黒沢杏奈がデビューするまで(1)
翌朝、珍しく父、剛司の姿があった。
彩那はろくに挨拶もせず、
「ちょっと、お父さん。一体どういうつもりなの?」
強い調子で迫った。
爽やかな朝の食卓に、不穏な空気が流れた。
剛司はわざとのんびりした調子で新聞を畳んでから、
「そう熱くなるな。お前のせいで、ますます地球温暖化が進んでしまうだろう?」
「何、馬鹿なこと言っているのよ」
「アヤちゃん、おはよう。昨日は大変だったわね」
そこへゴミ出しを終えた母、梨穂子が顔を出した。
「ヒレカツ一枚じゃ、足りなかったか?」
剛司は目の前の漬物を一つ摘まんで口に放り込んだ。
「そういう問題じゃないでしょ」
彩那は肩を尖らせた。
「もっと娘の資質を知った上で仕事を選んでって言ってるの」
「でも、引き受けてくれたんだろう?」
父はコップに牛乳を注ぐと、娘の前に置いた。
「そりゃまあ、そうだけど。できることなら、今からでも瀬知さんと交代したいぐらいよ」
「いや、あの子は現場に出す訳にはいかん。あくまで、お前にダンスの指導をしてもらうだけだ」
「それだったら、せっちんは無理に参加しなくてもいいわよ。あの子とは、うまくやって行く自信がないわ。幼馴染みだっていうのに、私のこと完璧に無視しちゃってさ」
彩那がまくし立てると、夫婦二人は黙って顔を見合わせた。
「コーチなら、ほら、チャールズ中西さんがいるじゃない?」
「実はね、アヤちゃん」
梨穂子が神妙な顔をして言った。
「明日香さん、ちょっと前にお父様がお亡くなりになってね」
「えっ、そうなの?」
それは初耳だった。
「あの子、かなりショックを受けたみたい。それからお母さんにも心を閉ざしてしまってね。中学校では言動が荒れる一方で、今ではみんなから不良扱いされてるんだって」
確かに服装や言葉遣いは乱れていて、彩那の知る明日香とはまるで別人だった。
「それでね、彼女におとり捜査班の手伝いをさせれば、少しは責任感も生まれて、生活態度も変わるんじゃないかって考えたの」
彩那も実の母親が死んだ時、自暴自棄になったことがあった。それが原因で家に引き籠もり、仲良しだった明日香と遊ばなくなったのだが、今、彼女も当時の自分と同じ境遇でいるということか。
何だか急に明日香が気の毒に思えてきた。
「あの子は警察官だったお父さんが大好きだったのよ。今回、私たちを手伝うことになれば、少しは父親の仕事に接することができるでしょ。それをきっかけに気持ちを切り替えることができればいい。そうお父さんが考えたのよ」
「お父さんが?」
彩那は剛司の顔をまじまじと見た。
「おい、余計なことはいいから、早くメシ」
そう言うと、父は再び新聞を広げた。
「そういう訳だから、明日香さんと仲良くしてやってほしいのよ」
彩那には返す言葉がなかった。
兄妹は学校に向けて並んで歩いていた。
「俺には、あいつの気持ちが分かる」
突然、龍哉がつぶやいた。
彼も明日香と同じく、父親を亡くしている。同じ境遇を持つ者同士なのである。
「何と言うか、父親が自分の前から消えて、その絶望感を母親に分かってもらいたいんだろう。そうでもしなければ、一人で踏ん張っていられないんだ。父親の死がどれほど自分を変化させたのか、母親にアピールしているんだな。それで不良の真似をして、暴言を吐いたり、暴れたりしてるのさ」
彩那は言葉を挟まずに聞き役に徹した。
龍哉も手のつけられない不良だったと聞いている。再婚後、新しい父親、剛司と殴り合いの喧嘩をしているのを実際目にしている。
「残されたのが母親だから、そういうことをするんだろうな、きっと」
「どういうこと?」
「もし母親の方が死んでいたら、父親にそういうアピールはしないだろうってことさ。つまり男親だと、逆に叱りつけられて終わりだからな」
