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筑間奏絵、かじで大慌て(5)

 アイドルとマネージャーが帰途についたという連絡を受けて、奏絵は夕飯の仕上げに取り掛かった。二人にはなるべく温かいものを食べさせてあげようと考えていたのである。

 風呂の準備を頼んでおいた明日香が戻ってきた。

「先輩、何だか焦げ臭くないですか?」

 奏絵は、その声に反応して周囲を確認した。しかし目の前のガスコンロは、クリームシチューを余熱で保温しているだけで、火は使っていない。

 近所で火事でも起きたのだろうか。

 奏絵は胸騒ぎを覚えた。今すぐ行動を起こさなければ取り返しのつかないことになる。そんな虫の知らせに、直ちに動き出した。

「明日香ちゃん、家の中に異状がないか確認して」

「はい」

 それから奏絵は、狭い廊下を突進して玄関に向かった。ドアを開けると、いつもと違う雰囲気を感じ取った。廊下の空気がほのかに温かいのだ。

 見ると、風呂場の窓付近から煙がもうもうと立ち上っていた。

 火事である。

 奏絵は自分を落ち着かせるために、一度大きく深呼吸すると直ぐさま室内に戻った。明日香を呼ぶ。

「先輩、浴室が燃えてます」

 明日香はむせながら、目の前に飛び出してきた。

「119番に電話して」

「はい」

 奏絵は台所に戻って、シンクの水道を目一杯に開いた。それからベランダに干してあったバスタオルを数枚引きちぎって戻った。

「先輩、ここの住所は?」

 奥で明日香が叫ぶ。

「ええっと」

 奏絵もすぐには出てこなかった。

「通信指令室の倉沢梨穂子につないでもらって」

「はい」

 突然、火災報知器が鳴り出した。

 その音に急かされるように、バスタオルをシンクの水に浸すと、大量の水を含ませたまま胸元で受け止めて、浴室へ急いだ。

 半開きになった浴室のドアからは黄色の炎がこちらを窺っていた。まるで人間をあざ笑うかのように、舌なめずりする竜のようだった。

 奏絵は意を決して、ドアを全開にすると、一枚の濡れタオルで口を覆い、もう一枚のタオルを盾にして中に入った。

 出火場所は浴槽の中である。もともと火の気のない場所である。誰かが格子窓の隙間から火の付いた何かを投げ入れたのだと直感した。

 タオルを熱源に被せて火の勢いを弱めておいてから、その隙にシャワーを最大にして、冷水をぶっかけた。

 すうっと火の勢いが弱まっていく。何とか消火できたのだと確信した。

 室内には有毒な煙が充満していた。それを霧散させるべく、ベランダの窓を開けに行くと、すでに全開になっていた。明日香が開けたのだろう。

 彼女は気を利かせてそうしたのだろうが、閉鎖空間の火災では不用意に窓やドアを開けて、空気を取り込むのは危険である。今回は浴室という密閉された場所だったので事なきを得たが、一般的に燃えさかる炎に酸素を供給するような行為は慎まなければならない。

