ダンススタジオへようこそ(1)
ダンススタジオの駐車場は、雑多な車で溢れかえっていた。高級外車やマイクロバス、トラックやテレビ中継車と、一般人が日頃目にしない車が所狭しと並んでいる。早くもスタジオの外から独特の雰囲気が漂ってきた。
目指す建物は白いモダンな造りで、幾何学模様の窓がアクセントになっている。玄関には、華やかな衣装を身にまとった女性が激しく出入りしていた。制服姿の学生はどこか場違いであるような気がした。
「アラセブのみんなもここにいるの?」
「いいえ。メンバーとは金曜日にテレビ局で合流します。今日は振付師からダンスについて説明を受けなさい。そして明日から瀬知さんの指導の下、基本的な動きができるよう練習するのです」
いよいよ逃げられない状況になってきた。足取りはますます重かった。
「杏奈とマネージャーは眼鏡を装着しなさい」
おとり捜査員は、特殊眼鏡を支給されている。装着すると、両端に取り付けられた小型カメラを通して現場の映像が指令室に送られる。これにより指令長は捜査員と視界の共有ができ、適切な指示を出すことが可能になる。
さっきまでは非協力的に見えた明日香も、ここまで来るとすっかり落ち着いていた。顔には出さないが、芸能人が出入りするダンススタジオには大いに興味があるようだ。
全員が車から降りて、建物の玄関へと向かった。
入り口付近に若い警備員が一人立っている。
突然、指令長の鋭い声が耳を刺した。
「3人はそこで止まりなさい」
指令が聞こえていない明日香に対し、杏奈が腕を掴んで無理矢理停止させた。
「いきなり何するんだよ」
後輩は息巻いたが、
「しー」
杏奈はフィオナの指示を待った。
「玄関脇にいる警備員をよく見なさい」
「はい?」
言われた通りに目を向けると、レンズの端に赤いマークが点灯してカメラのシャッターが下りた。指令長が遠隔操作をしたのだ。
「菅原、あの男に職質(職務質問)をかけなさい」
「了解」
長身の刑事が駆け足で警備員に近づいていった。3人の学生はその様子を遠くから見守ることになった。
「杏奈たちはその場で待機。いいですか、絶対に動かないこと。これは命令です。分かってますね?」
「分かっているわよ、フィオ」
刑事が声を掛けた瞬間、警備員は脱兎のごとく駆け出した。菅原もすかさず身を翻して後を追う。
「止まりなさい!」
張り上げた声に、周囲にいた人たちが何事かと一斉に振り返った。
警備員はこちらに向かってくる。彼の進路は簡単に予測できた。杏奈は素知らぬ顔で二、三歩踏み出すと、タイミングよく足を絡ませた。
男はバランスを崩して、アスファルトの上に大袈裟に転がった。
素早く駆け寄った菅原は、手を差しのべて男を立たせた。手錠は打たなかった。
「フィオナさん、やはり偽物の警備員でした。どうやら関係者を装ってスタジオに入ろうとした熱狂的なファンだと思われます」
「今近くの交番から警官を向かわせています。5分で到着しますから、そちらに引き渡しなさい。一応事情聴取をしてもらいます」
「了解」
「さあ、杏奈たちは中へ入りなさい。二階のCスタジオです」
指令長は何事もなかったように落ち着いていた。
一方、明日香は突然の捕り物を目の当たりにして、恐怖のあまり、足が地に張り付いてしまっていた。
「せっちん、行くわよ」
杏奈は明日香の手を引いてから、
「ねえ、フィオ。どうして彼が偽物だと分かったの?」
「警備員としては服装に違和感があったからです。ズボンの丈が合っていません。いかにも今日初めて着たような様子でした。あの着こなしでは何か事件が起きても、速く走ることができません」
「へえ、結構細かい所を見てるのね」
3人は玄関を抜けて、階段を上がった。
「ところで、杏奈。先程は命令違反をしましたね」
フィオナの声が急に変わった。
「何のこと?」
「足を出して、引っ掛けたでしょ?」
「バレたか。あれは、菅原さんが追いつけるようにと思ってやったのよ」
「それが余計だと言うのです。あなたが助けなくても、菅原は身柄を確保できています」
「でも、アラセブを狙っている犯人かもしれないのよ」
杏奈は食い下がった。
「その可能性はありません」
指令長はきっぱりと言った。
「どうして?」
「考えてもみなさい。黒沢杏奈はまだデビュー前なのです。あなたがアラセブに加入する新メンバーだと、どうして分かるのですか?」
「あっ、そうか。言われてみればそうね」
「菅原は穏便に事を運ぼうとしたのです。それなのに、あなたが余計なことをするから台無しです。被疑者にもしものことがあったらどうするのです」
「ごめんなさい」
杏奈は素直に謝ってから、急に心配になってきた。
「あの人、怪我してないかしら? ちょっと様子を見てこようかな」
「その必要はありませんよ。足に軽い擦り傷を負った程度ですので」
菅原刑事の声。
「よかった」
「とにかく、あなたは私の指示に従いなさい。今度、従わなかったら、今月のお小遣いはなしです」
「そんな小学生じゃあるまいし」
「小学生みたいなことをしておいて、何を言っているのですか」
「ちょっと待って。まさかそれ本気で言ってるの?」
指令長はそれには応えず、
「梨穂子、それでいいですね?」
「は、はい」
突然振られて母親は声を詰まらせた。
「ちょっと、お母さん。即決しないでよ、もう」
