筑間奏絵、かじで大慌て(2)
杏奈は舞台の隅まで移動すると、これまで使用してきたイヤーモニターを龍哉にさりげなく渡した。
「ねえ、フィオ。どうしてこんなことするの?」
新品のイヤーモニターを袋から取り出して訊くと、
「しばらく、こちらに話し掛けないように」
と厳しい口調で諭された。
「はあ」
この一連の儀式には、一体どんな意味があるというのか。それを訊こうにも、指令長から発言権を奪われてしまった。
菅原刑事が颯爽と現れて、龍哉から問題の機器を受け取った。それから静かに会場を出ていった。
「必要があれば、こちらから一方的に話しますので、杏奈は反応せず黙って聞いてなさい」
「分かりました」
いよいよ、ミニコンサートが始まった。
驚いたことに、会場の一部から杏奈コールが起こっていた。はじめは非難を浴びせる怒号かと思ったが、よくよく聞いてみるとファンの温かい声援であった。
杏奈は舞台の上で不思議な感覚にとらわれていた。踊りのパフォーマンスは最低だが、それでも自分を認めてくれる人がいることに気づかされたからである。
その一方で、須崎多香美をはじめとした他のメンバーは顔を歪めていた。新人でしかも能力の劣る人物が、ベテランを押しのけて人気を獲得することは到底許されるものではないのだろう。
杏奈は、メンバーとの間に広がる深い溝を感じながらも、最後列で一生懸命踊るしかなかった。
新曲を披露した後は、トークショーが待っていた。リーダーの多香美が中心となって、主要メンバーとの掛け合いが繰り広げられる。
杏奈は一番後ろの隅っこで、その進行を静かに見守っていた。観客の前で身体を動かさなくて済むので、随分と気が楽である。おそらくファンの目には、緊張もなく自然体で居られる黒沢杏奈が映っていたことであろう。
トークショーが終了して幕が下ろされると、アンコールの大合唱が始まった。その声は次第に大きくなって、会場を揺らすほどに膨れ上がった。
舞台では、その雰囲気に酔いしれたメンバーたちが多香美を中心に円陣を組んだ。しかし杏奈だけは輪の中に入ってはいけなかった。
「さあ、みんな。もう一曲行くわよ」
リーダーの掛け声で全員が雄叫びを上げた。すぐに円陣を解いて、各自が持ち場についた。
気づくと、すぐ目の前に多香美の顔があった。
「黒沢さん、あなたは下りて頂戴。これからデビュー曲を披露するの。あなたは知らないでしょ」
「でも……」
「踊りができないのに、舞台に居てもらっては困るのよ」
「そうよ、早くどきなさいよ」
「はっきり言って、邪魔なの」
方々から声が上がった。
そうは言っても、児島華琳の警護がある。持ち場を離れる訳にはいかないのだ。
見かねたフィオナから指示が出た。
「仕方ありません。舞台の袖に立ってなさい」
言われた通り、舞台を下りずに児島華琳の近くに立つと、
「本当に、あなたってずうずうしい人ね」
多香美が喉の奥から嫌悪の声を捻り出した。最前列のメンバーも、一斉に冷たい視線を向けた。
杏奈は口をギュッと結んだまま、その場を動かなかった。
幕が上がると、観客から大きな拍手で迎えられた。会場全体が喧騒で波打っている。
ファンは黒沢杏奈の姿がないことに気づいたのか、再び杏奈コールを始めた。
多香美はそんな声をねじ伏せるように、
「それではみなさん、私たちのデビュー曲をどうかお聞きください」
と言葉を覆い被せた。
杏奈の知らない楽曲が流れ始める。
すぐ目の前で、初めて見るダンスが繰り広げられていた。その動きは新曲ほど激しいものではない。この程度なら、練習さえ積めば何とかついて行けると思えたのは、成長した証しなのかもしれない。
歌と踊りがスポットライトの中に浮かんで見える。時折、舞台と客席交互に目を配ることは忘れなかった。この距離なら、たとえ暴漢が出現してもその対応は十分可能に思われた。
「杏奈、気にしちゃダメだよ」
黙って舞台を見ていると、奏絵が入ってきた。
「別に私は平気よ」
安心させようと即座に答えると、
「そちらからは話さないように」
と指令長がたしなめた。
「あっ、そうだったわね。すっかり忘れてた」
「でも、アラセブのメンバーも現金なものね。新人に人気が奪われそうになったら、急に手のひら返すようにしちゃって」
「奏絵も余計なことを言わない」
「はい、すみません」
無事にイベントが終了すると、メンバーたちは控室に集合した。明日の打ち合わせである。
プロデューサーの外山が顔を出すや否や、須崎多香美が彼の前に立ちはだかった。
「明日の握手会、黒沢さんは不参加にしてもらいたいです」
その声には威圧感があった。
「賛成」
他のメンバー数人が手を挙げた。
