運命を左右する、一枚のヒレカツ(1)
翌朝、母、梨穂子が忙しそうに台所を動き回っていた。
夜勤明けにもかかわらず、こうして朝食や弁当の用意をしてくれることに、彩那は心から感謝していた。梨穂子は龍哉にとっては実の母親だが、彩那にとっては義理の母親である。しかし彼女は二人の子どもを分け隔てなく育ててくれている。
実の母を亡くして以来、父親は警察の仕事に逃げていたため、どうにも好きにはなれなかった。しかし梨穂子という素晴らしい女性と再婚してくれたことには、素直に感謝していた。
「アヤちゃん、おはよう」
今朝も元気に声を掛けてくれた。
「おはよう」
まだ龍哉の姿はなかった。自然と女二人の会話になる。
「あら、何だか元気がないみたいね」
母親は、いつもと違う娘の表情を見逃さなかった。
「まあね」
昨夜、奏絵と一緒にダンスの練習をしてみたのだが、コツが掴めるどころか、ますます動きがぎこちなくなってしまった。見栄えのいいように、あれこれ考えれば考えるほど不自然なものになってしまうのだ。
「何か悩みがあったら、遠慮せずに相談するのよ」
黙ったままでいると、
「身体の悩み、それともお金の悩み?」
梨穂子はぐっと顔を寄せてきた。
「あのねえ、お母さん。どうしてその二択になるのよ?」
母親が何と言おうと、これは自分自身の問題である。打ち明けて解決できる種類のものではない。
「あんまり思いつめないことよ。若い頃の悩みというのは、いつしか時が解決してくれるものなんだから」
時と言えば、文化祭まであと2週間。
果たしてこんな調子で本番に間に合うのだろうか。
ようやく龍哉も起きてきたので、3人での食事となった。相変わらず父親は家に帰ってきていない。もう一週間ほど顔を合わせていなかった。
「アヤちゃん、今日はお弁当に大好物のヒレカツが入れてあります」
梨穂子は娘を元気づけようとしているのか、わざと明るい声を出した。
「しかも、龍哉より一枚多くしてあります」
わざわざ当事者を前にして言うことではない。ましてや、食べ物の恨みは恐ろしいのだ。案の定、兄は怖い目つきで口を真一文字に結んでいる。
「さて、それはどうしてでしょうか?」
「何、それ。クイズなの?」
彩那は真面目に考えることなく、トーストを口に運んだ。
「ヒント、お父さんからの指示です」
それには思わずむせた。胸を二、三度叩いて、牛乳を流し込んだ。
「どうして、ここでお父さんが出てくるのよ?」
「なるほど。仕事絡みか」
龍哉が横から口を挟んだ。
「正解!」
梨穂子はお玉を手にしたまま、身体を弾ませた。
「あのね、アヤちゃんにアイドルデビューしてもらいたいんだって」
これには、さすがに牛乳を吹いた。
「ちょっと待ってよ、お母さん。自分で何言ってるか分かってるの? 娘が芸能界に入りたいって言ったら、普通の親はまずは全力で止めるでしょう」
「やっぱり、おとり捜査班の仕事だったか」
龍哉はすべてを悟ったようだ。
「そうなの。ある人気グループに潜入してもらいたいんだって」
彩那は驚きのあまり二の句が継げなかった。
「では、次の問題です。その人気アイドルとは一体誰でしょう?」
いよいよクイズ番組の司会者気取りである。今朝の梨穂子は明らかに気分が高揚していた。仕事とはいえ、芸能界という夢の世界が現実のものとなって、心ときめかずにはいられないようだ。
一方、彩那の脳裏には一抹の不安がよぎった。まさかとは思うが、恐る恐る覚えたての芸能人の名前を口にしてみた。
「ひょっとして、アラセブとか言うんじゃないでしょうね?」
「あら、まあ。大正解! どうして分かったの?」
兄妹は二人揃って椅子から転げ落ちた。
「早速、放課後は都内のダンススタジオへ来てほしいんですって。詳しい話はその時にね」
おとり捜査班――それは警視庁に設けられた非公式な組織である。国民はおろか、警察関係者ですらその存在を知る者は限られている。通常の捜査では行き届かないデリケートな事件を、警察官の家族が年齢や社会的立場を利用して捜査する。
この手法は正式に認められたものではなく、実験的なプロジェクトと位置づけられている。都内では三家族がすでに活動を開始しており、事件解決までのプロセスが余すところなく記録され、警察庁および政府機関に提出される。
