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ヒレカツ一枚の行方

 瀬知明日香には、一つ腑に落ちないことがあった。

 先週の土曜日、彩那たちがマンションに帰ってきて、奏絵と自分が用意した夕飯を一緒に食べた。

 実は食事を用意する際に、奏絵の目を盗んでヒレカツの一枚に尋常ならぬ量の辛子を練り込んでおいたのである。誰かがそれを口にすれば、たちまち楽しい夕食も台無しになるであろうと目論んでいたのだ。もちろん自分は一切口にしなかった。

 ヒレカツはみるみるうちに皿の上から消えていった。しかし誰一人悲鳴を上げる者はいなかった。

 夕食は無事に終わってしまった。あの辛子の入ったヒレカツは一体どこへ消えてしまったのか、今も謎である。

 明日香にはそれが忌々しかった。あの連中はお互いを信じ合っている。見ていてそれが悔しくて仕方がなかった。あの和んだ雰囲気をぶち壊してやりたかったのだ。

 ヒレカツはおそらく彩那が食べることになるだろうと予想していた。話によると、それは彼女の大好物だからである。彩那が貧乏くじを引けば、それはそれで面白いと思った。次の日、体調不良のまま舞台に立つことになれば、それも一興ではないかと思ったのだ。

 しかし彼女はもとより、誰の身にも何も起きなかった。大量に水を飲むとか、むせるとか一切なかった。まさかあれだけの辛子を我慢できたというのだろうか。

 そもそも私は本当に辛子を入れたのだろうか。何だかそれすらも怪しくなくなってきた。

 もしかしたら、奏絵が私に気づかれないよう、密かに辛子を洗い流したか、あるいはヒレカツそのものを捨てたのかもしれない。あの女は意外と勘がよい。たぶんその辺りが正解であるような気がした。


 放課後、中学校の校門で捜査員たち3人と合流した。先週のように、官舎の公園にてダンスの練習を行うためである。

 明日香は彼らと一緒に歩きながら、どうして自分はこの連中の手伝いをしているのかと何度も考えた。おとり捜査など、手伝う義理などないのだ。それでも何故かきっぱりと断れない自分がいた。

 恐らく心のどこかで恐怖を感じているのかもしれない。

 この連中との関係を絶てば、自分はまた独りぼっちに逆戻りしてしまう。これまで暗闇の部屋に閉じ込められていて、遠くの扉が少しだけ開いたのである。そこにはまばゆいばかりの光が漏れていた。もし彼らと別れたら、その一筋の光さえ失われてしまうことは明らかだった。

