無数の星空の下、一つ星が消えた
杏奈が窓枠に足を掛けると、菅原刑事が手を差し伸べてくれた。そして屋根伝いに延焼していない壁へと導いてくれた。
すぐ目の前に、はしご車のアームが届いていた。楠木かえでが消防隊員とともにバスケットに収まって降りていくところだった。
一刻を争う消火活動が続けられている。火元からは離れているが、何度も水しぶきを顔に浴びた。
「お怪我はないですか?」
菅原が耳元で大きな声を上げた。
「はい。それよりも瀬知さんや多香美さん、それから八幡麻美子さんは無事ですか?」
騒音に負けじと声を張り上げた。
多香美は出火した部屋に居たので煙を吸った可能性がある。そしてメンバーの八幡麻美子は足に負傷していた。
そこへフィオナの声が戻ってきた。
「メンバー全員の安否は確認済です。八幡麻美子はすでに病院へ搬送されました」
「よかった」
安心した途端、へなへなと足から崩れ落ちた。
「杏奈さん!」
すぐに菅原が抱き止めてくれる。
「フィオ、一人きりで本当に怖かったのよ。途中から何も言ってくれないし」
涙声になって指令長に抗議した。
「眼鏡が破壊されて視界が共有できない以上、仕方ありませんでした。下手に指示を出せば、状況を悪化させるかもしれません。杏奈を信じるしかなかったのです」
「そりゃそうかもしれないけど」
「でも、大仕事をやり遂げてくれましたね。お疲れさまでした」
珍しくフィオナの優しい言葉を聞いた。
「杏奈、私もずっと応援してたよ。一人でよく頑張ったわね」
奏絵の声も続く。
「ありがとう」
「私も監禁されて、お役に立てず申し訳ありませんでした。手錠で拘束されながらも、暗闇の中犯人を追い詰めましたね。やはり杏奈さんは立派な捜査員です」
スタッフを人質にとられて、思うように動けなかった刑事が一番不甲斐なく感じたことだろう。彼には同情の気持ちで一杯であった。
再びアームが戻ってきた。消防士が手招きをしている。
「さあ、杏奈さんの番ですよ」
菅原は支えていた腕を離してくれた。一礼してバスケットに乗り込んだ。はしご車から見る別荘は所々が炎に包まれ、原形を留めていなかった。
そんな中、無事に地上に降り立った。しかし足元がおぼつかなかった。この別荘を暗闇の中、一人で戦い抜いたことが信じられなかった。何度も涙がこぼれ落ちた。
真っ先に駆け寄ってきたのは、龍哉だった。
何も言わずに、強い力で抱きしめた。
「無事だったか、よかった」
「ちょっと、何よ」
心の準備ができていなかった。異性とこれほど身体を密着させたのは初めてだった。しばらくして恥ずかしさが全身を駆け巡った。
「心配したんだぞ」
「大丈夫だから、もういいってば」
全身が熱くなった。同時に、上半身は下着一枚だったことに今気がついた。
龍哉も何を思ったか、弾けるように身体を離した。
「お前、何て格好しているんだよ」
照れを隠すかのように大袈裟に言う。
「だって仕方ないでしょ。怪我人が出て、シャツを破いて手当したんだから」
杏奈は顔を真っ赤にしながら、口を尖らせた。
龍哉は自分の上着を妹に着せながら、
「しかしなあ、一応アイドルなんだから世間の目は気にしろよ」
「もうその必要はないでしょ。ここでアイドルは卒業だから」
「それもそうだな」
無数に輝く星空の下、二人は笑い合った。
突然カメラのフラッシュが襲った。
「黒沢さん、ご無事でしたか」
振り向くと、雑誌記者、真木貴弘が傍に立っていた。
「これまで外山を追いかけていた甲斐がありましたよ。あいつはいつか何かしでかすのではないかと睨んでましたのでね」
倉沢兄妹にはまるで興味のない話だった。
「これからあの男の悪事を暴いてみせますよ。実はあいつとは高校の同級生でした。以前、アラセブで成功したあいつは自らを勝者と呼び、俺のことを敗者と言って笑いました。しかしこの先は私が勝者になれそうです」
満更でもない調子で言った。
「人生に勝ったも敗けたもありませんよ。その時その時を精一杯生きるだけです。私はアイドルにはなれなかったけど、みんなの命を救うことができました。今はそれでとても満足です」
記者はそれを黙って聞いていた。
「お前、たまにはいいこと言うよな」
隣で龍哉が言った。
「あっ、そうだ。矢口さんはどうなった?」
谷底に落ちた車の中、目をつぶったままの男性の顔が思い出された。
