飛竜の翼で帰るまで
少女は、飛竜の翼に乗ってやってきた。
風も大地も味方をするかのように、少女と竜は、地上にふんわりと降り立った。
彼女は、飛竜の青銅色の背に手を伸ばすと、やさしくさすった。竜の鱗は滑らかでつやつやと輝いていた。
少女は、フィオナと名乗った。その村の娘によくつけられる名だ。
フィオナは一人、村はずれの小屋に住んだ。
村の人々は、突然現れたこの少女のことをいろいろと訊きたがった。だが、フィオナはあまり自分のことを話さない。
村一番の年寄りである老婆が告げた。
「そんなに詮索するものではない。ここらの村では、時々そういう者がおる。森の恵みのひとつだと伝えられている。十数年前にもどこからともなくやってきた娘があった。あまりしつこいと、すぐにいなくなってしまうぞ」
それを聞いた若者たちは大慌てで、フィオナにぶしつけな質問をするのをきっぱりとやめた。
フィオナは絹のような柔らかい金の髪を長く伸ばしていた。煌めく瞳は、豊かな清流のように深い緑色。桜のような薄赤い唇には、やわらかな笑みが常にあった。
歌うような美しい声は、人々の心を和ませる。ほっそりとした手足は野を駆ける生き物のようにしなやかで、足どりはいつも軽やかだった。
彼女は静かな雰囲気をたたえていた。村の人々はみな、遠くから見守るようにして、一緒に過ごした。
フィオナの存在は、いつの間にか村の中に溶け込んでいた。
時折、フィオナは竜を呼んだ。
フィオナが空へ視線を向ければ、竜はすぐに彼女のもとへ降下してきた。他の誰一人として竜の姿を見ることのできる者はいない。竜は彼女の友であり、心の拠り所でもあった。
フィオナは、村人とともに小麦や豆類の畑の世話や機織りなどの仕事をこなし、ひっそりと暮らしていた。
小麦の収穫時期を迎えたある日、焦げ茶色のやさしい瞳をした若者が村を訪れた。
町から小麦を買いつけに来ていた彼は、フィオナに恋をした。
「フィオナ、ぼくの町を見に行かないかい?」
「わたしはこの村でずっと暮らしているので、町のことは何も分からないんです」
ためらうフィオナに、若者は目を細める。
「それじゃ、案内してあげるよ」
フィオナは、ロルフというその若者の、小麦をたくさん積んだ馬車に乗り込んだ。
初めての揺れる乗り物に、フィオナは恐れを感じた。それでも、馬車が石畳の整った道へと進むにつれ、何度も身を乗り出すようになった。
赤や青や緑の三角屋根の家々、石造りの大きな屋敷、見上げるくらい高い塔。鐘楼の鐘が大きな音を響かせることもあるという。
ロルフは馬車の速度を緩やかにして、フィオナがよく眺められるようにしてくれた。
大きな町の賑わいに、フィオナは圧倒された。
何とたくさんの人がいるのだろう。
遊んでいる小さな子どもたち。赤ん坊を抱いた若い母親や、おしゃべりに夢中の女性たち。恋人たち。荷物を運ぶ若者、商談中らしい男性たち。杖をついたり、ゆっくりとした動作の老人たち。
たくさんの様々な人が通りを歩き、馬車ですれ違う。
村で一年の間に見かけるのと同じくらいの人に、半日で会ってしまったかのようだった。
大通りに立ち並ぶ店々は、村の小さな市場では見たこともない品物で溢れ返っている。
形や色の珍しい野菜や果物を売っている店。肉屋、魚屋なども物の種類が豊富だ。色とりどりの不思議な花びらの草花が並ぶ店もある。異国風と思われる雑貨を扱う店もある。変わったデザインや風合いの衣装、金や銀をちりばめた装飾品には目を奪われた。
「いらっしゃい」
「お嬢さん、おひとついかがですか」
大きな声で店主に話しかけられ、慣れないフィオナはびくりとする。気づかないうちに、隣で馬車を引いているロルフの作業着の裾を掴んでいた。
そうすると、熾火の赤い色がすうっと消え入るように、怖れる気持ちがなくなっていった。
やがて、ロルフは馬を引いて止め、フィオナの手をとって、馬車から降ろした。
