筑間奏絵、かじで大慌て(1)
翌日は都内のイベント広場で、ミニコンサートとトークショーが予定されていた。
朝、顔を洗って歯を磨いていると、フィオナから連絡が入った。
「彩那、起きてますか?」
まるで母親のように世話を焼く指令長に少々嫌気がさしたが、
「はい、とっくに起きてますよ」
と答えた。
「今朝は梨穂子が当直でそちらに行けませんので、私が代わりに声を掛けたのです」
「そりゃ、どうも」
龍哉が起き出してくると、奏絵が用意してくれた朝食を二人して食べた。
昨日の誕生日祝いと美味しい朝食が利いたのか、兄はすっかり機嫌を直していた。これも奏絵のおかげである。心から感謝した。
「ところで、昨日の採点ですが」
「えっ、朝っぱらからそれやるの?」
彩那は味噌汁の入ったお椀を手に持ったまま言った。
覚悟はできていた。
「アイドルとして、不良たちに立ち向かっていく動画は迫力満点でしたが、捜査員として目立ちすぎて、仕事をやりにくくしたので零点です」
「あちゃ、やっぱり出たか零点」
「ごめんね、彩那。私のせいで」
「いいのよ、別に」
「先週は百点で、今週は零点。えらく差が激しいな」
目の前で龍哉が言った。
なるほど、昨日は龍哉の誕生日だったので、その雰囲気を壊さぬよう、あえて得点発表をしなかったという訳か。指令長の気遣いには涙が出る。
「フィオナさん、アラセブの公式ページを見ましたが、人気投票の得点調整が行われたのですね」
奏絵が訊いた。
「はい。外山の許可を得て、真夜中に行いました。彩那の点数には手をつけず、他のメンバー全員の桁数を一つ増やしました。逆転不可能な差ができましたので、彩那が最前列になることは回避できました」
「私の得点も、そんな風に調整できたならなあ」
「どういう意味ですか?」
「いや、だから私の捜査員としての得点よ。バレないように毎回100点足すってのはどうかしら?」
「100点も増やすのかよ」
龍哉が箸を宙に浮かべて目を丸くした。
「それ、もはや調整じゃなくて、ねつ造じゃない?」
奏絵も指摘した。
「そういうのを世間では不正と言うのです。それから、このやり取りは全て録音されてますから、お忘れなく」
「あっ、しまった。そうだった」
彩那は急に冷や汗が出てきた。
「それで、今度はファンから何て呼ばれているわけ?」
気を取り直して訊いた。
「ネットでは、不良どもを血祭りにあげた、グロ沢杏奈って言われてる」
「なかなかうまいこと言うな」
龍哉がぼそっと言った。
「あんたはマネージャーでしょ。どっちの味方なのよ、まったく」
奏絵はさらに続けて、
「それから、昨日生放送に出演しなかったのは、傷害容疑で警察に捕まったからだという憶測が飛び交っているの」
「そんな訳ないでしょ、まったく」
「でも、悪の組織に一人立ち向かったヒーローとして、今回は好意的な意見も多いのよ」
「そこは、ヒロインでお願い」
「お前自身がマイティー・ファイターになってどうするんだよ」
そんな龍哉に軽く舌を出して応戦してから、
「フィオ、ところで例の不良たちはどうなったの?」
「所轄は取り逃がしてしまいましたが、少年課では彼らの何人かを把握しているとのことです。よって捕まるのも時間の問題でしょう」
「ふうん。とはいえ、奏絵のペンダントは戻ってこないだろうね」
それだけが残念だった。
「もう気にしてないから大丈夫よ」
奏絵は気丈に言ったが、彩那には不条理に思えて仕方なかった。
彩那と龍哉はマンションを出て地下鉄に乗った。土曜とあって車内は混んでいた。
そんな中、気になる視線があった。大学生風の男子連中が、彩那を見て何やら囁き合っているのだ。まさかアラセブのメンバーであることがバレたのではないかと肝を冷やした。昨日の派手な立ち回りは動画で拡散されているので、十分にあり得る話だった。とはいえ、龍哉の背中に隠れてうつむくしか防衛策はない。
「そうそう、朗報があります」
フィオナの声が入ってきた。
「先程、病院から連絡があって、矢口邦明の意識が戻ったそうです」
「よかった」
彩那は思わず声を出していた。
