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第1話 彼女は悪女な婚約者

「マリアヴェル。俺が今夜の夜会に君を誘ったのは、今ここで君との婚約を破棄するためだ。俺は心から愛する女性と出逢ったんだ」


 伯爵邸のバルコニーで婚約者と二人きりになると、ロバート・ガスリーはきっぱりとそう告げた。


 マリアヴェル・アッシュフォードは花のように可憐な少女だ。


 深窓の令嬢らしく結い上げられた亜麻色の髪。肌は抜けるように白く、卵型の小さな顔に紺碧こんぺきの瞳と筋の通った鼻梁びりょう、柔らかそうな唇がバランスよく納まっている。白百合のような美貌は男なら誰もが視線を奪われるに違いない。


 養女とはいえ名門アッシュフォード侯爵家の令嬢なのだから、家柄だって魅力的だ。今年で二十二歳になる侯爵家の若き当主アルフレッド・アッシュフォードは、宰相補佐の役職に就く王太子のお気に入り。未来の宰相と目される、将来を約束された貴公子なのだ。


 その義妹であるマリアヴェルは容姿と家柄は申し分ないのだが、ひねくれた性根からすでに縁談を三件も破談にしており、一部の男たちのあいだでは悪女とも囁かれる問題児だった。


 婚約者であるロバートの感想は、評判と大きくかけ離れていない。いや、想像していたよりも更にひどい女だった。


 夜会のエスコートは兄に頼むからと袖にされ続け、婚約してから二ヶ月が経つというのにロバートがパートナーを務めたのは今夜が初めて。観劇や買い物に誘っても興味がないと断られ、顔を見るために侯爵邸を訪ねても会話が弾んだ試しがなく。愛想笑いの一つすらくれないのだから、気まずくて小一時間も保たずに帰ることになる。


 ロバートにとってのマリアヴェルは名ばかりの婚約者で、口付けはおろか手を握ったことすらなかった。


 つまらない女との結婚なんてごめんだが、金で爵位を買ったガスリー家にとってアッシュフォード侯爵家との縁戚関係は喉から手が出るほどに欲しいもの。両親はこの婚約を大層喜んでおり、不満なんてこぼせるはずがない――そう思い込んでいたのだ。彼女と出逢うまでは。


 細い眉をひそめたマリアヴェルが、かくりと首を傾げた。


「下位貴族である男爵家から一方的に婚約を破棄するだなんて、我が家への侮辱に当たる行為です。ロバート様のご両親が賛同していらっしゃるとは思えませんわ」


 もっともらしく言うマリアヴェルは、その可憐なかんばせの下でロバートを見下しているに違いない。彼女の本性をとっくに見抜いていたロバートは、予想通りの会話にほくそ笑んだ。


「父上と母上の預かり知らぬことであるというのは、正しい。だが、必ずや俺の選んだ道を支持してくれるであろう。俺は君との婚約を破棄し、クリスティーナに求婚するつもりだ。正式なプロポーズはまだだが、彼女も俺の愛を受け入れてくれている」


 オズボーン侯爵家の令嬢の名前が挙がった途端、マリアヴェルの長いまつ毛がぴくりと震えた。その反応を見逃さず、ロバートは畳み掛ける。


「婚約した暁には、君がしてきたクリスティーナへの仕打ちをアッシュフォード侯爵へ抗議する。オズボーン侯爵と共に、だ。君の悪評は有名だ。クリスティーナへの嫌がらせが明らかになれば世間は俺に同情し、婚約破棄は正当なものと認められる。愚かな君でも簡単に想像がつくだろう?」


 澄み切った空を思わせる瞳に、怪訝な色が浮かんだ。


「クリスティーナ様への仕打ちというのは、一体なんのお話でしょうか?」

「とぼけるな!」


 白々しいすっとぼけに、ロバートは眦をつり上げる。


 クリスティーナは社交の場で、マリアヴェルから陰湿な嫌がらせを受けてきたのだ。それも、一度や二度の話じゃない。誰にも相談できずに泣き暮れていた彼女は精神的に追い詰められた末、マリアヴェルの婚約者であるロバートを頼ってきた。友人にも家族にも縋れず、一人で耐え続けてきた彼女のいじらしさといったら。