その捜査班に選ばれた倉沢家は、他の家族に先駆けて、すでに事件解決の実績をいくつか作っていた。
学校へ向かう彩那の足取りは重かった。
「どうして、よりによってアラセブの一員にならなきゃいけないのよ、まったく」
隣を歩く龍哉にわざと肩をぶつけた。
「俺に八つ当たりするなよ」
「これじゃあ、悩みが解決するどころか、余計に増えちゃったじゃない」
「正確には増えたというより、とてつもなく巨大になっちまったってとこだな」
こんな時、兄はいつも冷静である。
「でも、アイドルの仕事だけは絶対に無理よ。だって私の踊っている姿がテレビで放映されるんでしょ? そんなの公開処刑だわ」
そう言って、彩那は事の重大さに身体が震え出した。
いつもの交差点で、筑間奏絵が小走りに合流してきた。
「聞いたわよ、次の仕事のこと。大変なことになっちゃったわね」
実はこの奏絵も、おとり捜査班の一員である。倉沢家の人間ではないが、推理が得意ということで、彩那が頼み込んで加入させた経緯がある。
「しかも、たった一枚のヒレカツでアイドルやらされるなんて、普通あり得ないでしょ?」
「ヒレカツって?」
料理研究家でもある奏絵はすぐに興味を示した。
彩那は一つ咳払いをして、
「まあそこは、色々と家庭の事情があるのよ」
「でも、考えようによっては、芸能人になれるなんて素敵なことじゃない?」
「あのねえ、これまで私のダンスを見てきて、よくそんな呑気なことが言えるわね」
「だって、友だちが芸能界に入ったら、私も鼻が高いってものでしょ?」
「それは、ちゃんとした芸能人だったらの話でしょ。こんな私のダンスがまかり通ったら、それこそ日本の芸能界は崩壊するわよ」
友人の力説に圧倒されたのか、奏絵は肩をすくめるようにした。長い髪が朝日を受けてきらりと光った。
「あっ、そうだ。今回の仕事は奏絵が引き受けたらいいじゃない」
彩那が手を叩いた。
「それはダメだろ。筑間はあくまでブレインという役目で仕事に参加してもらっているんだから」
龍哉が直ぐさま割って入った。
「そりゃ、そうなんだけど……」
そんなことは分かっている。
元来、奏絵は運動が苦手な女の子である。したがって彼女を現場に出して危険に晒すわけにはいかない。
しかし、ダンスに関しては、彩那よりも遙かに上手なのは確かなのである。
「うーん」
言いたいことは山ほどあるが、今は複雑な思いが頭の中を渦巻いていた。考えることが多すぎて適当な言葉が浮かんでこない。
「とにかく、今からでも遅くないわ。お父さんに直接掛け合って、キャンセルしてもらうことにする」
「でも、もう芸名が決定しているそうよ」
「えっ?」
彩那は目を丸くした。
「黒沢杏奈という名で、今週金曜日にデビューするんだって」
「どうして奏絵の方が詳しく知ってるのよ。いや、そんなことより何その芸名? いや、芸名なんてどうでもいいわ。デビューするのが週末なんて早すぎるわよ」
「こりゃ、かなり動揺してるな」
龍哉が横からぼそっと言った。
「あのバカ親父。まずは外堀を埋めて逃げられないようにするつもりね。よくもまあ毎度毎度、可愛い娘を窮地に陥れてくれるわね」
「可愛いかどうかはさておき、黒沢杏奈ってのは、本名とさほど変わらないじゃないか」
龍哉が指摘した。
「確かにそうね」
彩那はすかさず食いついた。とりあえず目の前のことから順に片付けていくしかない。別にどんな芸名だって構いやしないが、それならもっと本名とは違った名前があるではないか。
「倉沢彩那と黒沢杏奈か。本当によく似てるわね」
奏絵も実際口にして、妙だと気づいたようである。
彼女は身の回りで起きた不可解な出来事を放ってはおけない性格なのである。今もまた、この芸名にどんな意図が隠されているのか考え始めている。
「しかしどんな形であれ、芸能界に入るなんて誰もが経験できることじゃないぞ」
龍哉は感慨深く言う。
「そりゃまあ、そうかもしれないけど……」
彩那にはいつまでも踏ん切りがつかない。
「それはそうと、アラセブについて詳しく知っておく必要があるな」
「そんなこと言ったって、どうすれば……」