Cスタジオのドアを開くと、目の前には果てしない空間が広がっていた。杏奈は思わず感嘆の声を上げた。しかしよく見れば、鏡の中に映った虚像が無限の奥行きを作り出しているに過ぎなかった。いわゆる目の錯覚というやつである。
一方、瀬知明日香はダンス教室に通っていたせいか、特に驚いてはいなかった。それでもプロが使用するスタジオには興味津々といった表情を浮かべている。
「せっちんも、こういった場所で踊ってたの?」
杏奈は明るく声を掛けてみたが、彼女は無言を貫いていた。昔の友情関係もすっかり忘れてしまったようである。
奥の部屋からレオタードの男性が現れた。小柄な彼は、アラセブ専属の振付師、チャールズ中西と名乗った。
全員が簡単に挨拶を交わした後で、
「黒沢さん。その格好では練習になりませんから、どうぞこれを着てください」
と衣装を渡された。フィットネスのトレーニングウェアである。
一人楽屋に入って着替えをした。レギンスを穿くと、全身が真っ黒になった。胸元にピンク色で「AR17」のロゴが入っている。練習着とはいえ、おしゃれな衣装だった。
楽屋から出てきた妹の姿に、龍哉は目を見張った。背が高くスリムな体型にウェアがぴったり張り付いて、女性らしさを際立たせていたからである。
「お前、柔道着だけじゃなく、そういうのも意外と似合うんだな」
「うるさいわね。私の柔道着姿なんて見たことないくせに」
「杏奈、マネージャーと喧嘩しない」
明日香も不良娘とはいえ、やはり女の子である。羨ましそうにアイドルを舐めるように見ている。
「ちょっと、彩那じゃなくて、杏奈。鏡の前に立って、しっかり見せて」
奏絵も興奮気味に入ってきた。
「すごく可愛いわよ。一流のダンサーって感じ」
「あのねえ、衣装ひとつで一流になれるのなら、苦労はないわ」
「では、まずはアイソレーションからやってみましょう」
中西が正面に立った。
「何ですか、それは?」
「身体の独立運動のことです。手や足、首や肩などを単独で動かすのです。ちょっと見ていてください」
彼はそう言って身体の各部位をそれぞれロボットのように動かした。
「わあー、凄い」
杏奈は思わず手を叩いた。龍哉と明日香は離れた場所から、その様子をじっと見守っている。
「では、私の真似をして、やってみてください。いいですか」
「ワン、ツー、スリー、フォー」
掛け声からして、二人の息はまったく合わなかった。
「あのー、黒沢さんでしたっけ。ダンスの経験は?」
「まったくありません」
「でしょうね」
中西は無遠慮に言った。
「デビューはいつでしたっけ?」
「二日後です」
振付師はダイナミックに転んで見せた。そんな仕草もパフォーマンスのようで様になっている。
「二年後の間違いじゃないんですか?」
さすがに業界人は手厳しい。
「そこを何とかお願いします」
アイドル候補生は手を合わせて頭を下げた。
中西は腰に手を当てて、一つ大きなため息をついてから、部屋の隅にあった移動式の大型モニターを引っぱり出してきた。
「金曜日の生放送では、これだけの動きが要求されますよ」
アラセブのメンバーたちが曲に合わせて踊っているPVが流れた。正面、後方とカメラが縦横無尽に移動して、一糸乱れぬダンスを映している。
目指すゴールは果てしなく遠い。
杏奈が茫然と立ちすくんでいると、明日香は何を思ったか、部屋の隅で黙々とセーラー服を脱ぎ始めた。あっという間に学校の体操着へと変身した。
そしてモニターの前に立つと、音楽に合わせて身体を動かし始めた。最初は映像に少し遅れをとっていたが、それも次第にシンクロし始めた。曲の途中からは、まるでアラセブの一員になったかのような見事なパフォーマンスを披露した。
それには龍哉も目を丸くした。
「せっちん、凄い」
音楽が終わると、杏奈は手が痛くなるほど拍手をした。
明日香は肩で息をしながら、これまでにない自信と誇りに満ちた表情を浮かべている。
「こう言っては何ですが、そちらがデビューした方が早いですよ」
とチャールズ中西。
「私もそう思っているのですが……」
杏奈が恨めしそうに言うと、
「それはダメです」
すぐにフィオナが遮った。これは明日香には聞こえていない。
「おとりはあくまで黒沢杏奈です。瀬知さんは現場には出せません」
「そりゃ、そうよね。やっぱり私の役目よね」
もう覚悟を決めた。
「中西さん、完璧にはできなくても、あと二日で何とか形にして見せます。ですからご指導をお願いします」
「分かりました。あなたがそこまで言うのなら、協力しましょう」
彼も渋々承知してくれた。
音楽に合わせて、一つひとつの動きを確認していく。
「黒沢さん、身体の動きがぎこちないです。もっとこう、流れるようにスムーズにやってみてください」
そう言われても、思うように身体が動かない。
見るに見かねて、明日香が背後から覆い被さるように、アイドルの手足を動かしてくれた。
「せっちん、ありがとう」
そんな補助のおかげもあって、どうにか手足の動きは真似できるようになってきた。しかし身体がしなやかに動かせないので、ぎこちなさは残ったままである。
「では、もう一度ビデオに合わせて、最初から通してみましょう」
曲に合わせて、杏奈と明日香のシューズの音がいつまでもスタジオ内に響いていた。