 邪悪な企みとは無縁そうな可憐な顔に向けて、ロバートは人差し指を突きつける。


「クリスティーナが友人のイレーナ嬢から招待された茶会の話だ! 前日になって招待を撤回する手紙が届いたという。調べてみれば、君が裏で手を回したそうじゃないか。シラを切っても無駄だぞ!」


 誘いに心を弾ませていたクリスティーナの落胆を想えば、はらわたが煮えくり返る。


 先月初旬。アレスティン公爵家の令嬢が誘拐されて王都は騒然となったものだが、どうせならマリアヴェルが標的にされていればよかったのだ。そうすれば、クリスティーナが苦しむことなどなかったのに。そんな考えを抱いてしまうほど、ロバートの鬱憤うっぷんは蓄積していた。


 細い指を顎にて、しばらく考え込んでいたマリアヴェルがあぁ、と呟いた。


「そのお茶会でしたら、主催はノイワール公爵夫人です。好きに友人を誘っても構わないという夫人の言を受け、イレーナ様がクリスティーナ様にも声を掛けたようですが……ノイワール家とオズボーン家の確執は水と油より激しいもの。クリスティーナ様の参加など認められるはずありませんわ。わたしでなくとも、気づいたものが他にいれば同じことをしたでしょう」


 ロバートは目をみはったが、クリスティーナから聞いた話は他にもあった。


「それだけじゃない。先月末に開かれた王女殿下の誕生祭で、君がクリスティーナのドレスに難癖をつけ、彼女を王城から追い出したと――」

「夜会の主役が王女殿下であることは説明するまでもないと思いますが。あの日、クリスティーナ様のドレスは殿下のドレスと同じ色でした。財力で爵位を得たとはいえ貴族社会に身を置くロバート様ですもの。それがどれほどの不敬に当たるかは、心得ていらっしゃるでしょう? 替えのドレスを持たないクリスティーナ様にお帰りいただくのはやむを得ません」


 困ったように眉尻を下げていたマリアヴェルが、再び首を傾げる。


「クリスティーナ様に吹き込まれたわたしの所業は他にもあるのでしょうか? すべて反論できる自信がありますが、これ以上は時間の無駄かと。わたしがクリスティーナ様に嫌がらせをしていたなんてお話は、事実無根なのですから」


 言葉選びの一つ一つがしゃくに障った。女としての可愛げがまったくない、顔だけの令嬢のくせに。


「……っ、誤解があったとしても、お前が最低な女なのは事実だろう! その心無い言動で繊細なクリスティーナを傷つけたに決まっているッ!」


 怒りで瞳を燃やすロバートと対照的に、マリアヴェルの眼差しはいだ水面みなものよう。広間から流れてくるハープの演奏に紛れて、ふぅ、と。嘆息したマリアヴェルが目を伏せた。


「ロバート様はわたしではなく、クリスティーナ様を愛していると仰るのですね?」

「お前を愛したことなどない。クリスティーナへのこの想いこそが、真実の愛というもの。俺が愛しているのはクリスティーナだけだ!」


 侯爵家から不興を買おうとも、ロバートはこの愛を貫くのだ。決心は絶対に揺るがない。誰に何を言われても、だ。


 足下をじっと見つめていたマリアヴェルが視線を上げる。再び目が合うと、彼女は控えめな笑みを浮かべて頷いた。


「わかりました。そこまで仰るのでしたら、婚約は解消しましょう。ガスリー家からの一方的な婚約破棄では色々と問題も持ち上がるでしょうし……穏便に解消できるよう、わたしから兄に頼んでみますわ」


 拍子抜けするほどあっさりと快諾を得てしまった。想像していた展開とまったく違う。有難い話だが、わがままと評判の女だからもっとごねると思っていた。


 戸惑いを隠せずにいると。


「――ところで、ロバート様」


 マリアヴェルの声色がほんの少しだけ変化した。丁寧でありながらもどこか淡々としていた話し方が、雛鳥がさえずるような無邪気なものに。


 マリアヴェルが笑う。蜂蜜みたいに甘くて見る者すべての魂を呑み込むような、至上の微笑み。それは、ロバートが初めて目にする彼女の笑顔だった。


「ロバート様が真実の愛を見出したというクリスティーナ様。そのご実家――オズボーン侯爵家には莫大な借金があるということを、ロバート様はご存知でしょうか?」

「は……?」


 寝耳に水の話に、ロバートはぽかん、と間抜け面を晒した。

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