それは、飛竜で初めて地上に降り立った日にも似た何かだった。
フィオナは気さくなロルフに案内されるまま、町の中を歩いた。最初はこわごわ、やがてはわくわくと。
次から次へと見入るフィオナの問いに、ロルフは一つ一つ丁寧に笑顔で答えてくれた。ロルフに話しかけてくる町の者も多く、フィオナは彼の背中に隠れながらも挨拶を交わす。
フィオナは町のことを、町に住むたくさんの人たちのことを知った。
彼女の心のどこかの扉が開いた。
フィオナはその日、一度も竜のことを思い出さなかった。
それからも、ロルフは時々馬車に小麦などの食物を積んだまま、村へフィオナを訪ねてきた。時には町へ連れ出してくれた。フィオナはそれが楽しみになった。
彼女もロルフに恋をしていたのだ。
いつも一人で竜を呼んでいたはずのフィオナは、ロルフに会うと、しばらくは竜を呼ばなくなった。
ある春の夕暮れ、フィオナを村へ送り届けたロルフは、彼女の手を握りしめた。
「愛している。ずっと一緒にいたい」
彼はフィオナを見つめると、そっと口づけをした。
そのときから、フィオナはだんだんと竜の姿を思い浮かべなくなっていった。
月日は過ぎ、フィオナはロルフと結ばれて、町で暮らすようになった。
ロルフは穀物や豆類などの仕入れやこまごまとした仕事を真面目にこなした。フィオナは三人の子どもを産み、ロルフに寄り添いながら、子どもたちを立派に育て上げた。
さらに年月は流れ、フィオナとロルフの子どもたちも独立し、孫の誕生を喜んだ日も遠くなっていった。
フィオナは、喜びも悲しみも、時として怒りや嘆きも味わった。
ロルフとともに笑い、人としての幸せを享受した。
年老いたロルフが身まかり、フィオナは一人になった。
フィオナは、竜を思い出した。
飛竜は、少女のときと変わらずに、フィオナのもとへ舞い降りた。
フィオナは懐かしさに微笑み、竜に手を差し伸べる。その途端、老女だったフィオナは少女の姿に戻った。
少女は竜の背に乗った。初めて人の住む村へやってきた日と同じように。
飛竜は一声鳴くと、少女を乗せて森へと旅立った。
少女は森へ帰ってきた。
彼女は妖精だった。森があるかぎり、ずっと歌い舞い踊る森の精だった。
妖精たちの棲む巨大な森は、森だけで完結してはいない。森の力は、世界の果てまで遠く巡りわたり、すべての命を祝福する。
妖精たちは、世界の命の根源の存在だ。歌い踊ることで森の力を甦らせる。
しかし、時々妖精たちは歌えなくなることがある。踊ることも跳ね回ることもできなくなる。そういうときは、遠くに住む人間の心を感じ、味わうことで癒されるのだ。
他の生き物に比べて、人の一生は長く多様で、その心はとても大きく豊かだから。
妖精たちは飛竜に乗って、人の住む町や村へやってくる。人間とつながりを持てるように、竜は人界の妖精をいつでも見守っている。
やがてその妖精が、人間として生き、心を感じ、人に触れて、再び森へ帰って歌える日まで。
フィオナの思い出を持ち、人の心にたくさん触れた妖精の少女は、森でまた歌い、舞い始める。
晩夏の森は、緑の葉を茂らせた樹木で溢れている。
羽虫たちが飛び交い、小鳥たちは思うまま囀る。リスやネズミのような小さな動物たちは、高い枝々の間を駆け抜けていく。
実りの秋に向けて、森は動き出している。
木漏れ日の中、少女は歌い上げる。
人としての心を。とりわけ、ロルフとの恋や愛を。その声はどこまでも響き渡り、森のすべてのものを生き生きとさせる。
他の妖精たちも一人、二人と集まってきた。それぞれの姿は、髪や瞳の色、整った面差しも異なっている。けれど、妖精の少女たちは、姉妹のようにみなどこか似通っていた。
妖精たちは、歌声に誘われて、フィオナの想いを分かち合い、ある者は聞き入り、ある者はともに歌い、踊った。
少女は歌い、踊る。
森は生き、世界へ巡っていく。
竜とフィオナ
フィオナ