杏奈のそれから
救急車は夜の病院に滑り込んだ。日頃は静かなこの場所も、今夜はまるで違った様相を呈していた。事件を聞きつけたマスコミが押し寄せていたからである。
明日香を乗せたストレッチャーが下ろされると一斉にフラッシュが焚かれた。それでも救急隊員は動じることなく、取材陣たちを掻き分けて正面玄関から中へと入った。彩那も上着の襟を立てて、俯いたまま後に続いた。
「これから検査をしますので、それまで待合室でお待ちください」
「分かりました」
明日香は彩那の顔を見ると安心したのか、ぐっすりと眠っていた。数日間監禁されていたせいで衰弱はしていたが、若い彼女のことだ、命に別状はないだろう。
廊下の窓からも病院を取り囲む報道陣の姿が見えた。大きな投光器に照らされて、外は真昼のように明るかった。生中継をするレポーターの背中が並んでいる。
「フィオ、病院はすごいことになっているわ」
「絶対マスコミに捕まってはいけませんよ」
「はい」
そこへ奏絵の声が入ってきた。
「今テレビは、どのチャンネルも別荘火災のニュースで持ちきりよ」
「何て伝えてるの?」
「生放送中に火事が起こったけれど、そこに居たアラセブのメンバーは全員無事ですって。それと放火容疑で、楠木かえでが逮捕されたって」
「彼女の動機については公表を控えます。社会に与える影響が大きいと判断されましたので」
フィオナによれば、それは警察上層部の決定らしい。
「ねえ、他のみんなも、この病院に運ばれたの?」
「はい。矢口邦明や須崎多香美も収容されています」
「じゃあ、ちょっと二人に会っておこうかしら」
「それがいいですね」
フィオナは優しく言った。
彩那は矢口の居場所を看護師に聞いた。
病室のドアをノックして開くと、
「黒沢さん!」
それは普段通りの声だった。転落した際に意識を失っていたので肝をつぶしたが、どうやら無事だったらしい。
矢口はベッドからすっかり身体を起こしていた。
「あなたって、警察の方だったのですね」
目を丸くして言う。
「ごめんなさい。ずっと黙っていて」
「いえいえ。色々とありましたけど、思えば黒沢さんと一緒に仕事ができてよかったですよ」
「私も矢口さんには随分と助けられました。ありがとうございました」
「もうお別れですか?」
「はい、残念ですが」
矢口は黙って何かを考えているようだった。
「田舎に帰られるのでしたね?」
「実は正直ちょっと迷っています。あなたのようなアイドルにまたいつか会えるかもしれないと思いまして」
彩那は目を輝かせた。
「それなら、もう少し続けてみてはいかがですか?」
「では、そうしますか。今後、芸能界がどのように変わっていくのか、この目で確かめるのも面白いかもしれません」
「そうですよ。これからも私たち視聴者を楽しませてくださいよ」
「分かりました。黒沢さんもお体に気をつけて」
二人は握手を交わした。
彩那が背を向けてドアノブに手を掛けたところで、
「アイドル黒沢杏奈と出会えたことは、僕の一番の宝物ですよ」
矢口はひときわ大きな声で言った。
その後、須崎多香美の病室に向かった。ノックしても返事がないので、ゆっくりとドアを開くと、彼女は呼吸器をつけてベッドに横たわっていた。
静かに近づくと、白い頬には涙を流した跡がくっきりと残っていた。
火災に巻き込まれて一時は安否を心配したが、こちらも大丈夫そうである。
「さようなら」
そう小さくつぶやいて病室を後にしようとすると、突然腕を捕まれた。
彩那は驚きのあまり、声が出せなかった。
「黒沢さん!」
呼吸器を剥がして、いつもの迫力のある声が部屋に響いた。
「それ、外しても大丈夫なの?」
多香美はそれには応えず、
「あなたって一体?」
「実はね、警視庁から派遣されてきた捜査員だったの」
どうやら彼女は別荘での暴露話を聞いていないようだった。
「まさか」
「本当よ。メンバーを守るために無理矢理入れてもらったの。みんなダンスが上手過ぎよ。散々足を引っ張ってごめんなさいね」
彼女はどう反応してよいのか戸惑った表情だった。それでもアラセブのリーダーとしての威厳は何とか保とうとしていた。
