ざまあみろ、としか思わない。
持っていても仕方ないが今更返すのはバツが悪く、これはもうスコットの意地だった。
煩わしさから捨てた、と咄嗟に嘘をつくと、瞳を瞬かせたアルフレッドがはっきりと苦笑した。
「僕個人としてはそういうことにして引き下がっても構わないのですが、今日は仕事で来ているので……引き受けた以上は中途半端な結果で終わるわけにはいきません。持っているのでしょう? 渡していただけませんか?」
スコットが鍵をまだ手元に残している根拠でもあるのか、確信した様子でアルフレッドは言う。見抜かれて、スコットは舌打ちした。墓所の鍵を捨ててしまうのは、故人への冒涜なのではないかと思い、できなかったのだ。
柔らかなアルフレッドの物腰はこれまでの使者と異なったが、多少好感が持てるからといって譲歩する気にはなれなかった。
無視することに決めたスコットが歩き出すと、すれ違い様にアルフレッドが言った。
「今日は妹さんのお見舞いに来ていたんですか?」
スコットはかっとなる。
「……っ、ミーシャに何かしてみろ! その綺麗な顔をズタズタにしてやる!」
激昂を意に介した様子なく、アルフレッドは肩を竦めた。
「誤解ですよ、脅しの意図はありません。妹さんが馬車の横転に巻き込まれて入院していると報告書にあったので、経過が気になっただけです。手術にかかる費用は目処が立っているんですか?」
「…………」
そんなもの、あるはずなかった。押し黙ると、アルフレッドがやんわりと申し出た。
「では、こうしませんか? 不当解雇の慰謝料として妹さんの手術代を伯爵に支払ってもらう――」
「あいつがそんな金、出すもんかッ!」
「そこは上手くこちらで説得しますよ。殿下はその手の交渉が得意ですので、伯爵が折れる見込みは高いかと」
破格の条件であることは、血がのぼった頭でも理解できた。だが、苛立ちは募るばかりだった。
「貴族さまってのは、何だって金で解決できると思ってやがる。ミーシャの足を治す代わりに鍵を寄越せってか!?」
スコットが腹を立てているのは、忠実な僕だった一家を簡単に捨てたロイドの傲慢な態度だというのに。物腰がどれほど柔らかくとも、目の前の侯爵も同じく傲慢な人間なのだ。謝罪の一つもなく、金で黙らせようとする。
スコットの剣幕に、アルフレッドはまったく動じることなく、困り顔で首を傾ける。
「そうは言っても、伯爵が形だけの謝罪をあなたにしたとして――鍵を返還する気になりますか?」
なるはずない。そして、心からの詫びなどあの男に期待できるはずもなかった。
「当代の伯爵家の当主は残念ながら、あなたが尽くすには値しない人物だった……。そう割り切って新しい生き方を探すのが最良かと」
アルフレッドの言は正しいのだろう。伯爵が自らの過ちを認め、後悔してくれるのなら――心の何処かで、スコットはそんなことを期待していたのかもしれない。だが、アルフレッドが突き付けたように傲慢な貴族が考えを改めたりするはずなく、誠意のある謝罪など幻想だ。
お前の意地は無駄だと言外に告げられている気がして、スコットの胸中に憤りとは別に、虚しさが湧きあがってきた。そんな胸の内を知ってか知らずか、アルフレッドは穏やかに続けた。
「ただ、一つ誤解が。妹さんの治療費と引き換えに鍵を渡してもらおうなんて考えていませんよ。治療費はあくまで、商談をお願いするためのものです」
「商談?」
「鍵はスコットさんが持っていても使い道がない上に、返還の催促だって煩わしいでしょう? 一時的に気が晴れはしてもスコットさんが得られるものは何もない。なので、墓所の鍵という商品は僕に譲ってください。その代わり、譲渡の条件はあなたが好きに提示してくれればいい。そこまで悪い話ではないと思うのですが、どうでしょうか?」
鍵を持ち出したことは訴えられてもおかしくない行為。それなのに公にして咎めるどころかここまで譲歩してくるのだから、よほど大事にしたくないのか。
アルフレッドの話は悪くなかった。ミーシャの治療費と引き換えに鍵を商品とする。そして商品の対価はこちらが好きに決めていいというのだから。
意地を張り続けてミーシャの治療費を蹴るのは愚かだ。行き場のない怒りを鎮める、いい機会なのだろう。
だが、スコット自身も持て余していた意地に対する折り合いを付けさせようとする姿勢。心の内のすべてを見透かしたようなアルフレッドの言い方は、気に食わなかった。どうせ、スコットが大金をふっかけるとでも思っているのだろう。澄ました顔を、歪ませてやりたかった。
「……いいだろう。呑んでやる」
「よかった。では、条件を――」
「殺して欲しい男がいる」
頰を緩めたアルフレッドを谷底に突き落とすように、スコットは端的に要求を口にした。
「ロバート・ガスリーってクソ野郎だ。身分はあんたと同じ貴族」
その名前は、今のスコットにとっては伯爵よりも憎々しいものだ。自らの手で殺してやりたいと渇望するほどに。ガスリー男爵家の一人息子を地獄に突き落としてくれるのであれば、スコットは喜んで墓所の鍵を手放す。とはいえ、こんな条件をアルフレッドは呑んだりしないだろう。
人を殺して欲しいだなんて対価、音を上げるに決まっていた。スコットは勝ち誇った顔になる。なんでも思い通りに行くなんて考え、大間違いだ。
「どうした? お坊ちゃんには想像もしてなかった――」
「殺すというのは、そのままの意味で? それとも、社会的に?」
「は?」
せせら笑おうとしたスコットは、あまりにも自然に問われたものだから、固まってしまった。視線の先にある紫苑の瞳には、湿った空気を凍てつかせるような酷薄な色が浮かんでいて――。
「スコットさんは、どちらを望んでいるんですか?」
「あ……、あいつが、好き放題できなくなるなら、なんだって……」
変わらない涼しい態度と、一瞬だけちらついた瞳の色。不覚にも気圧されてしまったスコットは、しどろもどろにそう答えた。実際、あの忌まわしい男が痛い目に遭ってくれるならなんだってよかった。
アルフレッドがにっこりと微笑んだ。垣間見えた不穏な気配はどこにもなく、異性も同性も関係なしに見た者すべてを魅了するであろう笑顔で、
「商談成立です。鍵を用意して待っていてください」
王太子の懐刀と囁かれる若き侯爵は、自信たっぷりにそう言った。