 ふと気がつくと、倉沢彩那が呼び掛けていた。

「ねえ、せっちん。ここは手が先なの、それとも足が先なの?」

「えっ?」

 一瞬何のことか分からず、明日香は固まった。それでも新人アイドルの言う意味はおおよその見当がついたので、

「そこは、わずかにステップが先です。その方が次のモーションに入りやすいから」

 と教えた。

「やっぱりそうでしょ? 毎回ここでワンテンポ遅れてたから、何だか引っ掛かってたのよね」

「お前は曲の最初からワンテンポずつ遅れてるんだから、今更細かい所はどうでもよくないか」

 龍哉が遠くから指摘した。

「何ですって。マネージャーは横から口を出さないでくれる? あんたのせいでテンションは下がる一方だから」

 いつもの喧嘩が始まった。そんな二人を等分に見て、筑間奏絵が笑っている。

 いつもの平和な光景である。明日香はその雰囲気の中に入っていけなかった。何故だろう。自分は彼らに何を求めているというのか。どう関わったらよいか分からないのだ。

 まだ日は落ちていなかったが、いきなり龍哉が、

「今日はここまでにしよう」

 と音楽を止めた。

 彩那が不満を漏らすと、この後小柴内正幸と会う約束があるという。

「お前たちは先に帰ってくれ」

「それじゃあ、今日のところはこれでおしまいにしましょう」

 新人アイドルはタオルで汗を拭いながら、

「せっちん、付き合ってくれて本当にありがとう」

 明日香に向かって頭を下げた。

「瀬知さんのおかげで黒沢杏奈も様になってきたと思うわ。私からもお礼を言うわ」

 奏絵は握手を求めてきた。

 しかし龍哉だけは明日香に向かって何も言わなかった。

 ただ妹に向かっては軽口を叩いた。

「目には見えないほどのわずかな成長だけどな」

「もう、あんたはさっさと小柴内のところに行きなさいよ」

 アイドルは怒りの声を上げた。

 そこで捜査員たちは解散となった。

 奏絵は晩ご飯の手伝いをすると言って、彩那と近所のスーパーへ買い出しに出かけた。

 明日香が一人官舎の階段を上がっていると、背後から呼ぶ声がした。

「瀬知、ちょっといいか?」

 振り返ると、数段下に龍哉の姿があった。

 それから身体を左右に倒して、明日香の横顔を確認した。

「何ですか?」

「ああ、すまん、すまん。回線をつないでないか見たのさ」

「私は普段参加してません」

 とは言うものの、彩那が現場に出ている時や一日の終わりには必ずスイッチを入れていた。

「ちょっと話があるんだけど、いいか?」

 どうやら捜査員たちに聞かれたくない話らしい。そのためにさっきは嘘をついて女二人を先に帰したということか。明日香はすぐに状況が飲み込めた。

 恐らくよい話ではないだろう。もっと捜査に協力しろと命じるつもりか。もし高圧的な態度に出たら、思いきり暴れてやろうと瞬時に考えた。

 二人はアパートの屋上に出た。4階建てのてっぺんからみる景色は大したものではない。汚い街が間近に見えるだけである。

 夕日はすでに沈んでいたが、山の端は茜色に染まっていた。昼間の熱気が残っていたが、時折吹く風が頬を撫でて気持ちよかった。

 二人は遠くの山々を望むように横に並んだ。お互い金網に向かって話す格好になった。

「あのヒレカツ、辛いってもんじゃなかったぞ」

 龍哉の言葉は優しかった。

 明日香はもっと激しく怒ってくれたらどんなにいいだろうと思った。そうか、誰かに叱ってもらいたいのか、今ようやく気がついた。

 誰もがみな、自分を腫れ物のように避けて、当たり障りのないことを言う。それが嫌だった。

「何のことですか?」

 明日香はとぼけた。

「土曜日に食べた、あのヒレカツだよ。今朝まで喉がヒリヒリしてたぞ」

 そう言って喉を掻きむしる仕草を見せた。

「あれって、もちろん彩那を狙ったんだろ? 俺はお前に恨まれる筋合いはないし」

 明日香はそれには答えなかった。

「でも、あいつに当たってたら、次の日寝込んで、握手会どころじゃなかったかもしれんな」

 龍哉は笑った。

「ここはやっぱりマネージャーの俺が、あいつに代わって犠牲となるのは致し方のないことだろうな」

 金網に向かって喋り続けた。

「どうしてすぐに吐き出さなかったのですか? 私に文句の一つでも言えばよかったじゃないですか」

「筑間が俺たちのために一生懸命用意してくれた食事を台無しにして喜ぶと思うか? それに彩那だって、下手とはいえ、一生懸命慣れない仕事をして帰ってきたんだ。余計な心配を掛けたくはないだろう」

「彩那先輩には話したのですか?」

「何を?」

「激辛ヒレカツのことです」

「いや。言ったら、またアイツが心配するだろ」

「何を心配するのです?」

「お前のことさ」

 正直意味が分からなかった。

「どうしてですか? 私がやったって言えばいいじゃないですか」

 明日香は自然と涙声になった。龍哉は黙っていた。

「私は怒られて当然なのに、いつまで待っても誰も何も言ってくれない。みんなにこにこしながら美味しい美味しいって夕食を食べてました。私はどんな気持ちでいたか分かりますか?」

「あいつは単純な性格だから、一緒に仕事をすることで、お前とはいつか寄りを戻せる気でいるんだよ。お前が昔の明日香に戻ってくれると信じているんだ」

 明日香は黙って聞いていた。

「あいつが真実を知ったら、相当落ち込むと思う。お前との溝がまるで埋まってないのだからな。そんなことになれば、仕事中も気になって、思わぬヘマをやらかすかもしれない。まあ、いつもヘマばかりだけどな。

 はっきり言って、俺は昔のお前を知らない。だから俺には何の感情の起伏もない。しかし彩那は違う。幼馴染みのお前の存在は、あいつの心を大きく揺り動かしているんだよ」

「それで私にどうしろと?」

 明日香は挑戦的な眼差しを向けた。

「いや、特に何もする必要はない。今日お前にこんな話をして、今のお前を変えてくれなんて、これっぽっちも思っていない。お前の好きなようにすればいいさ。

 さっきも言ったように、俺もそして筑間も、そして他の捜査員たちも、お前の昔を知らない。だから意見なんて何もないんだ。ただ彩那だけが戸惑っているけどな。

 あいつも早くに母親を亡くして、一人引き籠もっていた時期があって、それが原因でお前と疎遠になった。だからお前の今の気持ちはよく分かっているだろうし、お前の力になれなかったことに責任を感じているのかもしれん。

 あとはお前の人生だ。どうするかは自分で決めればいいさ。正解はないと思う。別に彩那と仲良くしてくれと頼んでいる訳じゃない。どんな態度であろうと、あいつは受け止めてくれる筈だ。だから文句でも恨みでも何だっていい、あいつに話し掛けてやってくれ」

 それから二人はしばらく何も言わずに立っていた。

 夕刻の空に大きな雲がいくつも流れていった。

「俺はそろそろ帰るぞ。お前も風邪をひかないように帰れよ」

 そういって龍哉は金網から離れた。

 明日香は動かなかった。

 彼は振り返って、

「どうだ、今晩彩那と一緒に飯食わないか?」

 と訊いた。

「いいえ」

 嗚咽しながら、何とかそれだけ捻り出した。

「そうか」

 龍哉は表情を変えることはなかった。彼の足音が明日香の耳にいつまでも響いていた。

 今度、彩那に話し掛けてみよう、そう心に決めた。

 そうだ、何かきっかけさえあれば素直になれる気がした。そうすればまた昔の関係に戻ることができるのではないだろうか。

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