第2話 お世話になりました
桃色の唇を綻ばせて、マリアヴェルは歌うように続けた。
「オズボーン侯爵家が名門だったのは過去の話。資産のやりくりに失敗した挙句、浪費とギャンブルで莫大な借金を抱えているのが現状です。卿は娘が恋人に貢がせたものを換金して返済に充てる――そんな涙ぐましい努力をしておいでだそうですが、お心当たりがあったりしませんか?」
「それは……っ」
つい目を泳がせてしまったのは、思い当たる節があったからだ。
クリスティーナにねだられるままに宝石を買い与えてきたロバートだが、贈ったネックレスもブローチも、彼女が身につけているのを見たことがなかった。
苛立ちで熱くなっていた胸が、じわじわと締め付けられる。湧き上がってきた不安を煽るように、マリアヴェルがにっこりと微笑んだ。
「それだけでしたら可愛いものなのですけれど。膨れ上がった借金を返済する手段として、卿は犯罪行為に及んだのです。先月話題になった誘拐事件はロバート様もご存知でしょう? 事件には人身売買に手を染める組織が関わっていたのですが……王室を悩ませる困った組織に、あろうことかオズボーン卿も名を連ねていらっしゃるのです。誘拐されたアレスティン公爵令嬢は王家の遠縁。この意味が、おわかりになりますか?」
「…………」
陸地に打ち上げられた魚のように。はくはくと口を動かし、ロバートは言葉を失う。そんな反応を面白がるように、マリアヴェルの大きな瞳が細まる。
「卿は王城で取り調べの真っ最中。そう遠くない内に侯爵家は取り潰しとなり、爵位の返上が決まるでしょう。反逆の汚名を背負うであろうオズボーン家の令嬢に熱をあげていただなんて――とんだ醜聞ですわね、ロバート様?」
広間から流れてくるしっとりとした演奏に、鈴の鳴るような笑い声が重なる。耳をくすぐる軽やかな声を遮ってしまいたくて、ロバートは叫んだ。
「デタラメをほざくな! 荒唐無稽な作り話で俺を脅そうとしたって無駄だ!」
きょとん、と。マリアヴェルが目を瞬かせる。
「脅す? ロバート様を脅して、わたしにどんな得があるというのです?」
「お前は過去に三人もの婚約者から捨てられている! これ以上の醜聞を避けるため、本心では婚約を解消したくないんだろう!? だからこんなデタラメを並べ立てて俺を騙そうと――」
「わたしの最初の婚約者――フリッド・キャンベル様には、婚約前から思いを寄せる女性がいらっしゃいました」
捲し立てたロバートに、マリアヴェルが静かに告げた。
「どうしてもその方が忘れられないと仰るので、僭越ながらわたしが駆け落ちのお手伝いをさせていただきました」
愛らしい顔は、どこまでも晴れやか。
「二人目の婚約者――シーモア・ダルフィン様はダルフィン商会の跡取りでした。シーモア様は仕事熱心な反面、結婚願望が乏しく女性よりも宝石を愛でる特殊な性癖の持ち主でしたわ。同じく宝石に目がないご令嬢を紹介しましたら大層馬が合い、その方と商会を盛り立てていきたいと仰るのでわたしは身を引きました」
去って行った婚約者への未練なんてありませんと言わんばかりに。マリアヴェルはあっけらかんとした表情で肩を竦める。
「三人目の婚約者――ハーバード様はパウエル伯爵家の長男。パウエル家は我が家と同じ守旧派のはずだったのですが、婚約後に当主となったハーバード様は改革派の貴族に丸め込まれ、思想を翻してしまわれたのです。アッシュフォードは陛下の忠臣。改革派との婚姻などあり得ません。婚約解消は当然の成り行きです」
指を折って婚約者の解説を終えたマリアヴェルが浮かべたのは、満足そうな微笑みだった。
「ハーバード様の件は不可抗力でしたが、フリッド様とシーモア様に関してはわたしがお膳立てしました。これまでの婚約解消は、わたしにとっては願ったり叶ったりの結果なのです。つまり、ロバート様の指摘は的外れですわ」
彼女の真意がまったくわからなかった。これまでの婚約解消は、マリアヴェルにとって本望である。例え、そのふざけた回答が真実であったとしても、だ。
「わけのわからぬことを! 世間はそうは思っていないじゃないか! 俺との婚約を解消すれば、お前の悪評はますます広まる。侯爵家の令嬢である以上、醜聞を増やしたくないことには変わりないだろうが!」
「おあいにくさま」
マリアヴェルの口調が変わった。
深窓の令嬢らしく貞淑だった話し方が、小憎たらしいものへと。不遜な笑みを浮かべて、彼女はきっぱりと言う。
「わたしの婚約解消の理由がきちんと認知される必要はないし、悪評も、あなたのような人が近づいてきてくれるなら本望だわ。条件のいい縁談なんてきたら困ってしまうもの」
「……何を言っている?」
やはり、マリアヴェルの言葉の意味がロバートにはわからない。
「……これ以上は、時間の無駄ね」
ぼそりと呟いたマリアヴェルが、穏やかな夜風に長い亜麻色の髪をそよがせ、優雅に腰を折った。
「それではロバート様、今までお世話になりました」
若草色のドレスを揺らして、彼女はあっさりとバルコニーから出て行った。