第12話 錯綜する思惑
侍女に先導される形で王宮の廊下を歩きながら、マリアヴェルは途方に暮れていた。
引き受けるしかなかったとはいえ、ユリウスに好意を持つ令嬢の方から婚約破棄するように仕向ける、なんてどうすればいいのだろう。
手段だけでも難航しそうなのに、成功すれば公爵家から、失敗すれば第一王子から不興を買う。どちらに転んでも失うものがあるだなんて。
俯いていたマリアヴェルの視界の端で、城門に向かって案内してくれていた侍女の足が止まった。つられて立ち止まったマリアヴェルが顔を上げると、磨かれた大理石の柱の側にアルフレッドの姿があった。
硝子絵画のはまった窓から差し込む陽光を孕んで輝く金髪を揺らして、義兄が歩み寄ってくる。
壁と天井に彫り込まれた薔薇の彫刻も、豪奢な絨毯も、壁に掛かる絵画も――洗練された王宮の内装が霞むほどの優雅さで、アルフレッドが侍女にふわりと微笑みかけた。
「後は僕が案内します。どうぞ仕事に戻ってください」
王宮勤めに相応しいお辞儀をして去って行く侍女を見送ったアルフレッドは、マリアヴェルと目が合うと苦笑した。
「気になったから抜け出して来たんだけど。様子を見に来て正解だったみたいだね。ひどい顔色だよ?」
いつだってマリアヴェルを慮ってくれる、優しい紫苑の瞳。
王宮に一人で招待されるのも、王族と二人だけで話すのも、初めての経験で。張り詰めていた緊張が一気に解けて、無性にアルフレッドに甘えたくなってしまう。
自宅なら迷わず抱きつくのだけれど、ここは王宮。淑女として節度を守るべきで、でも頭を撫でてもらうくらいなら許されるかしら、と葛藤していると。
うぅ〜、と唸るマリアヴェルの心中に気づいたらしい。クスリと笑みをこぼしたアルフレッドが両手を広げた。
「いいよ。今なら誰も見てないから、おいで」
慈しみに溢れた声で促され、マリアヴェルは義兄の胸に飛び込んだ。ぎゅっと抱きつくと、アルフレッドがあやすように髪を撫でてくれる。
「殿下にいじめられた?」
耳元を擽る声には、からかうような響きがあった。
「……すごく難しい課題を出されてしまって、どうすればいいかわからないの。お兄様は殿下がわたしに何を命じたか、知っている?」
「いや。君と話してみたくてお茶に誘ったとしか聞いてないよ」
抱擁を解き、亜麻色の額髪を掻き上げたアルフレッドが気遣わしげに言う。
「その様子だと、厄介な命令だったのは間違いなさそうだ。マリィがどうしても嫌なら、僕が執り成そうか?」
アルフレッドに甘えてしまえば、憂鬱な問題から逃げられる。しかし、それではユリウスはマリアヴェルを快く思わないだろう。侯爵家のために、できることならマリアヴェルはユリウスと上手く付き合っていきたい。
頷きたくなる衝動を堪えて、見下ろしてくる瞳を毅然と見つめ返す。
「甘やかさないで、お兄様。わたしはお兄様の義妹なんだもの。できる子だって自分で証明できるわ」
「……そう。なら、助言だけで我慢するよ」
頰を緩めたアルフレッドの瞳が、深みを帯びる。
「個人としての殿下は厄介というか、面倒なところがあるから素直なマリィとは対照的な人かも。ただ、王族としては非の打ち所のない方だよ。政に私情を挟んだりしないし、公正で決断力も申し分ない。無茶振りしているようで分不相応なことは任せたりしないから、しっかり考えて取り組めば、マリィなら殿下の期待に応えられるはずだよ」
命令は縁談の破談なんていう碌でもないことなのだけれど。アルフレッドの助言に従うのであれば、ユリウスの発言を額面通りに受け取るのは間違いなのかもしれない。
アルフレッドがここまで信頼する王太子が、婚約者を窘めることもできないろくでなしだとは思えない。
わざわざマリアヴェルを介して破談に持ち込む意味を、しっかり考える必要があるのかもしれなかった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
正午の鐘と共に始まった昼休憩が終わって少し経った頃。ユリウスはアルフレッドの執務室に乗り込んだ。
