ホップ・ステップ・ジャンプ(5)
ちょうどその頃、都心のマンションの一室では、奏絵と明日香が夕飯の準備に追われていた。
玄関のチャイムが鳴ったので鍵を開けると、そこには彩那の父、剛司が立っていた。
奏絵は何度か顔を合わせているので、挨拶もそこそこに明日香を呼んだ。
「明日香さん、初めまして。捜査班の課長、倉沢剛司と申します。この度は我々の仕事を手伝って頂き、本当に感謝しております」
警察礼式で頭を下げた。
明日香は何も言わずに軽く会釈した。
「彩那たちはもう帰ってますか?」
父親は玄関から奥の部屋を覗き込んだ。
「いいえ、それがまだなんです。さっき連絡があって、横浜で列車の架線事故があってダイヤが乱れているそうです。だから東京駅に着くのは遅くなるって」
奏絵は手をタオルで拭いながら答えた。
「そうですか」
「そうそう、これは差し入れです」
そう言うと、父親はビニール袋を差し出した。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、二人の炊事洗濯を引き受けてくれて助かってます」
「いえいえ、このくらいのことしかできませんので」
剛司は優しく微笑んだ。
「もうすぐ二人は帰ってくると思いますから、どうぞ上がってお待ちください。お茶でも入れましょう」
「いいえ、お構いなく。ちょっと近くに用事があって、ついでに寄っただけですから」
「そうですか」
「それでは、仕事に戻らなければなりませんので。この辺で」
剛司は一礼して出ていった。
彩那と龍哉が帰ってきたのは夜の8時を過ぎていた。
「ただいま」
すっかり食事の用意はできていて、奏絵と明日香が箸もつけずに待っていた。
彩那は、二人と久しぶりに会うような気がした。それだけ内心、孤独を感じていたのかもしれない。
「もう、帰ってくるの遅いよ」
友人は開口一番そう言った。
「だって仕方ないじゃない。事故だったんだから」
「あのね、彩那のお父さんが来てたのよ」
「えっ、どうしてまた?」
「多分、娘のことが心配だったんじゃない」
「まさかあ」
彩那は正直信じられなかった。
「私たちも心配したわよ。舞台からジャンプしたんだってね。怪我しなかった?」
「全然、平気」
彩那は両手を広げて、アラセブの振り付けをやって見せた。
「ダンスするより、ジャンプする方が断然楽ね」
奏絵と明日香は思わず笑った。
「そうそう、これを頂いたのよ」
彩那は早速ビニールの中を漁った。
「これって梅屋のみたらし団子じゃない。私の大好物」
「後で頂きましょ」
「それはそうと、お父さん一体何の用だったのかしら?」
そうつぶやいた瞬間、回線から父親の声が聞こえた。
「別にお前の身体は心配してない。そんなことより、お前が減点される度にフィオナの仕事が増えるんだぞ」
「どういうこと?」
「別に何でもありませんよ」
フィオナが声を被せた。
構わず父親は続ける。
「減点があると、指令長はその状況報告と改善策を書いて提出せねばならんのだ」
「えっ、そうだったの?」
「だからお前と組むと、毎回始末書の山ができるんだよ」
それは知らなかった。
「おかげで大量に反省文を書くあまり、日本語の謝罪がプロレベルにまで達してしまったんだぞ」
「課長、その辺で」
フィオナが割り込んできた。
(謝罪のプロって、何なのよ?)
