黒沢杏奈、アイドルデビュー(4)
杏奈は一度大きく肩で息をしてから、児島華琳と接触するために広いスタジオ内を歩き始めた。
「彼女なら、入口付近にいますよ」
菅原刑事が教えてくれた。
特殊眼鏡の赤枠を頼りに、彼女を探し当てた。華琳は随分と小柄な女の子である。身体が小さいので、それを補うために元気一杯に振る舞っているという印象だった。
「華琳さん、はい」
杏奈はポケットからのど飴を取り出すと、彼女に差し出した。
「あら、ありがとう」
華琳は一瞬笑顔で応じたが、
「でも、差し入れは遠慮しておくわ」
と残念そうな声を出した。やはり猪野島朱音のことが頭にあるからだろう。
「華琳さんはダンスがお上手ですね」
それには嬉しそうな顔つきで、
「黒沢さんも、きっと上手くなるわよ」
と言ってくれた。
「最近、身の回りで不審なことが起きてないか、訊いてみなさい」
とフィオナ。
その件を持ち出すと、
「どうして、そんなこと訊くの?」
と訝しげな目を向けた。
「最近メンバーには、不幸な事故が続いているって、プロデューサーから聞いたからよ。私、デビューすることになって、それが気掛かりで」
「ああ、そういうこと」
華琳は警戒心を解いてくれた。
「実を言うと、私もちょっと心配になっていたの」
須崎多香美が少し離れた場所から、二人に強い視線を投げかけていた。リーダーとして、新人がどんな人物なのか見極めようとしているのだろう。
「でも、私は今のところ怖い思いをしたことはないけどね」
「そう、それならいいのよ」
どうやら彼女は、メンバーが五十音順に襲われていることに気がついていない様子である。これは外山がみんなを心配させまいと、脅迫状について公表してないのだから無理もない。
「それでは休憩終わりまーす。みんな舞台に集合して!」
チャールズ中西の声がスタジオに響いた。
その後もリハーサルは続けられた。
本番1時間前。
シャワールームで汗を洗い流してから、楽屋で着替えとメイクが行われた。5人ずつメンバーが鏡の前に座って、テレビ用の化粧をして髪型を整えていく。普通の女子高生が次々とアイドルに変身していくのは壮観だった。
杏奈についたスタイリストはやや小太りの中年女性だった。他の誰よりも手際がよく、短時間でアイドルに仕上げていく。
「いよいよ、デビューが近づいてきましたね」
彼女は髪を持ち上げて、ドライヤーを忙しく動かしながら言った。
「はい、今はとても緊張してます」
「その眼鏡、なかなか重厚な造りですね。重くないですか?」
「大丈夫ですよ」
「アラセブは目の悪い子が多いのですが、ダンスが激しいから、みんなコンタクトレンズをしてるのですよ」
「そうなんですか」
「そちらのイヤホンは、そのままつけておきますか?」
彼女はおとり捜査班の通信装置に気がついたようである。
「実は難聴で、左の耳が聞き取りにくいのです」
杏奈は前もって準備していた台詞を言った。
「右の耳は大丈夫ですか?」
「はい」
「というのも、メンバーは全員イヤーモニターをつけますので」
スタイリストは最後に、片方のイヤホンと小型マイクが一体化した装置を頭に被せてくれた。
「特にコンサート会場では、観客の声援などで楽器の音が聞こえないことがあるんです。ですから、イヤホンから聞こえた音楽に合わせて歌って踊るのですよ」
「ああ、なるほど」
楽屋のドアがノックされて、女性のスタッフが顔を覗かせた。
「本番15分前です。準備願いまーす」
杏奈は立ち上がった。
廊下に出ると、スタジオの入口付近が慌ただしくなっていた。遠くに児島華琳の背中が見える。その背後には菅原刑事がピタリとついていた。彼女のガードは完璧である。
「そうだ、フィオ。このマイクに私たちのやり取りが全部入っちゃうんじゃない?」
杏奈はマイクを手で覆って呼びかけた。
「プロデューサーに言って、マイクの配線は切ってあります。つまりダミーですから、我々の会話が聞かれることはありません」
さすがに指令長は事前に準備を済ませていた。
スタジオ内は生放送前の最終チェックで、スタッフの大声があちこちで飛び交っている。
