ペンダント、リターンズ(3)
地下鉄の揺れる車内で、彩那は先程から視線が向けられていることに気がついた。さりげなく龍哉の脇腹を肘で突いた。
若い女性二人組である。どこか背伸びをして派手に着飾ったその服装は中学生といった様相だった。
「ねえ、場所を変えた方がよくない?」
龍哉に囁いた瞬間、一人が真っ直ぐ近づいてきた。堂々と彩那の正面に立って、顔をじっと見つめた。
その風貌たるや、危険人物には見えなかったが、嫌な予感を抱いた。
「あのー、すみません。ひょっとして黒沢杏奈ですか?」
(呼び捨てかい!)
「いいえ、違いますよ」
彩那はわざと仏頂面をして返した。
それでもその子は友人を手招きした。
「ホント、黒アンじゃん」
もう一人も声を上げた。
「違うんです。よく間違えられるんですよね、須崎多香美に」
「えー、まさかあ」
「全然似てないし」
ちょうど列車が駅に差し掛かった。照明が等間隔に窓の外を流れ始める。
事の次第によっては、この駅で降りようかとも考えたが、その必要はなかった。
ドアが開くと、二人は背中を向けて出ていった。最後にもう一度振り返って、彩那の顔を見ると笑い合った。
すぐにドアが閉まると、列車は再び走り始めた。
「あー、危なかった」
天井を見上げて息を吐くと、
「お前、アドリブが上手くなったな」
と龍哉が横から言った。
「踊りの方は相変わらずだが」
「あんたはいつも、一言多いのよ」
握手会の会場は、近代的デザインのビルの一フロアである。控室に入ると、すでにメンバーの何人かは舞台衣装に着替えて出番を待っていた。
「おはようございます」
杏奈はメンバーと顔を合わせる度に声を掛けたが、昨日と同じく挨拶を返す者は一人もいなかった。
開場時間の前からファンが並び始めていることを運営に聞かされた。握手会での注意事項を全員で確認してから配置についた。
黒沢杏奈の姿になってから、奏絵を呼び出した。
「ねえねえ、今日は小柴内は来ないよね?」
それが唯一の心配事であった。
「分からないわ。今、消防署の人と管理人さんが現場検証に来ていて、マンションから出られないのよ」
「ああ、そうなの」
「私のレーンには並ぶ人が少ないから、何かあったら逃げ場がないのよね」
杏奈は不安を口にした。
「いや、今日はそうでもなさそうだ」
隣でマネージャーが言った。
開場すると、ファンたちが黒沢杏奈に向かって流れ始めた。メンバーの誰よりも長蛇の列ができている。
これには、杏奈自身が驚くことになった。
リーダー須崎多香美と人気を二分する状態である。いや、むしろ多香美よりも待ち人数が多いようであった。
「これ、どういうこと?」
「昨夜、自宅が放火された同情票か?」
龍哉が首を傾げると、
「いえ、放火事件については、まだ公表していません」
とフィオナが返した。
「それじゃ、これは……」
次から次へとファンの手が差し出される。ただの握手と思って高をくくっていたが、数十人と連続で交わしていると、本当に腕が痺れてきた。
「ダンス、頑張ってください」
「応援してます」
「これからも悪い奴らをやっつけてくださいね」
様々な声が寄せられた。
杏奈は腕の鈍痛に耐えながら、笑顔を絶やさず応じた。
「どうして、黒沢杏奈のグッズは売ってないの?」
小学生の女の子に訊かれた。
「どうしてでしょうね?」
(そんなの誰も買わないからでしょ)
「ぜひ、うちの近所の暴力団も一掃してくれないか」
中年男性が頭を下げた。
(あのねえ、そういうのは警察に言ってよ)
「あんた、今度警察の一日署長やってはどうかね?」
78歳の元警察官と名乗るおじいさんが言う。
(これ以上、警察の片棒担ぎたくないって)
それでも杏奈は両手を差し伸べて、心を込めて握手した。
ファンは次々と温かい声を掛けてくれるのだが、そんな彼らの期待を裏切っているようで申し訳ない気がしてきた。
