第20話 王太子からの贈り物
マリアヴェルがユリウスから呼び出しを受けたのは、夜会から二日後のことだった。
王宮に設けられた第一王子の執務室は人払いがされていて、マリアヴェルとユリウスの二人きり。自然豊かな中庭に比べて執務室の空気は厳かなもの。だが、マリアヴェルの緊張はあの日よりずっと緩かった。
窓を背にして椅子に腰掛けたユリウスが、苦い笑みと共に言った。
「回りくどいことをしてすまなかったな」
「未来の国王夫妻のお役に立てて光栄でしたわ」
にっこり微笑むと、ユリウスは苦笑を深めた。
「ここには私と君しかいない。今なら多少の不敬にも目を瞑ろう」
王太子自らがお許しをくれたので、マリアヴェルははっきりと言う。
「及び腰で周りを巻き込むのは迷惑です。次からはご自分で解決してくださいませ」
人の上に立つ立場なら婚約者の不安くらい自力で取り払って欲しい。
ユリウスも自覚はあるのだろう。善処しよう、と呟いた彼は、嘆息をこぼした。立ち上がり、窓へ近づいたユリウスは外に目を向けたまま口を開く。
「君にとっては少しばかり面白くない昔話になるかもしれないが……私の最初の婚約者――ブリジット・セイレーンとは幼馴染の間柄でね。この意味が伝わるだろうか?」
窓の外に広がる青空と同じ瞳が、マリアヴェルを見据えてくる。
「……セイレーン侯爵令嬢の浮気に、お兄様が関係しているのですか?」
前置きと幼馴染という単語から、それしか考えられなかった。
「浮気相手はもちろんアルフレッドではないよ。ただ、そうだな……アルフレッドの気を引きたくて、というのが事の真相ではある」
婚約者のユリウスではなく、その側近であるアルフレッドの気を引きたくて別の男性と関係を持った。それが、破談になったきっかけ。
自嘲するように唇を持ち上げ、ユリウスは苦々しげに続けた。
「私がアルフレッドに勝っている点は、血統くらいしかない。身近にもっと優れた男がいるんだ。ブリジットの物足りない想いはわからないでもなくてね。私はどうしても彼女を責める気になれなかった。そんな私を非難したのが、エレナーデだ。彼女は自身に向けられる悪意には寛容なのだが、他人のことになると沸点が下がる。ブリジットの不貞を許した私に直接文句を言いに来たんだ」
当時のことを思い出したのか、ユリウスは可笑しそうに微笑む。
『ユリウス様とアル様ではお立場が違います。ユリウス様は人の上に立つお方。そんな方が自らの価値を貶めて、付いてくる臣下はどんな想いでいれば良いのでしょう? ユリウス様を慕う者の期待を、どうか裏切らないでくださいませ』
エレナーデはそう、ユリウスに直談判したのだという。
「彼女が正しい。私は人を使う側の人間なのだから、側にいる人間が有能なのは誇るべきことだ。劣等感を抱いて己を卑下するなど、愚か極まりない。正しい判断が下せる者を側に置き、私はただ彼らを信じて頷くだけでいい。これほど楽なこともない。エレナーデに教えられて、私はアルフレッドと共にいることがかなり楽になった。ただ……」
窓ガラスに触れる指に、わずかに力が込められた。
「アルフレッドの才覚が羨ましくないといえば、それはやはり嘘になる。今回の騒動も私ではなくアルフレッドであれば、エレナーデを傷つけることなく事前に守れていたに違いない。アルフレッドは謙遜するだろうが、私のような過ちをアレが犯すことなどあり得ない。そう思うと……」
「エレナの婚約者はお兄様ではなく、殿下です。その例え話には意味がありませんわ」
マリアヴェルは、ユリウスの独白を遮った。
聡明で清廉潔白、王族の鑑とされるユリウスにも苦悩があるのかと驚いたが、彼だって一人の人間なのだと気づく。
ユリウスがエレナーデに対して及び腰なのは、自分に自信がないからで。その原因がアルフレッドに対する劣等感だなんて、想像もしていなかった。
「エレナが惹かれたのはお兄様ではなく、殿下です。エレナは殿下を情の深い方だと評していました。殿下の苦しみはわたしには想像も付きませんが、エレナが殿下に惹かれた部分を、どうか信じてあげてください」