「私のこと、助けてくれたそうね。刑事さんから聞いたわ」
「うん、でもその前に乱暴してごめんなさい」
「覚悟はしていたけど、あなたっていつも本気で迫ってくるのね」
「それでも、かなり手加減したのよ」
「いや、滅茶苦茶に痛かったわ」
少しの間があってから、二人は笑った。
「これから、アラセブはどうなると思う?」
さすがはリーダー、それが一番気になる問題なのであろう。
「私には分からないけど、大丈夫よ。あなたならどんなグループでもやっていけるわ。何ならソロデビューだってできるじゃない」
「ありがとう」
それは自尊心をくすぐったのか、多香美は満更でもない表情を浮かべた。
「黒沢さんはどうするの?」
「今日からは、あなたのファンになるわ。デビューした頃を思い出して、いつまでも純粋な気持ちを忘れないで」
「痛いところを突くわね。でも何だかずっと夢を見ていた気がするの。ちょっと自分を見つめ直したい感じ」
彩那は黙って握手を求めた。
「今日でお別れ?」
「そうよ。仕事とはいえ、アラセブの一員になって、みんなと踊ったことは一生忘れない」
「芸能界に残るつもりはないの?」
「それはないわよ」
彩那は声に出して笑った。
「実はあなたのことを、心のどこかで羨ましく思っていたのかもしれないわ。何の束縛もなく自由に生きていたから」
それには何も応えなかった。
「それにしても惜しいわ。粗忽で乱暴なアイドルという、新しいジャンルを築いたのにね」
多香美は軽口を叩いた。
「それって、最早アイドルって言わないし」
二人は笑い合って握手を交わした。
「黒アン、本当にありがとう。お元気で」
「タカビー、あなたもね」
病室を出ると、不思議と涙が滲んだ。色々な人と出会い、そして様々な出来事があった二週間だった。これは一生忘れることのない経験だったと思う。
「彩那、どうかしましたか?」
フィオナの声。
さすがは指令長、捜査員の心の中までお見通しのようだ。
「あっ、そうだ。フィオ、今日の得点を発表してよ。事件を解決したのだから、絶対200点ぐらいにはなるよね?」
わざとおどけて言った。
「実はその件ですが、今夜はお疲れのようですから、また今度にしませんか?」
珍しく採点者の歯切れは悪かった。
「それ、どういうこと? まさかこんなに活躍したのに、減点なんて言うんじゃないでしょうね」
「色々とありまして、結果マイナス20点になります」
驚愕の事実に彩那には言葉もなかった。
「フィオナさん、その内訳は?」
奏絵が代わりに訊いてくれた。
「本来、特殊眼鏡を失った段階で、捜査員の安全が確保できないため、指令は出してはいけないことになっています」
「でも、あの場合は仕方ないでしょ。みんなに危険が迫っているのだから」
「確かにそうですが、採点にはルールというものがありまして」
ここで彩那は違和感を抱いた。
「ん? 指令を出してはいけないって、それ誰の減点なの?」
「実は、私の減点が50、そして彩那の減点が50になります」
フィオナは暴露した。
「どうして、フィオのミスまで私が背負わされるのよ」
「まあ、痛み分けというやつですね」
「あのねえ。あれ、ちょっと待って。それなら併せて零点じゃないの?」
彩那はようやく気がついた。
「あとは梨穂子の減点が20ですね」
「お母さんが? 何かしたっけ?」
「回線を通して、個人的な感情を容疑者にぶちまけたからです」
「確かに合計マイナス20点だわ」
「これって、また最低点を更新してない?」
奏絵の冷静なコメント。
彩那には最早、絶望しか残されていなかった。
放課後の体育館に演劇部員が集結していた。明日から始まる学園祭の最終チェックである。
倉沢彩那にとっては久しぶりの部活動である。よって誰よりも張り切っていた。
「ストップ、ストップ」
部長、神城みゆきの声が体育館に響いた。
「倉沢さん!」
相変わらずの名指しである。部員の視線が集中する。
「倉沢さんのダンスはみんなと合ってないの。動きが速すぎて、誰もついていけないじゃない」
「すみません。次は気をつけます」
「それじゃあ、10分間休憩」
すかさず村の長老が迫ってきた。