「明日香ちゃん?」

 人の気配がしないのを不思議に思い、奏絵は部屋の中で何度か呼び掛けた。

 しかし返事はない。どこへ行ってしまったのだろうか。鎮火したので、火事に巻き込まれる危険はなかったが、不安だけが募った。

 もう一度共用の廊下に出てみたが、彼女の姿はなかった。あるのは集まってきた住人たちである。階段には多くの顔が鈴なりになっていた。

 消防車のサイレンが聞こえてきた。みるみるうちに近づいてくる。ちょうどマンションの真下で停車した。

「道を空けてください」

 大声を上げて消防士二人が駆けつけた。装備品のついた防火服がカシャカシャと音を立てた。

 奏絵は鎮火したこと、そして誰かに放火された可能性があることを話した。それを一人が聞き、もう一人が無線で連絡した。

 消防士らは室内に入ると、浴室の状況を調べ始めた。

 奏絵も立ち会っていると、台所に置いてあった捜査班のスマホが鳴っているのに気がついた。いつから呼び出していたのだろう、慌ただしくてすっかり忘れていた。

「はい、筑間です」

「現状を報告しなさい」

「奏絵、大丈夫?」

 指令長フィオナと彩那の声が同時に聞こえた。

「マンションの浴室から出火しましたが、何とか消し止めました」

「瀬知さんもそこに居ましたね。二人とも怪我はありませんか?」

「火災による怪我はありませんが、今、明日香さんの姿が見えません」

「まさか、誰かにさらわれたなんてことないよね?」

 彩那の言葉が、奏絵の不安を増幅させた。

「瀬知さんはまだ中学生です。奏絵はしっかり見守っていなさい」

「はい、すみません」

「フィオ、そうは言うけどね。いきなり家が火事になったら、誰だってパニックになるでしょ」

「それは言い訳に過ぎません。今後は気をつけなさい」

 指令長はあくまで厳しい態度を崩さなかった。

「はい」

 と奏絵は素直に答えたが、

「ちっ」

 彩那は小さく声を上げた。

「何か、言いましたか?」

「いいえ、何も言ってません。ただの雑音です」

 玄関に人の気配を感じたので向かうと、明日香の姿があった。

「今、明日香ちゃんが帰ってきました」

 すかさず報告を入れた。

「怪我はない?」

 奏絵が優しく訊くと、

「はい、大丈夫です」

 平然とした顔で答えた。

「どこへ行ってたの?」

「窓を開けた時、道路で誰かがこちらをじっと見ていたようだったので、追い掛けました。途中で逃げられましたけど」

「顔は見たの?」

「いいえ、暗いし遠かったので分かりませんでした」

 そのやりとりを黙って聞いておいてから、

「犯人と出くわしたら大変だから、セッチンは何もしなくていいよ」

「彩那の言う通りです。これからはスマホをちゃんと携帯して、私の指示に従って行動してください」

「分かりました」

 明日香も神妙な顔つきで答えた。

 その後、消防士から様々な尋問を受けていると、彩那と龍哉が帰ってきた。

「二人とも大丈夫だったか?」

 開口一番、龍哉が言った。ここまで駆けてきたのか、息が上がっていた。

 奏絵と明日香は肩を並べて、無事な姿を見せた。

「これって放火ってことよね?」

 彩那も声を枯らして訊いた。

「うん、たぶんそうだと思う」

「もう腹が立つわね。黒沢杏奈本人がいないところを狙うなんて」

 それには龍哉が冷静に反応した。

「しかし、どこか妙な案配だな。アラセブのメンバーを狙うと表明している犯人が、まったく関係ない二人を狙うとは」

「だから、それは人の気配を感じて、私たち二人がいると勘違いしたんでしょ」

 彩那は決めつけるように言った。

「でも、犯人はこれまで用意周到にメンバーを襲ってきたのよ。今回だけそんな初歩的なミスを犯すかしら」

 奏絵は納得のいかない顔をした。

 それにはフィオナが、

「果たしてこれが予告通りの襲撃なのかどうかは分かりませんが、もしそうなら標的は児島華琳に移ったことになります」

「でも、私には一連の犯行とは異質な気がしてなりません」

 奏絵は自らの意見を主張した。

「確かにそうですね。彩那が警察関係者ということを知っていて、あえて警告止まりにしたのかもしれません」

 フィオナも同意した。

 菅原刑事も駆けつけた。全員の安全を確認してから、浴室で消防士らと現場検証に加わった。

 消防士の意見では、鍵の掛かっていない浴室の窓から、火の付いた可燃物を投げ入れたということだった。灯油のにおいが残っていることから、簡易的な火炎瓶のような物ではないかと指摘した。

「明日香さんはベランダから不審な人物を見たのですね?」

 菅原はセーラー服の中学生に顔を向けた。

「ですが、犯人かどうか確信はありません」

 明日香は目を合わせずに答えた。まだ奏絵以外には心を開いていない様子である。

「その人物の特徴は分かりませんか? 男か女か、体型は痩せ型か肥満型か、あるいは何か手に持っていた物があるか、とか」

 いかにも刑事らしい質問だった。

「いいえ、暗くて何も見せませんでした。下の道路からこちらを見上げていただけです」

「それで、下に降りてみたのですね」

「はい」

「お気持ちは分かりますが、単独行動は非常に危険です。必ずフィオナさんに指示を仰いでから行動してください」

 菅原はきっぱりと言った。

 明日香はそれには返事をせずにうつむいた。

「まあまあ、今回はみんな無事だったのだから、良しとしましょう」

 彩那が明るい声で重苦しい雰囲気を一掃した。

「あっ、クリームシチューが水浸しになってる」

 大声を上げて、台所を行ったり来たりしたのは奏絵である。

「そうそう、今日のお風呂はどうなるの?」

 彩那が思いついて訊くと、

「現場保持のため、今夜は使えません。よって、警視庁のお風呂を使いなさい」

「何、それ。そんなのあるの?」

「当直用に大浴場が完備されています。後ほど梨穂子に迎えにいってもらいます」

「そりゃ、面白そうだな」

 龍哉は興味深そうに言ったが、彩那は気が進まなかった。

「両親の職場のお風呂だなんて、変に緊張して疲れが取れないじゃないの」

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