杏奈は少し離れた場所から黙って見守るしかなかった。
外山は困惑の表情を浮かべて、
「それはできない」
きっぱりと言い放った。
「どうしてですか?」
リーダーが迫った。
「確かに彼女には色々問題点もあるだろうが、アラセブの一員には違いないからだ。先程君たちも大声援を耳にしただろう。そんなファンの想いをないがしろにはできない」
それには多香美も反論しなかった。
「アラセブは一つのチームなんだ。個人を排除するのではなく、全体として仕事ができないものかね?」
外山は全員を見回した。
「分かりました」
多香美は渋々言うと、それ以上何も言わずに控室を出ていった。他の取り巻きも彼女に続いた。誰も杏奈とは目を合わせようとはしなかった。
羽島唯と児島華琳の二人は一度視線を向けたが、それでも逃げるように手をつないでその場を離れていった。
外山が近づいてきた。
「黒沢さん、明日も来てくれるだろう?」
「もちろんです。仕事ですので」
考えるまでもなく答えた。
プロデューサーは安堵の表情を浮かべると、
「よかった。君がいないと話にならないからな」
そう言い残して、慌ただしくその場を去った。
マネージャーが近づいてきて、タオルを渡してくれた。
彩那は、何か文句の一つでも言われるのではないかと身構えたのだが、無言だったので拍子抜けした。もしそれが気遣いであるなら、ありがたく感じた。
彩那と龍哉は会場を後にすると、タクシーで病院に向かった。意識が回復した矢口邦明と面会するためである。
受付で聞くと、以前とは別の病室に移ったとのことであった。それは彼の容体がよくなったことを意味していた。彩那は胸を撫で下ろした。
病室の扉をノックすると、すぐに返事があった。
開けると、ベッドには矢口邦明の姿があった。以前見た時よりも、明らかに顔がやつれて見えた。
彩那は駆け寄った。
「黒沢杏奈さん、マネージャーさん、お久しぶりです」
矢口の言葉は、はっきりしていた。
「まだ痛みはありますか?」
彩那が訊くと、
「ええ、後頭部に触れると少しズキズキします」
「あまり無茶しないでくださいね」
「お二人は手術の時、ずっと居てくれたそうですね」
矢口は目を細めた。
「はい」
「楠木かえでさんから聞きました」
彼女は足繁く矢口の見舞いに訪れていたのである。かえではその昔、スタジオ内の事故で友人を亡くした経験があり、彼のことが気掛かりだったのだろう。
「楠木かえでさんとは特別なご関係ですか?」
龍哉が訊いた。
「いいえ、特に深いお付き合いはありません。スタジオで顔を合わせたら、挨拶する程度のもので」
「それにしても事故が起きた時、彼女はあなたを助けようとしたではありませんか」
「ええ、刑事さんからそれを聞いて、私もビックリしましたよ。大女優からすれば、私のような単なる一スタッフのことなんてどうでもいい筈なのに」
どうやら矢口は、楠木かえでの過去の事件については知らないようだった。
「そうそう、僕は黒沢さんに言おうと思っていたことがあるのです」
思い出したように口を開いた。
「実は、あなたのイヤーモニターがどこか変だったのですよ」
「どういうことですか?」
彩那は、音声スタッフの矢口がそう思うのも無理はないと思った。なぜなら外山に頼んでこちらの声が入らないよう配線を切ってもらっていたからである。
「黒沢さんのマイクには、何らかの仕掛けがしてありました」
「えっ?」
思わず声を上げた。
「音声がスクランブル(暗号化)されていて、正しく拾えませんでした」
彩那は黙っていると、矢口はさらに説明してくれた。
「つまり、マイクに向かって何か喋っても、その内容までは聞き取れないということです」
外山から、回線を遮断したイヤーモニターを渡されたのである。それならば、そもそも音声は出力されていない筈である。
「外山さんにそのことを指摘したら、黒沢さんは新人なので歌に自信がないから、わざとマイク機能を殺してあるって答えでした。しかし、それなら何も聞こえない筈なんですよ」
「つまりスクランブルの掛かった音が出ていたということですか?」
龍哉が確認した。
「そうです。僕らには内容は分かりませんが、誰かがスクランブルを解除して聞いていたことになります」
「やはりそうでしたか」
フィオナの声。
「つまり杏奈の声は、これまでずっと外山に筒抜けになっていたのです」
指令長は断言した。
「まさか」
思わず声が出てしまったが、矢口は会話の反応と思い込んでいるようだった。
「外山は、捜査員の声をモニターすることで、こちらの捜査状況を探っていたのです」
なるほど、だから先程は疑惑のあるイヤーモニターを交換したのか、彩那はようやく全てを悟った。




