ホップ・ステップ・ジャンプ(1)
翌朝は母親、梨穂子の声で目が覚めた。
「アヤちゃん、いつまで寝てるの? そろそろ起きないと間に合わないわよ」
無情にも布団が剥ぎ取られると、カーテンの隙間から差し込む光が眩しかった。
「あれ、ここは?」
一瞬頭が混乱した。自分の部屋とはまるで違った光景が目の前に広がっていたからである。そうか、昨日から都内のマンション暮らしなのであった。
「ところで、お母さんがどうしてここに居るの?」
寝ぼけまなこで訊くと、
「二人の朝食を用意しに来たのよ」
と優しく答えた。
「それにしても、昨日は大変だったわね」
「あのくらい何でもないわ」
と強がってはみたものの、足の付け根辺りに痺れを感じた。筋肉痛である。生放送だけに張り切って身体を動かしたせいである。
着替えて部屋を出ると、龍哉がテレビの前を陣取っていた。微動だにしない真剣な様子に、
「何、観てるの?」
と訊いた。
「昨夜、お前が出演した番組だよ」
「えっ、どれどれ。最初から見せてよ」
彩那も兄の横に腰を下ろした。
「筑間が録っておいてくれたらしい」
そう言って、リモコンをテレビに向けた。
番組の冒頭から映像が流れる。
昨夜自分が立っていた舞台を、こうして視聴者目線で見るのは斬新な気分だった。
「ほら、ここよ。アヤちゃんが映っているでしょ」
母親は身を乗り出して、画面の端っこを指さした。
「お母さん、指で隠れて見えないわよ。ていうか、小さっ!」
しかし次の瞬間、黒沢杏奈は絶妙なカメラワークで画面から追い出されていた。これでは顔の判別すら難しい。
「ねえねえ、踊ってるところも見せてよ」
龍哉が再びリモコンを操作した。
アラセブのメンバーが整列して、音楽に合わせて踊り始める。前列の動きはまったく無駄がなく、小気味よい。
最後列一番後ろの端で黒沢杏奈が踊っていた。全身のほとんどが前列のメンバーによって隠されているものの、飛び出した手足の動きは周りと合っていなかった。
カメラが引いてメンバー全員を写し出すと、一人だけ異質の存在ができ上がっていた。
「こりゃ、マズいわね」
彩那は素直な感想を漏らした。
「最後に新人紹介があるのよ。そこでしっかりと顔が映ってるわ」
映像を早送りにした。
番組の最後に、アラセブの新曲PVが映し出される。それに重ねて出演者、スタッフらの名前が左から右へと流れていく。画面の隅の小窓から、黒沢杏奈が語りかける趣向である。なるほど、小さいながらも顔がはっきりと映っている。
「何だか恥ずかしいわ」
「でも、とても可愛く映ってるわよ。他のメンバーに引けを取らないわ」
梨穂子は嬉しそうに言う。
「そう言われると、悪い気はしないけど」
「親子揃って、何呑気なこと言ってるんだよ」
龍哉が二人の会話を切り裂いた。
「いちいち、うるさいわねえ」
「マネージャーは黙って見てればいいの」
娘と母親は同時に抗議の声を上げた。
「今日は遅番だから、横浜まで送っていこうか?」
食事をとった後、母親が提案した。
それには、すかさずフィオナの声が割り込んできた。
「梨穂子、余計なことはしなくていいのです。二人はおとりとして身をさらす必要があります。公共交通機関を利用させなさい」
「そうですね。分かりました」
母親の声は残念そうだった。
おとり捜査の支度を済ませると、二人はタクシーで東京駅に向かった。時間にして十分も掛からない距離である。
タクシーの中で、奏絵が回線に入ってきた。
「彩那、おはよう。今日もお仕事頑張ってね」
何故か、いつも以上に明るい声。
「食事の用意ありがとう。とってもおいしかったわ。せっちんにもお礼を言わなきゃね」
「それはそうと、ビデオは観た?」
「ええ、飛ばし見だけど、まああんなものでしょう」
それには奏絵から反応がなかった。何かを考えているようである。
「ん、どうかした?」
「実は言いにくいのだけど、今後のために言っておくわね」
彼女は意を決したようだった。
「世間では、黒沢杏奈は結構話題に上っているのよ」
「そうなの? それってまさか……」
何だか、とてつもなく嫌な予感がする。
「アラセブって、やっぱり思った以上にみんなから注目されているのね。SNSではあなたの話題で持ちきりよ」
「テレビにほとんど映ってないのに?」
「彩那は知らないと思うけど、昨日の検索ワードランキング第2位に『黒沢杏奈』が入っているのよ」
「ええっー」
「やっぱりファンの目は厳しいわ。あいつは何者だとか、下手にもほどがあるとか、これも番組の企画なのかとか、炎上目的でわざとやってるんじゃないかって悪口ばかりなの」
「何ですって」
「私も書き込みを見つける度に反論してたんだけど、とても追いつかないのよ。それに関係者乙なんて言われる始末だし」
「早速ネット界隈ではそんな評価が下されているのね」
「私は本当に関係者なんだもの、図星で辛かったわ」
そこへ瀬知明日香が入ってきた。
「一部のファンからは、アラセブのお荷物、苦労沢杏奈って言われてます」
「なかなかうまいこと言うな」
龍哉がぼそっと言った。
「あんたはマネージャーでしょ。どっちの味方なのよ、まったく」
奏絵はさらに続ける。
「フィオナさんに相談したら、そんなの放っておけって。杏奈はアイドルを目指してるのではなく、犯人逮捕を目指しているのだからって」
「たまには、いいこと言うわね」
彩那が感心すると、
「アイドルとしての得点ではなく、おとり捜査員としての得点を上げてもらいたいものです」
と指令長。
それで思い出した。
「そういえば、昨日の私の得点は?」
「あれ、言ってませんでしたか?」
「聞いてないわよ」
「百点です」
指令長はあっさりと言った。
「えっ、本当に? そんなの初めてじゃない」
彩那は嬉しくなった。
「ねえ、どうしてそういう高得点の時に限って、ひた隠しにするわけ?」
「別に隠した訳ではありません。捜査員は通常百点で終わるのが当たり前ですから、取り立てて言う必要はないのです」
「私には必要よ。だって満点は初めてなんだから」
フィオナはため息をついて、
「採点は加点法ではなく、減点法です。何もなければ、満点に決まっています」
「そりゃそうだけど、何だか嬉しいじゃない」