ユリウスの心の曇りを晴らせるのは、マリアヴェルじゃない。だから言えるのはこれだけだ。
目を瞠ったユリウスはふっ、と唇を綻ばせ、心に留めておくよ、と答えた。重い空気を振り払うように一度深く息を吐き出して、ユリウスが話題を変える。
「君にとっては迷惑極まりなかっただろうが、今回の一件は利点もあったと思う。どうだろうか?」
「エレナとの親交でしょうか?」
「確かに、クロムウェル公爵家との親睦が深まるのは大きいだろうが……それだけじゃない。王太子という後ろ盾を得たんだ。私の期待に応えてくれた暁には、君に褒美を与えなくてはと考えていた。何か望むものはあるだろうか? アルフレッドとの仲を取り持っても構わないが……」
「どうしてお兄様が出てくるのでしょう?」
からかうように言われ、マリアヴェルは狼狽える。
「アレに婚約者がいないのは異常だろう? なぜ縁談を蹴っているのか問い質したことがあるのさ。可愛い義妹のおねだりだと言っていたよ。アルの好みの女性でも教えようか?」
なかなかに魅力的な提案でマリアヴェルの心はふらりと傾いたが、アルフレッドとの関係を進展させるためにユリウスの手を借りるのは、何だか違う気がする。
何か欲しいもの、と考えても特に思い浮かばず、しばらく考えていたマリアヴェルは、
「もっと、エレナに対する自信を持ってください。私が殿下に望むのはそれだけです」
「……努力しよう」
長い間があった気がしたけれど、ユリウスらしい答えだったので苦笑するに留める。
「では……そうだな。ここから先はあくまでただの世間話なのだが。君はアルフレッドのどこに惹かれる? 容姿、性格、剣術、気品、頭脳。他者がアルフレッドを讃える要素はいくらでもある。君はどうだ? どの部分に惹かれる?」
どうしてそんなことを聞くのかしら、と不思議に思ったのは束の間だった。どこと言われても咄嗟に思い付かなくて、簡単なようで難題だと気づいたからだ。
七歳で侯爵家に引き取られたマリアヴェルにとって、男の子は世界でアルフレッドただ一人。小さい頃からずっとアルフレッドしか目に入らなかったから、どこに惹かれたかを問われても言葉にするのは難しい。
「……全部、でしょうか?」
正しいのか自分でもわからないまま、マリアヴェルが口にしたのはそれだった。
「全部、か」
ユリウスの瞳が翳りを帯びた。
「その答えでは、おそらくアルフレッドは君の想いには応えないだろう。賭けは、君が負けることになる」
アルフレッドが応えてくれないのは、マリアヴェルの想いが家族愛以上のものだと信じていないから。あるいは、アルフレッド自身がマリアヴェルを妹以上に想えないから。そう推察していたのだけれど、ユリウスの言い方だと要因は別にありそうだ。
真摯な声音に、マリアヴェルは真剣に耳を傾けた。
「私は昔、アルフレッドが苦手だった。アルフレッドは昔からそつがなく、何をさせても完璧だったが……完璧であるが故に、私は彼が恐ろしかったんだ。この世に天然で非の打ち所のない人間など居はしない。誰もが一つくらいは欠点を抱えているものだ」
実際、アルフレッドの欠点を挙げろと言われると難しい。
性格、容姿、頭脳、貴族としての立ち振る舞い。すべてが満点で、それは社交界の誰もが口を揃える共通認識。アルフレッドのことを完璧な貴公子だと、皆が褒め称えているのだから。
でも、それとマリアヴェルの想いに応えてくれないことに、どんな因果関係があるというのだろう。
残念ながら、ユリウスは直接的な答えはくれなかった。
「マリアヴェル。君は賢い。いずれアルフレッドの真意に気づく時が来るだろう。その時、君がアルフレッドと向き合えることを願っているよ」
哀しげな響きを含ませてそう締め括ったユリウスは、マリアヴェルに退室を促すのだった。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございます。次のエピソードはアルフレッドに焦点を当てたストーリーなのですが、時系列が第1話より以前の過去話となりますのでご注意ください。