彩那は二人とは違って、母親の方を亡くしている。確かに自分の悲しみを父親にアピールしようとは考えなかった。というより、父親が仕事優先で、娘をほったらかしにしているという倉沢家の特異性があるからなのだが。
彩那が黙りこんでいると、
「ああ、すまん。別にお前の境遇について、あれこれ言っている訳じゃないからな。誤解しないでくれ」
と慌てて言った。
「とにかく今、瀬知は父親の愛情がなくなって寂しいんだろう。少しでも彼女の力になってやれるといいのだが」
兄はそう締めくくった。
少し前を奏絵が歩いていた。背中を丸めて、ずっとうつむいたままである。歩くスピードもやけに遅い。
「おはよう」
あっという間に追いついて声を掛けると、彼女はイヤホンを外した。
一方の手にはスマートフォン、そしてもう一方の手には小さな手帳が握られている。
「さっきから何やってたの?」
「例のマイティー・ファイター。私も第1話から見始めたの」
「へえ。やはり何か犯人の意図が隠されていると思うわけ?」
「まだ分からないわ。だけど指定してきた以上、何かあるでしょ」
横から龍哉が、
「何話まで見たんだ?」
「まだ第3話の途中です」
「でも、筑間。それって苦痛じゃないか? 興味もない子ども向けヒーローものを見るのは?」
「いいえ。彩那が慣れないことに挑戦しているんだから、このくらい何でもないです」
爽やかな秋の風が、彼女の長い髪をもて遊んだ。
「やっぱり持つべきものは、兄貴より友だちよねえ」
放課後、部活には顔を出さず、捜査班の3人は瀬知明日香を中学校まで迎えにいった。
果たして彼女はフィオナの依頼を引き受けてくれるだろうか。明日香の境遇を知ってからは、ぜひ一緒に仕事をしたいと彩那は思っていた。
交差点を曲がると、校門のところに一人佇む女子が目に飛び込んできた。セーラー服の腕をまくって、だらしない格好で柱にもたれ掛かっている。昨日とまるで変わらぬ不良少女の姿がそこにあった。
この時間、校門から吐き出される中学生の数は多かったが、みな一様に明日香を避けていく。おかげで彼女の周りだけ、ぽっかりと妙な空間が生まれていた。
昨日の様子からすると、彼女は彩那に協力してくれないのではないかという気持ちがどこかにあった。もしもの時は校内に踏み込んで、無理矢理連れて行くことも考えていただけにやや拍子抜けだった。
それほどに、明日香とともに仕事をすることは義務のように思えてならなかったのである。
彩那はそっと近づいた。
「せっちん、今日もよろしくね」
弾んだ声を掛けると、明日香は無言のまま、ちらりと横目で応えた。
それから小さい声を出した。
「アラセブの公式ページ見ましたか?」
「えっ?」
彩那には一瞬何のことか分からなかった。
「昨日撮った写真が載っているんです」
明日香は自分のスマートフォンを操作して、ぶっきらぼうに突き出した。
「どれどれ?」
高校生3人は人目もはばかることなく、後輩を取り囲んだ。画面にはアラセブの公式サイトが映っている。すかさずメンバー紹介のページを見せてくれた。
新人という肩書きで写真が載っていた。
「おいおい、これは一体誰なんだ?」
龍哉の驚いた声。
「本当、あごの辺りがすっきりして、目も少し大きくなってる」
奏絵も続く。
「まるで別人」
明日香が抑揚なく言った。
「もう、みんなして言いたい放題ね」
「でも、これだけ可愛く写っていれば、人気も出るんじゃないかしら」
奏絵は目を輝かせた。
「いや、こいつをアイドルにするのが目的じゃないからな」
「そ、そうでしたね」
「でも、これってハードル上げすぎじゃない? 顔写真は修正できても、下手なダンスは修正できないんだから」
「確かにお前の言う通り。とにかく練習あるのみだ」