遅い夕食は、4人の捜査員が一緒に食べることになった。
食卓には彩那の大好物、ヒレカツをメインにした料理が並んだ。
テレビに昨夜の生放送を映しながら話に花が咲いた。そのほとんどは彩那の苦労話である。明日香も芸能界の話を興味深く聞いていた。
食事が終わると、奏絵がコーヒーを淹れてくれた。
「明日の握手会でようやく一息つけるわね」
アラセブの活動は週末にまとめて行われるので、明後日からは普通の学校生活に戻ることができる。
「そうそう、明日はみんなで焼き肉するのよ」
奏絵の予告に彩那は眉をひそめて、
「そんなお金、どこから出てくるの?」
それにはフィオナが答える。
「実は、テレビ局からギャラが出ています」
「へえ、知らなかった。これって一日いくら貰えるの?」
フィオナが金額を口にすると、みんなは驚いた。
「えー、私の月給よりも多い」
梨穂子が思わず声を上げた。
「警視庁サイドは、ギャラを断ったのですが、プロデューサーは労働基準法に基づいて出演料は支払わなければならないと言って聞かないのです」
「よかったわね、彩那」
奏絵は声を弾ませた。
「監査部に問い合わせたところ、おとり捜査時間中でも、黒沢杏奈は事務所に属さない、個人事業主として働くことになるので、確定申告が必要になります」
「何、それ?」
彩那の質問には答えず、
「マネージャーは交通費などの領収書を保管していますよね」
フィオナが念を押した。
「はい、指示された通りに取ってあります」
「確定申告ではそれらの経費は控除の対象となりますので、大事に保管すること」
「分かりました」
「なおギャラはすべて彩那が受け取りますが、未成年のため、梨穂子が代理として申告書を作成しなければなりません。経理部に必要書類を提出して、証明印を貰ってきなさい。担当は鈴村次官です」
「ええっ、鈴村さん? あの人厳しいのよね。大丈夫かしら?」
「そんなに怖い人なの?」
彩那が訊いた。
「私が警察学校時代、教官だった方。私、運動が苦手だったから、いつも叱られてばかりいたのよ」
「そうだったの? その話、もっと詳しく聞かせてくれない?」
「みんなが聞いているから恥ずかしいわ。今度、アヤちゃんだけにしてあげる」
「とにかく、明日にでも行きなさい。話は通しておきますから」
「はい」
梨穂子は覚悟を決めたようだった。
奏絵と明日香の二人は食事の後片付けが終わると、早々にマンションを後にした。それは新人アイドルが疲れていることを考えての気遣いだった。
彩那は自分の部屋で一人になると、ふと思い出した。
「奏絵、ミニコンサートの件はどう報道されているの?」
「今のところ、傷害罪で男が捕まったという報道はないわ」
「何もなかったことにするつもりね。それでファンは何か言ってる?」
「それについては、もう何も言わないでおくわ」
「どういう意味よ、それ」
「SNS上では、コンサート会場に居た人たちの書き込みが相次いでいるわね」
「どうせ、非難の嵐なんでしょう?」
「まあね。新人のくせに目立ちたがりなんて書かれてる」
「もう、人の気苦労も知らないで」
彩那は大きくため息をついた。
「そうそう、例のアラセブの公式発表はどうなったの?」
「それはまだ上がっていません」
明日香が答えた。
「一部のファンからは、コンサートで自爆する、テロ沢杏奈って言われてます」
「なかなかうまいこと言うな」
龍哉が感心した。
「あんたはマネージャーでしょ。どっちの味方なのよ、まったく」
彩那がそろそろ寝ようとして、回線を切ろうとした時、
「フィオナさん、いいですか?」
菅原刑事が入ってきた。彼はこんな遅くまで仕事をしていたのである。頭が下がる思いだった。
「マイティー・ファイター12話の博士役、笹野達人の自殺の件ですが」
「はい、どうぞ」
「先程遺族に会ってきましたが、どうやら本人は役者として悩んでいたようです。彼は当時芸歴が長かったのですが、他の俳優がドラマで主役級のいい役をもらえるのに対し、自分は端役や悪役しかもらえないことを不満に思っていたようですね。特に二枚目の新人俳優が自分を超えていくことを不条理だと言って、ヒステリックになっていたという証言があります」
「なるほど。芸能界ならではの悩みという訳ですか」
フィオナが応じた。
「でも、笹野さんも、自分にしかできないことにもっと誇りを持つべきだわ」
と言ったのは梨穂子だった。
「どうぞ、続けてください」
「人は誰だってできること、できないことがあるのです。役者だって同じ。別に主役になれなくたって、他人には真似できない脇役に徹すればそれでいいと思うのです。それこそ、その人の魅力なのですから」
「梨穂子もいいこと言いますね」
「アヤちゃんには秘密にしてきたけど、お母さん運動が苦手でね。どうしても水泳ができなくて警察学校時代、特別訓練で苦労したの。みんなよりも体力が劣っていて、何度辞めようと思ったことか。鈴村教官には随分と泣かされたわ。それでも最終試験の時に言ってくれたのよ。水泳は正直だめだけど、正義感や思いやりの心は誰にも負けてないってね。そのおかげでなんとか卒業にこぎ着けたのよ」
「お母さん、人に聞かれたくないって言う割には、全部喋ってるじゃない」
娘が指摘すると、
「あっ、しまった」
と口にした。
「いい話ですね。彩那、ちゃんと聞いていましたか?」
「ええ、まあ」
「ところで、本日の彩那の得点に変更があります」
急にフィオナの声のトーンが変わった。
「ん?」
「倉沢課長が捜査班の内情を漏洩したので10点減点。同じく梨穂子が警察学校卒業試験に関して漏洩したので10点減点。よって合計0点に訂正します」
「鬼!」
彩那は思わず叫んだ。
「お父さんもお母さんも何てことしてくれるのよ、もう」
「すまん」
「ごめんなさい」
両親は同時に声を上げた。