しかし目の回るような忙しさで、そんなことばかりも考えてはいられない。ファンたちを順に処理するので精一杯だった。
「おい、今ファンが列を作っているのは、うちだけだぞ」
隣のマネージャーが隣でつぶやいた。
そうは言っても、ファンへの応対で周りを気にしている暇はない。しかし隣にちらっと目を遣ると、確かに羽島唯のレーンには誰も並んでいなかった。
「おい、何だかヤバそうなのが来たぞ」
しばらくして、マネージャーが教えてくれた。
「小柴内でも来たの?」
小声で返すと、
「いいや、もっとヤバい連中だ」
と言った。
列の後方で揉めている一団が目に入った。どうやら運営のスタッフと押し問答をしているようだ。
周りのファンも異常に距離を取って、彼らには関わらないようにしているのが明らかだった。
「一体、何があったのかしら?」
「俺がちょっと見てくる」
龍哉はフットワークも軽く、持ち場を離れた。
その間にも杏奈は次々と押し寄せる人々に笑顔を振りまいた。
気がつくと、先ほどの押し問答はすっかりなくなっていた。妙な連中は無事に排除されたのだろうか。
相方が戻ってきた。
「お前にお客さんが来ているぞ」
「誰なの?」
「ぜひ会いたいんだってさ」
先程の一団が目の前に迫っていた。何やら異様な雰囲気を漂わせている。ファンたちはのけぞるように露骨に避けていた。
そんなグループを代表するかのように、先頭には若い女性が立っていた。人一倍派手な出で立ちで、眼光の鋭い人物だった。
杏奈の目の前に立つと、
「あんた、本当にアイドルだったんだね」
と意外そうな声を上げた。
後ろに控える数人の男連中の顔を見て、全てを悟った。忘れる筈がない。コンビニの駐車場でやり合った不良たちである。
どうしてこんな所にやって来たのか、自然と身構えた。
「まあまあ、そんなに怖がるなよ」
目の前の女が言った。
彩那が恐る恐る手を差し出すと、
「今日はこれを返しに来たんだ」
と、ポケットから装飾品を取り出した。
「これって……」
「あんたの友だちのだろ?」
紛れもなく、奏絵のペンダントである。一体どういうことだろうか。
「ファンからの差し入れはお断りしています」
少し離れた場所から運営スタッフが飛び出してきた。
女はそれをじろりと睨んでから、
「悪かったね。私も女の端くれだから、友だちの気持ちが分かるよ」
杏奈が黙っていると、
「私の彼氏に代わって謝るよ」
ようやく事情が飲み込めた。
しかし後方に控える男たちの中に、彼氏らしき人物は見当たらない。
「こちらこそ、ごめんなさい。あんな乱暴なことをしてしまって」
「いや、いいんだ。あいつとはもう別れたから」
「えっ、そうなんですか?」
「無抵抗の女に手を出す奴は許せないんでね」
「でも、何だか申し訳ないです。何だか私のせいで」
「おかげであいつの本性が分かったから、これで良かったんだよ」
女は初めて薄ら笑いを浮かべた。
「でも、あんた、度胸あるね。尊敬するよ」
「ううん、あの後指令長…… いや、お母さんにこっぴどく叱られて。みなさんに謝らないといけないって思ってたの」
「話はそれだけさ。それじゃ、これからも頑張れよ」
「は、はい。ありがとうございます」
彼女は手も出さず、そのまま去っていった。
残された男たちが目の前にやって来た。こちらは一人ひとり握手を求めた。
何か復讐されるのではないかと警戒したが、みな好意的だった。
「俺たちもリーダーとは別れたので」
「黒沢さん、応援してます」
「からかってすみませんでした」
と次々に言った。
「こちらこそ、すみませんでした」
杏奈は頭を下げた。
一団が視界から消え去ると、すぐ奏絵に呼び掛けた。
「ねえ、ペンダントが戻ってきたよ」
興奮を抑え切れずに言うと、
「うん、全部見てた」
友人は嬉しそうに答えた。




