見えない世界
『――速報です、1992年十二月に兵庫県三門市で起こった通り魔事件の羽田野仁死刑囚の死刑が執行されました』
リビングに置いてあるテレビから、そんな速報が流れていた。父さんはそのニュースをじっくりと見つめて、ため息を漏らしていた。
【1】
ガキの頃、いつかこの世界を隅から隅まで見たいとそいつは言っていた。そいつは赤ん坊の頃、医療ミスで両目が見えなくなっていたからだ。そいつの母親は昔からそいつに沢山の本を朗読してあげていたとそいつは言っていた。有名な絵本から小難しい純文学小説、ギャグ漫画からアメリカのマーカス・ドレイクというSF 作家の『蔓延る夜』と言う小説まで、そいつの母親はただひたすらそいつに様々な『世界』を聞かせていた。
そいつに出会ったのは小学校4年の時だった。学校の廊下で馬鹿なグループにからかわれていたのを、俺が助けてやったといういかにもな出会い方だった。
そいつは俺の方を見ず、ただひたすら泣きながらありがとうと言っていた。その時、初めてそいつは目が見えないんだと悟った。
その日から、そいつがいじめられていると俺が助けに行くというスタンスが生まれ、幸か不幸かいつしかそいつに近寄る奴はいなくなっていった。
ある日、授業が終わって俺がそいつのもとに行き、声をかけると、そいつは俺の声が聞こえた方向を向いて、手を振った。
俺はそいつの前に座り、今日はどんなことがあったかなどを尋ねた。
そいつは俺にうきうきと様々な話をしてきた。その話はいつ聞いても面白く、自分がその現場にいるのではないかと錯覚するほどにリアリティがあった。
そいつはいつ見ても、面白く真面目な少年という風貌だった。なぜそいつに俺以外の友人がいないの
かが、俺はそいつが目が見えるようになるまで分からなかった。
【2】
生まれた時から僕は目が見えないというのが普通だと思っていた。
母さんに何故目が見えないの?と尋ねても、いつもあやふやにされるだけだった。
母さんは僕に様々な世界を見せてくれた。特に印象に残ってるのは、マーカス・ドレイクというSF作家の『蔓延る夜』という小説だった。
『――その夜が来た時、人々は恐怖に苛まれる』という書き出しから始まるその小説は、僕の人生に多大な影響を与えてくれた。僕はその小説で想像力を養ったと言っても過言ではない。
彼と別れる直前、彼はこんな言葉を残してくれた。
『目が見えなくても、世界は見えてくるはずだ。いつかその世界を教えてくれ』
彼のその言葉は、目が見えなかった僕にとって救いの言葉だった。僕はその日からどんな嫌な事があっても、彼の言葉を思い出し、糧にしてきた。
彼は命の恩人だと思う。だが、今となってはもう遅い話なのだが……
【3】
高校卒業して何年経ったか忘れ始めた頃、20代も後半になり、精神的にも大人になってきた頃、あいつから手紙が届いた。
『拝啓、仲野智様。いきなりこんな手紙を出して驚いたと思う。ワープロでもなく、手書きの汚い字を見て、すぐに僕が書いたと分かったらうれしい。
そう、僕は目が見えなかった。だから字も書けなかった。いつも誰かにいじめられ、自尊心が傷ついていた。そんな時、目が見えない僕を救ってくれたのが、君だった。
僕はアメリカに行き、目が見える手術を行った。まだ眼鏡をかけないとほぼ見えないが、だけどこの世界が見えるようになった。様々な物が目新しく見えて、僕は感動したんだ。
……けど、同時に失望したんだ。何故この世界はこんなに素晴らしいのに、失望するのだろう?今の僕の最大の問いは、それなんだ。
……長ったらしく書いてごめん、とりあえず、目が見えるようになったよ。気軽に連絡してくれたらうれしい。僕は今、目の見えない子供たちの福祉をしてるんだ……羽田野仁より』
その手紙を読んだ時、俺はなぜか心の中に不可思議な感覚が生まれた。それは喜びと悲しみ、そして怒りが同時に起きたような感覚にも似ていた。
あいつはなんで、あんなことをしたんだろうか……
【4】
24歳の夏のある日、その日は僕の人生で一生忘れられない日になった。
特別支援学級を卒業し、僕は自分の目が見えないせいで仕事をしていなかった。幸い、生活には困っていなかった。だけど、目が見えないというのはつらく、子供の頃とはまた違う苦しみを味わっていた。
もし、僕の目が見えていたら、この世界の隅から隅まで見てみたら、僕はどんな人間になっていただろうか。
ある日、僕の前に見知らぬ人が現れた。聞いたこともない言葉でペラペラと何かを喋っていて、僕は何事かわからずただ周りをきょろきょろと見ていたらしい。
僕はその時、父さんにこう言われた。
「仁、お前は目が見えたいか?」
その言葉にどんな意味が含まれていたかは、その時は知る由もなかった。ただ僕はすぐさま頷き『見えたい』と即答した。
それが、人生最大の起点で、人生最大の汚点だった。
父さんは『そうか……』と呟き、こう言った。
『仁、今お前の前にいるのはアメリカという国のお医者さんだ。お前の目を見えるようにしてくれると言っているんだ。来週、アメリカに行き、手術を受ける。そして……目が見えるようになるんだ』
父さんのその言葉は、どこか悲しげだった。
【過ち】
何故目が見える事が、障害じゃないのだろうか。どんな動物も目が見える、それは普通の事だ。だけど、僕が言いたいのは、人々は、目が見えるから何かが起こるのか、と言うことだ。
僕はそう考えながら、血の付いた包丁を洗い場で丁寧に洗い、タオルに包んでいた。鏡に映る僕の目は、虚無を映す目をしていた。
後ろを振り向く勇気も全くと言っていいほどない。何故なら、この後ろにあるものは僕の生み出した汚物であって、人でも何でもないからだ。
施設を出て、鍵を閉める。この先、僕はもっと過ちを犯すだろう。だけど、こうなったのは僕の目が見えるようになったからかもしれない。
目が見えるようになったのは、よかったのだろうか?僕は常々そう自問自答している。
そして、目が見えるようになってから出た答えは――
「……分からないよ、そんな事」