「一番先に病院に運ばれたよ。命に別状はないとのことだ」
「よかった」
自動車事故からそれほど時間は経っていないのに、何だか遠い昔のことのように思える。
それから二人は肩を並べて、炎に包まれた別荘の一部が崩れていくのを見ていた。
消防士らの決死の消火活動により、ようやく鎮火することに成功したが、別荘は一階部分を残して灰になってしまった。
消火作業のため設置された大型投光器の光の中に、肩を寄せ合って丸くなっている女子連中を見つけた。アラセブのメンバーたちである。
杏奈は駆け出した。
「みんな、大丈夫だった?」
その声にメンバー全員が一斉に顔を上げた。
「黒アン!」
真っ先に立ち上がったのは羽島唯である。いきなり杏奈の身体を抱きしめた。
「ごめんね。私ちっとも知らなかったの。あなたが私たちを守ってくれていたなんて」
背後には泣きじゃくる児島華琳の姿もあった。
それを見てメンバーたちも各々泣き出した。こうしてみると、テレビやコンサートでは堂々としている彼女たちも、年端もいかない女の子に過ぎないのだ。
「黒アン、酷いこと言ってごめんなさい」
「あなたが居なかったら、私たちどうなっていたか分からないわ」
アイドルたちは口々に言う。
「私こそ、ダンスでみんなに迷惑掛けてごめんね」
すぐ隣にはスタッフが集まっていた。誰もが燃えさかる別荘を見つめている。中にはその様子を一部始終撮影するカメラマンもいた。
遠くが騒がしいので目を向けると、外山荘二朗が何やらスタッフにわめき散らしていた。どうやらマイティー・ファイターが放送されていることを聞かされて怒り心頭の様子である。
杏奈はそんな駄々をこねる子どものような振る舞いを見ながら、
「そういえば、マイティー・ファイターの再放送がよく実現したわね。フィオがテレビ局を説得したの?」
回線に呼び掛けた。
「いいえ、私ではありません」
「じゃあ、誰が?」
「倉沢課長ですよ」
「えっ、お父さんが?」
それには心底驚いた。
「もしこのまま生放送をすれば、アラセブの若い女の子たちが殺し合う映像を全国民が目撃することになる。これまで多くの芸能人が長年築き上げてきた世界が一瞬で崩壊することになると警察庁長官に直談判したのです」
杏奈には言葉もなかった。
「ある意味、お父様は影の功労者なのですよ」
「そんな大袈裟な」
「それに梨穂子は自殺するつもりだった楠木かえでの説得に成功しました。意固地になっていた彼女の心を解きほぐしたのです」
「お父さんもお母さんも、これだけフィオに褒められるなんて珍しいわね」
杏奈が軽口を叩くと、
「お前にだけは言われたくない」
「アヤちゃん、ひどい」
と二人が同時に割り込んできた。
外山が杏奈の存在に気づいたのか、肩を怒らせて近づいてきた。
「おい、さっきはびっくりしたぞ。俺に刃物を押しつけやがって」
「何言っているのよ。刃先に手錠の鎖を巻き付けていたから問題ないわよ」
「それが外れたら一体どうするんだ?」
外山の怒りは収まらない。
彼には若きスタントマンの死を悼む気はまるでないようだった。それが腹立たしく感じられた。
「杏奈、止めなさい。外山も傷害と未成年者略取の容疑が固まり次第、逮捕します。アラセブのプロデューサーではいられなくなると思いますから」
フィオナが言った。
「黒沢杏奈さんはいますか?」
遠くで男性の呼ぶ声がした。
「はい、私です」
弾かれるように名乗りを上げた。
「あちらの救急車まで来てください」
白衣を着た隊員だった。
救急車が一台停まっていた。慌てて駆け寄った。
「黒沢杏奈さんですね。ずっと探していたのですよ。早く乗ってください」
訊けば、明日香がぜひ会いたいと言って聞かなかったらしい。
中を覗き込むと彼女はベッドに横たわっていた。
「せっちん、大丈夫?」
明日香は気がつくと、
「ごめんなさい。私……」
「何も言わなくていいよ。せっちんの活躍を、亡くなったお父さんはきっと見ていてくれたから」
明日香の目には涙が溢れていた。
「本当はアヤのこと、ずっと懐かしく思っていた。いい子になるから、また前のように遊んでくれる?」
「当ったり前じゃない。その言葉を待っていたのよ」
明日香は涙を拭った。
「そのままついて行ってあげなさい」
フィオナの優しい声が入ってきた。
「了解」
救急車の扉が閉められると、ひときわ大きなサイレンが闇を切り裂いた。




