黒沢杏奈、アイドルデビュー(2)
「それでは、黒沢杏奈はマネージャーと一緒にテレビ局へ向かいなさい。下にタクシーを待たせてあります」
フィオナからの指令。
一瞬、黒沢杏奈という名に反応できなかった。現場ではこれが通名になるのだから、しっかり意識しておかなければならない。
「はい、すぐ出発します」
代わりに龍哉が返事をした。
そこへ菅原刑事の声が入ってきた。
「児島華琳が今、マネージャーの車で自宅を出ました」
「そのまま尾行を続けなさい」
「了解」
「ところで、彼女の学校生活に何か変わった点はありませんか?」
「はい。校長と担任の双方に話を聞きましたが、今のところ何の変化もありません」
「分かりました」
そんな会話を聞きながら、兄妹二人は階下に降りてタクシーに乗り込んだ。
「フィオ、今日のスケジュールは?」
運転手の目をはばかりながら、小声で訊いた。
「すぐ隣にマネージャーがいるのですから、彼に訊いたらどうです?」
「あっ、そうか」
龍哉がマネージャーであることをすっかり忘れていた。
新人アイドルは目で催促した。
「ええっと、本日のスケジュールは……」
そう言いながら、大袈裟に手帳をめくる。
「5時にテレビ局入り。アラセブのメンバーと初顔合わせ。プロデューサーの外山さんと振付師のチャールズ中西さんが同席する予定です。
その後、番組のリハーサルがあります。ここで新曲とダンスの最終確認。そして8時からは生放送に出演。終了後に軽いミーティングが行われます。杏奈の歓迎会も兼ねているそうです」
マネージャーは淡々と言った。
「ちょっと、初日からかなりの過密スケジュールね。明日も、明後日もあるんでしょ?」
「明日は、横浜でミニコンサート。明後日はファン感謝祭、新曲CDのプロモーションと握手会があります」
「杏奈、まるで本物のアイドルみたいね」
奏絵の声が割り込んできた。
「もう、忙しすぎるでしょ、これ。早く家に帰って宿題しなきゃいけないのに」
「そんな慣れないことをいきなり始めなくても」
友人の一声。
「そうだ、瀬知さんもこの回線にいる?」
「はい。今日からみなさんと同じスマートフォンを貸与しています」
フィオナが答えた。
「せっちん、これ、普通の電話じゃないから気をつけてね。そもそも専用回線で捜査班の連絡にしか使えないし、すべて録音されているから、余計なこと言っちゃダメよ」
自分の失敗を踏まえてそう伝えた。
「瀬知さん?」
何も応答がないことを不安に思って、呼び掛けてみた。
「はい、聞こえてます」
いつもの憮然とした声。
奏絵がそれを引き継いで、
「今日は私がずっと一緒にいますから、使い方を教えておきます」
「お願いします」
指令長が言った。
「ダンスはせっちんに教えてもらったから、今夜は大暴れしてやるわ」
「彩那、いや杏奈。大暴れって。テレビに映るんだから、ちょっとは自粛してよね」
「物のたとえよ、たとえ」
「ほら、隣で明日香ちゃんも笑ってるよ」
奏絵はそんな風に幼馴染みの様子を伝えてくれた。
二人の乗ったタクシーはテレビ局の裏口で停車した。
他にも車から降りてくる人の姿が見える。
「ねえねえ、あの人たちって芸能人なのかな?」
新人アイドルは辺りを見回しながら言った。敢えて地味な格好をしているためか、テレビで観る華やかさは微塵も感じられない。
通用門にはきちっとした格好の守衛が立っていた。いつしかダンススタジオで見た一ファンとはまるで違う。何かあれば、すぐにでも飛びかかってきそうな威圧感があった。
否応にも緊張が高まってくる。
守衛に近づくと身元確認されたので、龍哉がプロデューサーから貰っていたIDカードを見せた。すると一転、笑顔で通してくれた。
「フィオ、外部の人間がテレビ局に侵入するのは難しいわね」
「どういうことですか?」
「ほら、猪野島朱音が局内で襲われたじゃない? あれは部外者には無理ってことよ」
「いいえ、そうでもありませんよ。後ろを見てみなさい」
振り返ると、弁当の入った袋を両手に提げた男性の姿があった。守衛と何やら言葉を交わすと中へ入ってきた。
「あのように外部からでも、侵入することは可能です」
「なるほど」
一階ロビーの掲示板にスタジオの割り当て表が貼ってあった。マネージャーがそれを確認する。
「アラセブの生放送は、B1スタジオ。こっちだぞ」