落下した照明器具が頭を直撃し、脳挫傷の手術を受けたスタッフである。一時はどうなることかと心配したが、助かって本当によかったと思う。そっと神に感謝した。
「今日仕事が終わったら、会いに行きなさい」
「もちろんよ」
彩那は声を弾ませた。
「フィオナさん、その件で報告があります」
菅原刑事の声。
「どうぞ」
「楠木かえでが、矢口の事故について照明器具が倒れたのを落下したと言った理由が分かりました」
それについてはすっかり忘れていた。単なる言い間違いではなかったのか。
「調べてみたら、彼女は若い頃、天井から外れた照明器具の落下事故で友人を亡くしていました。どうやらその時の恐怖が蘇ってきて、頭が混乱したのだと思います」
「なるほど、そうでしたか」
これで楠木かえでの嫌疑は晴れたと、彩那は安心した。
「その友人の名前は分かりますか?」
「はい。福原渚という脚本家です」
「どんな事故だったのですか?」
「今から20年ほど前、楠木が出演するドラマの脚本を手がけたことがあり、彼女は撮影スタジオに出入りしていました。そこで不運に見舞われたのです」
「それは事故なのですね」
フィオナが確認した。
「はい。調書を読みましたが、事件性はまったくありません」
「分かりました。福原渚について詳しく調べなさい」
「了解」
そう言うと、刑事は回線から出ていった。
「でも、それって単なる事故なんだから、今回の事件とは関係なくない?」
彩那が軽口を叩くと、
「それはこちらで判断します。あなたは自分の仕事だけを心配していなさい」
と返された。
それには憮然として沈黙していると、
「ほら、今だって気が緩んでいますよ。電車内で背後から襲われたら、対応できるのですか?」
「笠郷ローザも、登校中の満員電車で太ももに薬品を注射されたのよね」
奏絵が言う。
「でも、襲われそうな気配なんて、まるで感じられないんだけど」
彩那は辺りを見回して言った。
地下鉄を降りると、イベント会場は目と鼻の先であった。入口のすぐ横では、スタッフが数人がかりで巨大な黄色の風船を膨らませていた。その大きさからすると、完成すれば遠くからでも人目を惹くのは間違いない。
通路の両脇にはお洒落な屋台が所狭しと並んで、スタッフが慌ただしく行き交っていた。会場はお祭りムードに包まれていた。
そんな中、児島華琳の背中を見つけた。少し遅れて菅原刑事が後をつけている。
杏奈は長身の彼にそっと頭を下げて、駆け足で華琳の隣に並んだ。
「おはよう」
声を掛けたが、彼女は何も答えずに先を急いだ。
遠くで羽島唯が、腰に両手を当てて立っているのが見えた。近づくと、華琳の手を取って、強引に杏奈から引き離した。
「さあ、行きましょう」
二人は新人を無視するように足早に歩き出した。
唯が後ろを振り返って、
「あんたはついて来ないで」
と冷たく言い放った。
「ねえ、私が何か気に障ることをしたのなら、謝るわ」
と言ってみたが、
「あんたと一緒に居ると、仲間だと思われるでしょ。だからもう私たちに関わらないで頂戴」
そんな言葉を吐いて、二人はバックステージへと消え去った。
舞台衣装に着替えて、打ち合わせとリハーサルが行われた。その間、誰一人として杏奈に話し掛けてくる者はなかった。これまでにはない疎外感を味わうことになった。
休憩に入ったところで、フィオナから連絡があった。
「杏奈、今着けているイヤーモニターはいつものですか?」
「そうですけど」
この孤独と寂しさの中で、そんなどうでもいいことを訊いてくる指令長に少々苛立ちを感じて、自然ときつい口調になった。
「では、そのイヤーモニターが壊れたことにして、音声スタッフに新品を要求しなさい」
「何で?」
「いいから、言われた通りにしなさい。他人に見られないよう、スタッフには密かに接触するのですよ」
「分かったわよ」
周りに誰もいないことを確認した。
「今使っている物はスタッフに渡さず、菅原に預けなさい」
「はい」
何のことかさっぱり分からないまま、音声スタッフに申し出た。
スタッフはすぐに新しい物を用意してくれた。しかし故障した方は回収すると言うので、
「デビューした記念に頂けませんか」
と頼んだ。
「それなら、いいですよ」
とスタッフは気さくに答えてくれた。