椅子に腰掛けたアルフレッドが書類から顔を上げる。目が合うと、彼は怪訝そうに眉をひそめた。
「なぜ私の執務室に顔を出さない?」
ユリウスがそう尋ねると、再び書類に視線を落としたアルフレッドは、
「殿下との約束はなかったと記憶していますが」
何を言ってるんだこいつは、みたいな調子で答えた。
執務机の正面に配置されたソファに腰掛け、ユリウスは悪戯っぽく瞳を細める。
「アルの可愛い可愛い義妹が来ていただろう? 用件を探りに来るかと思っていたんだが、どうして来なかったんだ?」
「マリィの様子なら見てきましたし、詳細なら帰ってからゆっくり聞けます。仕事が山積みですので、わざわざ殿下の執務室まで行く余裕はありませんよ」
遠回しに仕事の邪魔をするなと言われている気がしたが、ユリウスは気のせいだと思い込むことにした。
「アルの義妹とは思えないくらい素直で可愛らしい子だったよ。だいぶキツイ物言いをしてしまったからな。落ち込んでいたんじゃないか?」
マリアヴェルには申し訳ないことをしてしまったが、この件に関してはあのくらいがちょうどいい。嫌味な王族からの気の重たい頼まれごと、ぐらいの認識でいて欲しいのだ。
「可哀想なくらいしょげていましたよ。どんな無理難題を吹っかけてあの子を途方に暮れさせたんです?」
「マリアヴェル嬢に縁談を申し込んだ」
あくまで会話の切り口でしかないが、嘘は言っていない。実のところ、この言葉でアルフレッドをからかうためだけに、マリアヴェルへの用件を伏せていたのだ。
アルフレッドの驚く様をワクワクしながら待っていると。
「……あぁ。エレナーデ嬢の件をマリィに託したんですか」
あっさりと看破され、ユリウスは面白くない。期待外れの反応に柳眉をひそめる。
「私はお前のそういうところが昔から面白くない。もっとこう、ええ!? とか、何か反応があるだろう? 驚かないどころか大して間も置かずに私の思考を読んでくれるな」
聡明といえば聞こえはいいが、アルフレッドのすべてを見透かす察しのよさは心を読まれている気分になる。子供の頃は苦手意識を持ったりもしていた。
「殿下が僕を嫌っているのは今に始まったことじゃありませんし、わかるものはわかるのだから仕方がないでしょう」
「嫌いとは言っていない。面白くないだけだ」
そうですか、とアルフレッドはどうでもよさそうに言う。実際、彼にとってはユリウスに好かれていようと嫌われていようと、どうでもいいのだろう。
有能であれば好感など関係なく重宝されると、アルフレッドは認識している。事実、現在のユリウスはそういうタイプだった。
「マリアヴェル嬢と話をして、昔を思い出したよ。当時の私は確かにアルが嫌いだったし、エレナーデに出会えなければ認識を改めることもできず、今でも癇癪を起こしていただろうな」
アルフレッドは元々、ユリウスの付き人だった。本物の王族を霞ませるほどの王子様然とした美貌に加えて、何事もそつなくこなす器用さ。大人顔負けの明晰な頭脳。教師たちはもちろん、国王夫妻のお気に入りだったアルフレッドと比較され、ユリウスはいつも陰で貶される側だった。幼い頃のユリウスは、凄まじい劣等感からアルフレッドが大嫌いだったのだ。
懐かしさに瞳を細めるユリウスに対して、アルフレッドは顔を曇らせた。
「エレナーデ嬢の件は、もっと早く僕が気づくべきでした」
「いや、あれは私の失態だ。いくらお前でも後宮にまでは目を配れまい。苦肉の策でマリアヴェル嬢に託してみたが、上手くいくと思うか?」
「条件的にマリィが一番適しているという点は、僕も同感です」
書類の文字を追っていた目が、初めてユリウスを正面から捉えた。
「心配いりませんよ。僕の義妹は機転が利くだけでなく、優しい子ですから。殿下の意図にもいずれ気づくでしょう」
アルフレッドが太鼓判を押すのなら、一安心だ。胸を撫で下ろしたのも束の間。
「本音を言わせれもらえば、マリィが殿下の期待に応えた場合、外堀が埋まるので僕としては期待通りに行かなくても構わないのですが。最終的には殿下が落ち込むだけの話ですから」
ユリウスへの情を持たない側近はすぐに不穏なことを言うので、困りものだった。