廊下は様々な人で溢れかえっていた。
ラフな格好をしたスタッフ、しっかり化粧をして、見栄えのよい衣装をまとった芸能人、さらには動物の着ぐるみを上半身だけ脱いだ中年男性などが平然と行き交っている。
廊下の角を曲がったところで、杏奈は台車とぶつかりそうになった。
天井まで届きそうな大きな花輪が載せられている。あともう少しで倒れてしまうところだった。いかにもアルバイトといった若者二人が先を急いでいた。
二人は「すみません、すみません」と言うだけで、強引に廊下を進んでいく。このままでは花輪はそのうち台車から転がり落ちるのは目に見えている。
「お手伝いしましょうか?」
杏奈はすかさず声を掛けた。
若者の一人は、一瞬何かを考えたようだったが、
「では、B1スタジオまでお願いできますか?」
と答えた。ちょうど目指すスタジオである。
「構いませんよ」
杏奈は倒れそうな花輪を手で支えながら台車の後ろをついていった。
後ろからマネージャーが何か言いたそうに続いた。
「こちらです」
スタジオの鉄の扉は大きく開かれており、その向こうには大勢の人が慌ただしく動いていた。木材が剥き出しになったセットの裏側や、床に敷き詰められたケーブルを避けながら台車は進んだ。
「ちょっと、何やってたんだ。もう時間過ぎてるぞ」
威圧的な声が容赦なく若者、そして杏奈の背中に浴びせられた。
「すみません。渋滞で遅くなりました。申し訳ございません」
前を行く彼らはただ頭を下げるばかりである。
「しっかりしてくれよ」
また別の声が浴びせられた。怒りの矛先は容赦なく杏奈にも向けられた。
それには龍哉が我慢し切れず、何か言おうとしたが、事を荒立てるのは得策ではないと判断したのか言葉を飲み込んだ。
スタッフたちは、今日からアラセブに加入する新人の顔を知らないからか、あるいはまさかアイドルが台車を押して入ってくるとは思ってもみなかったからか、杏奈のことをすっかり業者の一員と勘違いしていた。
巨大な花輪が無事に大道具スタッフの手に渡ったので、杏奈の両手も解放された。
「本当に助かりました。ありがとうございます」
二人が並んで丁寧にお辞儀をした。
「どういたしまして」
杏奈は笑顔で返した。
「黒沢さーん、お待ちしてましたよ」
頭上から声が降ってきた。
天井を見上げても、大きな照明器具が並んでいるだけで誰の姿もない。声の主を探そうときょろきょろしていると、スタジオを一望できる調整室の階段からチャールズ中西が下りてきた。
「あなたは今日からアイドルなんだから、裏方の手伝いはしなくていいの」
その声に周りのスタッフが凍りついた。ずらりと驚きの顔を並べた。近くにいた花屋の若者も血の気が引いた顔をしている。
「アラセブの方とは知らず、申し訳ありませんでした」
二人は、ばつの悪そうな表情を浮かべている。
インカムを付けた小太りの男性が近づいてきた。
「さっきは怒鳴ってしまって、すみませんでした」
「いえいえ」
「さあ、こちらへどうぞ」
中西は軽く背中を押すようにして案内してくれた。
マネージャーとはここで別れた。彼は他の関係者らしき人たちを見習って、壁を背にして立った。
天井のライトが煌々と照らされている舞台へ移動した。すでに6、7人ほどの女の子が集まっている。一見すると、私服姿の普通の女子高生である。
杏奈は胸の鼓動が速くなった。いよいよ、メンバーと対面である。
中西の後についてみんなの輪に入った。
ここで特殊眼鏡が動き始めた。事前に登録した顔写真を元に、同時に15人までの顔が自動認識され、その名前がローマ字で表示される。
続々と集まってくる女の子たちの顔がオレンジ色の枠で切り取られ、それぞれに小さな文字が浮かび上がっている。
その中に、児島華琳を見つけた。
彼女は重要人物として特別に赤い枠で表示されている。杏奈よりも背は低いが、ポニーテールが元気に揺れていた。
彼女には菅原刑事がついている。しかしひとたび舞台に上がれば、彼女を守れるのは自分しかいないのだ。さらに自分自身の安全にも注意しておかなければならない。
「今日からアラセブのメンバーになりました、黒沢杏奈です。どうかよろしくお願いします」
元気よく頭を下げると、誰もが品定めをするように頭の先からつま先までをじっくり眺めた。
「こちらこそ、よろしくね」
メンバーたちは口々に挨拶を返した。