「彩那、お前は極端過ぎるんだよ。これまで馬鹿にされたからって、俺たちを置いていかなくてもいいだろう」
「別にそんなつもりはないんだけど」
村の娘Aも傍にやって来た。
「妖精の宿る木だけ、踊りが攻撃的なの。切れがよすぎて何か主張してるみたい」
「ただの木に主張なんてある訳ないでしょ」
背後から白い衣装の勇者が、
「お前は、主役を差し置いて目立ちすぎなんだよ」
「何よ、みんなで寄ってたかって」
部活を終えて、同級生4人は帰路についていた。
「あーあ、何だか心の拠り所がなくなってしまった気分だよ」
小柴内正幸が大きく伸びをして言った。
「どうかしたのか?」
龍哉が訊く。
「どういうわけか、アラセブが電撃解散しちまってさ」
「そうだったのか」
「あの黒沢杏奈が加入してからというもの、アラセブはどこかおかしくなってしまったんだよ」
「そんな訳ないでしょ」
彩那が即座に否定した。
「どうしてお前がむきになるんだよ?」
熱烈なファンは眉をひそめた。
龍哉はすかさず彩那の背中をつねった。
「突然生放送も中止になって、マイティなんとかっていうヒーロー戦隊が急遽再放送されて、しかも別荘が火事になっただろ。まるで意味が分からないよ。テレビ局もだんまりを決め込んでいるし。あいつのせいで、アラセブは解散に追い込まれたんじゃないかって言われているんだ。一部のファンからは、閉鎖人杏奈って揶揄されているほどだ」
「今回はあんまりうまくないな」
元マネージャーは正直な感想を述べた。
(やっとこちらの味方をしてくれたわね)
小柴内の話はまだ続いている。
「黒沢杏奈ってのは一体何だったんだろうな。公式サイトも閉鎖されたから、何の情報も残っていないんだ。俺の熱い眼差しに耐えきれず、恥ずかしそうに目を伏せたあの子は幻だったのか。あー、今はどこでどうしているのやら。もう一生会えない運命なんだろうな」
ファンはがっくりと肩を落とした。
奏絵は小柴内の視界の外でずっと笑いを堪えていた。
「黒沢杏奈はいつまでもお前の心の中に生き続けるさ」
と龍哉。
「そうだな。お前、いいこと言うな。これを機に、また別のアイドルを探すことにするよ」
あっけらかんとした友人の言葉に、彩那は胸を撫で下ろした。
小柴内が商店街に消えると、3人はその足で中学校に向かった。
校門にはすっかり元気になった瀬知明日香が待っていた。髪は短くして、セーラー服をきちんと着こなしている。
先輩たちを目にして、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「明日香ちゃん、すっかり元気になったわね」
奏絵はそう言うと、ハイタッチを交わした。
自然と倉沢兄妹も笑顔になる。
「私も、みんなと同じ高校に行けたらいいなと思ってます」
明日香が突然言った。
「瀬知なら大丈夫。何とかなるだろ」
龍哉がすぐに応えた。
「それに龍哉のことが好きなら、勉強教えてもらえばいいじゃない?」
彩那が意地悪そうに言うと、
「別に私は…」
と顔を真っ赤にした。
「あっそう、それならよかった。だって、奏絵も狙っているみたいだから」
「ちょっと、変なこと言わないで」
今度は友人が黙って下を向く番だった。
「それ本当なのですか、先輩?」
明日香は、奏絵の慌てた様子を楽しんでいるようだった。
「でも、せっちんって昔と全然変わらないわね。何考えているか手に取るように分かっちゃうもの」
「では、この場所で再会した時、私が最初に何を思ったか分かりますか?」
明日香が訊いた。
「ああ、なんて懐かしい。おやまあ、アヤがますます可愛くなってるわ、とかでしょ?」
「全然違います。私の少女漫画『ぼくのアイドル』第4巻借りっぱなしで、まだ返してもらってないってことです」
そういえば、昔、明日香に借りて夢中になって読んだ本があった。
「あれ、返してなかったっけ?」
「本棚の一カ所が、ぽっかり穴になっているので間違いありません」
「ごめんね、帰ったらすぐ探してみる」
「延滞料もお忘れなく」
「嘘でしょう?」
二人は天を仰いで笑った。
そこには5年前と同じ夕焼けが広がっていた。
完