須崎多香美をはじめ主要なメンバーは、台本を広げて掛け合いの練習をしていた。
そこへチャールズ中西が通りかかった。
「黒沢さん、もうすぐ本番ですから、そんな所に突っ立ってないで、早くセットの中に入ってください」
「台本を持っている子がいますが、番組内で劇でもやるんですか?」
「いいえ、彼女たちは番組進行役です。ゲストとのトークもあるんです。ですからそのチェックをしているのですよ」
「えっ、トークって台本があるんですか?」
杏奈は驚いた。
「そりゃそうですよ。もちろん多少のアドリブもありますけど、予め何を話すのか、どう掛け合うのかは全て決まっています」
「へえー」
「生放送は撮り直しができない、一発勝負ですからね。台本は極めて重要なのですよ」
「なるほど」
「とにかく黒沢さん、早くセットの中へ入ってください」
「はい」
太いケーブルの束を跨いで舞台に上がると、スタッフの一人が立ち位置を教えてくれた。
無数のスポットライトを浴びているせいで、セット内は異常に暑かった。身体にフィットした衣装だから、なおさらそう感じるのかもしれない。この格好で激しいダンスをするのはかなりの重労働に思えた。
杏奈のすぐ隣にハーフを思わせる顔立ちの女の子が立った。くりくりとした目が特徴的である。
自然と目が合うと、
「私、羽島唯っていうの。よろしくね」
と手を出した。
「あかさたな、は……」
「変なの。どうかした?」
唯は不思議そうな表情を浮かべた。
苗字を確認してみたのである。彼女が狙われるとしたら、かなり後ろの方だ。
「こちらこそ、よろしく」
二人は握手を交わした。
「ねえねえ、黒沢杏奈ちゃんだっけ。黒アンって呼んでいい?」
随分と気さくな子である。
「ええ、構わないけど」
杏奈は気軽に応じた。
「私のことは、ユイでいいよ」
「ねえ、黒アンはどこのダンススクール通ってたの?」
それには言葉が詰まってしまった。あれほどレベルの低い踊りを見せられたら、誰もが尋ねてみたくなる質問だろう。
「ええっと、そう、瀬知ダンス教室ってとこ」
「ふうん、聞いたことないけど、都内?」
「そうよ。最近できたばかりのスクールだから」
「そっか。先生はどんな人?」
「中学生、いや中学生の娘さんがいてね。その子がまた可愛くてダンスが上手なの」
「へえ」
「私はあんまり好かれてないみたいだけど」
「あはは」
唯は快活に笑った。
「ところで、黒アンのマネージャーって格好いいよね?」
「どこが?」
「もしかして黒アンの彼氏?」
「そんな訳ないでしょ。兄貴よ、兄貴」
「へえ、そうなんだ」
唯は身体を弾ませた。
「じゃあ、今度私に紹介してよ」
「別にいいけど」
「約束だからね」
杏奈は彼女の明るい性格に圧倒され気味だった。
「ねえねえ、また来てるわよ」
メンバーの誰かが囁いた。
それには即座に耳をそばだてた。もし何らかの異状があれば、フィオナに報告しなければならない。メンバーの視線の先に目を遣った。
スタジオ入口付近に若い男が2人、中年の女性一人がこちらを見て立っている。
「あれは誰?」
唯に訊いた。
「さすが黒アンもお目が高いわね。ベイビーアンドボーイズの斉藤と中佐古よ。お目当てはタカビーなんだから。私たちの出る幕じゃないわよ」
「タカビーって?」
「リーダーに決まってるじゃん。須崎多香ビー」
それにはつい笑ってしまった。
「それじゃあ、隣にいる女の人は?」
「楠木かえで、昔の女優らしいよ」
「そこ、無駄口しないで、しっかり集中して」
多香美が振り返った。
「ほら、黒アンのせいで、怒られちゃったじゃん」
「ごめん、ごめん」
と謝ってから、
「ねえ、マネージャー」
小声で呼び出した。
「何だ?」
「今、入口付近に、じっとアラセブの方を見ている芸能人がいるのよ。ちょっと気になるから調べてくれない?」
「メンバーの誰かに訊けよ」
「もうすぐ本番が始まるから、それができないのよ」
「菅原、入口の3人に近づいて写真を撮りなさい」
フィオナがすかさず指示を出した。
「了解」
菅原刑事がすぐに動いてくれた。




